成上り(なりあがり) 大蔵流本
▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今日は清水の縁日でござるによつて、参詣致さうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は清水の御縁日ぢやによつて参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「一段と良うござりませう。
▲主「それならば太刀を持て。
▲シ「畏つてござる。はあ{*1}。お太刀を持ちましてござる。
▲主「さあさあ来い来い。
▲シ「参りまする参りまする。
▲主「扨今日は天気も良いによつて、定めて大参りであらう。
▲シ「誠に今日は天気も良うござるによつて、定めて賑やかでござらう。
▲主「もはや殊の外賑やかになつた。
▲シ「段々賑やかになりまする。
▲主「いや。何かと云ふ内に、これは早、清水へ来た。
▲シ「誠に清水でござる。
▲主「汝もこれへ寄つて拝め。
▲シ「畏つてござる。
▲主「いつ参つても殊勝なお前ではないか。
▲シ「仰せらるゝ通り、殊勝なお前でござる。
▲主「扨今夜は通夜をする程に、汝もそれへ寄つて休め。
▲シ「畏つてござる。
▲主「夜が明けたならば起こせ。
▲シ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。扨も扨も、いつもとは云ひながら今夜も大参りぢや。さらば某もこの辺りに休まう。《太刀を持ちながら寝る》
▲スッパ「これはこの辺りに住居致す、心も直にない者でござる。今日は清水の御縁日でござるによつてあれへ参り、何か良さゝうな物もあらば調儀致さうと存ずる。いや。誠に今日は大参りでござるによつて、何ぞ仕合せのないと申す事はござるまい。いや。これに何者やら良い太刀を持つて、余念もなう寝て居る。これを調義致さう。《杖竹を持ち出て太刀と取り替へて》
なうなう。一段の仕合せを致いた。急いで罷り帰らうと存ずる。
▲シ「あゝ。よう寝た事ぢや。いや。早夜が明けた。頼うだ人を起こさう。これはいかな事。身共はお太刀を持つて寝たが、いつの間にやらこの様な杖になつた。扨々苦々しい事ぢや。何としたものであらうぞ。さりながら、頼うだ人はたらし良いお方ぢやによつて、面白可笑しう申しないて置かうと存ずる。申し申し。
▲主「何事ぢや。
▲シ「夜が明けましてござる。
▲主「誠に夜が明けた。《拝をして》さらば下向せう。
▲シ「それが良うござらう。
▲主「さあさあ来い来い。
▲シ「参りまする参りまする。《杖を見て、「未だお太刀にならぬ。」》
▲主「扨いつもとは云ひながら、夜前も大参りであつたなあ。
▲シ「誠に大参りでござりました。
▲主「扨何も珍しい話はなかつたか。
▲シ「さればその事でござる。私の居た辺りで色々の雑談を申してござるが、中にも物の成り上がると申す話を致いてござるが、聞かせられてござるか。
▲主「いやいや。身共は聞かぬ。それは何といふ話ぢや。云うて聞かせい。
▲シ「世間に娘が姑に成り上がるは早いものぢやと申しましてござる。
▲主「これは珍しうもない事ぢや。
▲シ「又犬ころが親犬に成るも早いものぢやと申してござる。
▲主「これも珍しうもない事ぢや。
▲シ「また渋柿が熟柿に成ると申しましてござる。
▲主「これも熟柿に成らいで叶はぬ事ぢや。
▲シ「又珍しい事を申しましてござる。
▲主「それは何と云うた。
▲シ「山の芋が鰻に成るは定ぢやと申しました。
▲主「某もさう聞いたが、これは合点の行かぬ事ぢや。
▲シ「いやいや。これは真実でござる。その成り様は、長雨が降つて山などが崩れまして、山の芋が川へ流れ込うで鰻に成ると申しまする。
▲主「いかさま。これは成るまいものでもないが。もはや他には何も珍しい話はないか。
▲シ「いや。又田辺の別当の朽ち縄太刀と申す事を話いてござるが、聞かせられてござるか。
▲主「いゝや{*2}。聞かぬが。それは何といふ話ぢや。
▲シ「まづ田辺の別当は大有徳な人でござるが、その別当の太刀は名作物で、余人の目には朽ち縄に見えまする。又自然盗人などが這入りますると、おのれと抜け出でゝその盗人を追ひ散らすと申してござるが、何と奇特な事ではござらぬか。
▲主「誠にこれは近頃奇特な事ぢや。
▲シ「総じて人の有徳になり出世する時分には、必ず色々の物が変じて成り上がると申しまする。それにつき、こなたにも近頃めでたい事がござる。
▲主「むゝ。それはいかやうな事ぢや。
▲シ「追々御加増を取らせられ、くわつと御立身をなされう瑞相に、ちと物が変じて成り上がりました。
▲主「それは何が成り上がつたぞ。
▲シ「物が。
▲主「何が。
▲シ「物が。
▲主「何が。
▲シ「こなたのお太刀がこの様な杖になりました。
▲主「あのやくたいなし。しさり居ろ。
▲シ「はあ。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。
校訂者注
1:底本は、「あ」。
2:底本は、「いやゝ」。
底本:『狂言全集 中巻』「巻の二 六 成上り物」(国立国会図書館D.C.)
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