鱸庖丁(すゞきばうちやう) 大蔵流本

▲アト「これは淀辺に住居致す者でござる。某都に伯父を一人持つてござるが、この度官途なりを致さるゝについて、鯉を求めてくれいと申されてござれども、私の事でござるによつて、今に求めませぬ。今日はあれへ参り、良い様に申しないて置かうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠にあの伯父御はつゝと正直な誑し良い人でござるによつて、面白可笑しう申したならば、誠にせられぬと申す事はござるまい。いや。参る程にこれでござる。まづ案内を乞はう。《常の如く》
▲シテ「ゑい。そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されいで。
▲ア「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲シ「それは念の入つた事ぢや。扨今は何と思うておりやつたぞ。
▲ア「只今参るも別なる事でもござらぬ。この度官途なりをなさるゝによつて、鯉を求めてくれいとな仰せられてござる。
▲シ「いかにも左様に申しておりやる。
▲ア「私の事でござれば方々と詮索致いて、淀一番の一鯉を求めました。
▲シ「それは近頃満足致す。
▲ア「とてもの事に生け鯉に致いて上げうと存じて、淀の三本目の橋杭へ藤蔓を以て繋ぎまして、今日これへ参りさまにそろりそろりと引き上げてござれば、何やら手の内が軽うござつた。総じて鯉は水離れが大事ぢやと申すによつて、ちやつと引き上げて見ましたれば、申し。大事の事がござつた。
▲シ「何としたぞ。
▲ア「片身さかうて獺が食べましてござる。
▲シ「何ぢや。片身さかうて獺が喰うた。
▲ア「疵のついた物は御用に立ちますまいと存じて、そのお断りに参りましてござる。
▲シ「やれやれ。そなたは念の入つた人ぢや。その事ならば、誰ぞ人を以てなりと仰しやらいで。自身の御出、満足致す。
▲ア「はあ。
▲シ「扨一つ申さう程に、かう通らしめ。
▲ア「お取り込みにもござりませう。私はもはやかう参りませう。
▲シ「いやいや。仕舞ひ果てゝ何も用はない処で、平にかうお通りやれ。
▲ア「それならば通りませうか。
▲シ「つゝと通らしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「それにゆるりとおりやれ。
▲ア「心得ました。
▲シ「あれへ参つたは私の甥でござるが、きやつが申す事に、百に一つも誠はござらぬ。定めてこの度の鯉も求めは致すまいが、又誑しに参つたものでござらう。某も口調法を以て、ほつてと持てないて帰さうと存ずる。やいやい。最前貰うた三こんの鱸の内、一こん洗へと云へ。ゑい。なう。お聞きやるか。
▲ア「何事でござる。
▲シ「最前さる方よりこの度の頭を経営とあつて、鱸を三こん貰うた。内一こん洗へと云ひ付けた程に、何ぞ料理を好ましめ。
▲ア「御使ひ方もあまたござらう程に、これは御無用でござる。
▲シ「いやいや。方々より貰うて魚は満ち満ちてある程に、平に料理を好ましめ。
▲ア「それならば好みませうか。
▲シ「それが良からう。
▲ア「はあ。鱸でござるの。
▲シ「中々。鱸でおりやる。
▲ア「それならば打身でたべませう。
▲シ「いや。鱸でおりやるぞや。
▲ア「鱸でござるによつて、打身でたべませう。
▲シ「むゝ。すれば和御料は打身の仔細は知らねども、打身が良いものぢやによつて喰ふ、と仰しやるか。
▲ア「いかにも左様でござる。
▲シ「それならば今の鱸を洗ふ内、打身の仔細を語つて聞かせう程に、ようお聞きやれ。
▲ア「承りませう。
▲シ「そもそも打身と云ふ事は、寛和元年、その頃は花山の院の御代なりしに、四季折々の御遊び、殊に越え御狩に好かせ給ふにより、政頼に鷹を据ゑさせ国々へ御下向あり。折節、遠江国橋本の長が宿所に着き給ふ。長は出合ひ申し、三献の土器据ゑたりし時、板に鯉を出す。その時の庖丁人は四官の太夫忠政なり。忠政は三廊近き釣殿に出でゝ畏る。それ忠政、とありしかば、忠政何とか思ひけん、板なる鯉をば切らずして、簀の子の竹を一間外し、下なる魚を挟んでさし上げ、みさごの鰭をはらりとおろし魚を放せば、魚は悦び、夕照の影に遊び隠れぬる。扨その後板引寄せ、すつぱと切つてはしつとゝ打ち付け、すつぱと切つてはしつとゝ打ち付け、並み居給へる上北面に下北面、納言・宰相・検非違使、黒袴の徒党に至るまで、三刀づゝ打ち付け打ち付け参らせしかば、忠政が庖丁いつもに優れて神妙なり。勲功は乞ふによるべし、と御感ありしよりこの方、打身といふ事始まりたり。総じて打身といふものは、海の物にては鯛、川の物にては鯉ならであるべからず。御内の親は庖丁人。庖丁人のその子として家をも継がうずる程の人が、鱸に打身たべうなどゝ云うて{*1}、立居の人に笑はれ給ふな。構へて無い事でおりやるぞや。
