雁礫(がんつぶて) 大蔵流本
▲シテ「これはいづれもご存じの者でござる。この間は久しういづ方へも出ねば、心が屈して悪しうござる。今日は天気も良うござるによつて、野遊びに出ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に今日は天気も良うござるによつて、何ぞ獲物のないと申す事はござるまい。その上一両日中には客を申し入れるはずでござるによつて、何ぞ射たらばその時分のもてなしに致さうと存ずる。いや。何かと云ふ内に早、野へ出た。いつもこの辺りには鳥が居るが、今日はすきと見えぬ。いや。あれに雁が居る。さらばこれを射て取らう。《と云うて弓矢を番へ、名乗座「遠い」と云うて目付柱の方より狙ひ、「これからは寄りて射よう{*1}」と云うて笛の上の方へ行き、絃など湿し矢を試しなどして居る内に、アト出て打ち殺す。シテ目付柱の方へ行き狙ふ時分、アト出て良し。一の松にて名乗る》
▲アト「なうなう。忙しや。急な御使ひに参る。急いで参らう。いや。あれに見事な雁が居る。飛礫を打つて見よう。《石を拾うて打ち付くる真似する》
ゑい。やつとな。さればこそ中つた。なうなう。嬉しや嬉しや。さらば持つて参らう。
▲シ「やいやいやい。そこな者。
▲ア「や。
▲シ「やとは。おのれは憎い奴の。なぜに諸侍の狙ひ殺いた雁に手をさゆるぞ。
▲ア「いや。申し。見ればこなたは御仁体でござるが、よう思うても見させられい。何と雁が狙うたばかりで死ぬるものでござるぞ。これは私の飛礫で打ち殺いた雁でござるによつて、かう持つて参る。
▲シ「おのれそのつれを云うて。そこへ置いて行かずば、ために悪からうぞよ。
▲ア「ために悪からうと云うて、何と召さるぞ。
▲シ「目にものを見せう。
▲ア「それは誰が。
▲シ「身共が。
▲ア「こなたの分で目にものを見せうと云うて、深しい事があるものか。
▲シ「ていとさう云ふか。
▲ア「おんでもない事。
▲シ「悔ようぞよ。
▲ア「何の悔よう。これはどうしても身共が持つて参る。
▲シ「おのれ、一矢に射殺いてくれう。
▲ア「あゝ。許させられい。
▲シ「おのれ、逃げたりと逃がさうか。《一遍追ひ廻す》
▲ア「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲済人「あゝ。いや。申し申し。この御政道正しい御代に、殊に見れば御仁体でござるが、何事をわつぱと仰せらるゝぞ。
▲シ「さればその事ぢや。和御料も聞いてくれさしめ。今日は天気も良いによつて、野遊びに出ておりやるが、あれに雁が居たによつて、身共が狙ひ殺いて置いたれば、あの者がいづ方からやら来て、取つて行かうと云ふによつて、それを云ひ上つての事ぢや。某が狙ひ殺いた雁ぢやによつて、取つてくれさしめ。
▲済「その通りに申しませう。まづ待たせられい。
▲シ「心得た。
▲済「いや。なうなう。その雁はあのお侍の狙ひ殺して置いた雁ぢやと云はるゝ程に、あのお侍へ返さしめ。
▲ア「いや。申し。こなたもよう思し召しても御らうぜられい。生きた雁が、何と狙うたばかりで死ぬるものでござるぞ。これは私の飛礫を打つて打ち殺いた雁でござるによつて、返す事はならぬと云うて下されい。
▲済「心得た。申し申し。その通り申してござれば、あの者が飛礫で打ち殺いた雁ぢやによつて、進ずる事はならぬと申しまする。
▲シ「又そのつれな事を云ひまする。よう思うてもお見やれ。あの雁が何と飛礫などで死ぬるものであらうぞ。どうあつても身共が狙ひ殺いた雁に違ひはない程に、是非ともこちへおこせと云うておくりやれ。
▲済「心得ました。いや。なうなう。今のをお聞きやつたか。
▲ア「中々。承つてござる。
▲済「とかくこれでは理非が分からぬによつて、身共が思ふは、その雁を元の所へ置いて、あのお侍に射させて、中つたならばお侍におまさうず。もし中らずば和御料取つて行たが良うおりやる。
▲ア「これは一段と良うござらうが、最前は生きた雁でござる。只今は死んだ雁でござるによつて、これは中るは必定でござる。これはなりますまい。
▲済「いやいや。さう仰しやるな。あの人のなりを見た処が、中々中りさうにはないによつて、平に身共が云ふ通りにさしめ。
▲ア「それならばともかくも致しませう程に、その通り云うて下されい。
▲済「心得た。いや。申し申し。これではとかく理非が分かりませぬによつて、あの雁を元の所へ置いて、こなた射させられて、中つたならば取らせられうず。もし中らずば、あの者に遣らせられたが良うござる。
▲シ「和御料もよう思うてもお見やれ。最前生きた時でさへ狙ひ殺いたものを、今では中るは知れた事ぢや。射るには及ばぬ程に、こちへ取つてくれさしめ。
▲済「さりながら、これを射させられねば、こなたのお負けでござる。
▲シ「何ぢや。某が負けになる。
▲済「中々。
▲シ「それならば是非に及ばぬ。射て見せう程に、最前の所へ雁を置けと云うておくりやれ。
▲済「心得ました。これこれ。今の通り云うたれば、射て見せう程に元の所へ置けと云はるゝ。
▲ア「それならば元の所へ置きませう。確かこの辺りでござつた。
▲シ「これこれ。その辺りではない。つゝとこちでおりやる。
▲ア「いやいや。この辺りでござる。さあさあ。早う射させられい。
▲シ「それならば今射て見せう。《と云うて矢を番へて、舞台の真ん中頃よりつかつかと雁の方へ行くを見て》
▲ア「あゝ。申し申し。何と生きた雁の、その様に近う寄するものでござるぞ。その上最前はその辺りにはござらぬ。つゝとあれにござつた。元の所から射させられい。
▲シ「いやいや。最前もこの辺りから狙ひ殺いた。
▲ア「いやいや。その辺りではござらぬ。つゝとあれでござる。
▲シ「それならばこの辺りから射て見せう。《と云うて射る。中らぬ故、アトは雁を取つて笑うて、「良い仕合せをした」と云うて引つ込む。済人も笑うて、「殊の外の下手ぢや」と云うて引つ込むを見て》
やいやいやい。やあ。その雁は取るとも、片羽交ひなりとも置いて行け。
▲ア「片羽交ひを何にする。
▲シ「羽箒にするわやい。
▲ア「いやいや。片羽交ひも遣る事はならぬぞならぬぞ。《と云うて引つ込む》
▲シ「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて追ひ入る》
校訂者注
1:底本は、「寄りてい」。
底本:『狂言全集 中巻』「巻の二 三 雁争」(国立国会図書館D.C.)
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