▲ア「すれば無い事でござるか。
▲シ「おう。無い事でおりやるとも。いや。最前の鱸を手ねばな者が洗ふと見えて、いかう遅い。やいやい、最前の鱸を早う洗うて持つて出いと云へ。ゑい。
▲ア「いや。なうなう。何事でござる。
▲シ「たとへば今の鱸をまんまと洗ひ済まいて、切目尋常なる俎板に青木のまな箸・備前庖丁・紙一重ねおつ取り添へ、しつけ{*2}知つたる若い者が二人して、かうそなたの前へかついで出でう処で、そなたへお切りそい、と申さうが、和御料の仰しやらうは、これの庖丁近う見参らせぬ。ひと手遊ばいてお見せ候へ、と仰しやらいで叶ふまい。
▲ア「いかにも左様申しませう。
▲シ「処で某、よしに余り板元におし直り、箸・刀おつ取り、紙をば三つに切り、二つを下におしおろし、一つをば俎板頭にどうと置き、礼式の水こそげ、さつさつさつと三刀する儘に、一の刀にて魚頭を突き、二の刀にて上身をおろし、おろしもあへず魚頭を俎板頭にどうと置き、おつ取り返して下身をおろし、中打丁々と三つに切つて、いざこれを煎物にして申さう。
▲ア「これは一段と良うござりませう。
▲シ「その内只は何とてもてなさうずるぞ。幸ひある上身下身をかき和へにして申さう。
▲ア「これは尚々でござる。
▲シ「総じてそなたもようお心やれ。魚の身の厚い所は薄う見えい、薄い所は厚う見えいと作るが庖丁人の腕でおりやるげな。
▲ア「ほう。
▲シ「さりながら、この様なものは引つゝくばうて刀早に、すつぱりすつぱりぱりぱりすつぱりと作り済まいて、生姜酢を以てきつきつと和へ、南天竺の掻敷、深草士器にちよぼちよぼとよそうて、和御料へもおまさうず。身共もたべうが、何と良いものではないか。
▲ア「これは良い御物でござる。
▲シ「それ程良いと思はしますならば、右を以て五盃呑うでくれさしめ。
▲ア「いや。その様にはたべられますまい。
▲シ「いやいや。そなたは難しい上戸ぢや。初めから強ひて置かねばならぬ。平に呑うでくれさしめ。
▲ア「それならば畏つてござる。
▲シ「それは近頃満足致す。扨最前の煎物こそ出来たれと、柚の葉の香頭に貝杓子おつ取り添へ、これへ持つて出よう処で、これも良い所をよそうてそなたへもおまさうず。身共もたべうが、五盃の上では良い肴ではないか。
▲ア「誠良いお肴でござる。
▲シ「それ程良いと思はしますならば、今度は左を以て七盃呑うでくれさしめ。
▲ア「最前の五盃さへござるに、これはえたべられますまい。
▲シ「いやいや。そなたは酔ふ上戸ぢやによつて、今から強ひて置く。是非とも呑うでくれさしめ。
▲ア「それならば狙うても見ませうか。
▲シ「狙うても見ようと云ふは、呑まうと云ふ事か。
▲ア「左様でござる。
▲シ「それは近頃畏り存ずる。扨小盃を以てちよろちよろと廻さうか。但し当世様にさつと取らうか。
▲ア「当世様にさつと取らせられい。
▲シ「それならば取らう。扨大酒の上では濃い茶が良いものではないか。
▲ア「酔ひを醒まいて良いものでござる。
▲シ「そなたはどれからどれまでも仕合せな人ぢや。お知りやる通り、宇治辺に知音を持つたものなれば、この度の頭を経営とあつて、極を三袋貰うた。内一袋は挽かせて置いた。又和御料も知る通り、常々茶の湯に好く事なれば、奥の間に湯はりんりんとたぎつて居る。あれへそなたを同道して、お点てそいと申さうか。茶は亭主の役なれば、茶の湯元おし直り、湯七分に泡八分、ほうほうむくむくやはやはと、昔様に中高に、猫の腹立てた様にきつと点てないて申さう処で、そなたは褒めてくれねばならぬ。
▲ア「何と申して褒めまするぞ。
▲シ「これはいかにも慇懃に構へて、最前の鱸の庖丁のお手元、只今のお茶の湯の御手前、とかう優れて見事さうにござると、これ程の事は仰しやらう。
▲ア「それ程の事は申しませう。
▲シ「処で某の申さう。なぜに左様に慇懃にな仰せられるぞ。親子仲{*3}の心安いは、ろく(平)に居て五服も七服もお参りやれと申さうが、いかに心安と云うても、極を二服とはえ仰しやるまい。
▲ア「左様には申しますまい。
▲シ「それならば茶の湯もさつと仕舞うて、とてもの事に暇乞ひの仕様までを教へておまさう。お立ちやれ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「扨最前の五盃と七盃は十二盃ではないか。
▲ア「中々。十二盃でござる。
▲シ「いかに和御料が強いと云うて、十二盃呑めた事ならば、手元も足元もむさからう。
▲ア「正体はござりますまい。
▲シ「総じて酒酔ひの癖として、咎もない扇をひねくり廻いて、その事にてこの度の鯉を持つて参らぬさへござるに、鱸の庖丁、お茶までを下され、忝うござる。今度この礼参るならば、泥鰌にてもなれ鮠にても候へ、持つて参つてこのお礼はきつと申しませう。まづそれまではさらばさらばさらばさらばさらば、と仰しやる程にもてないて帰したいが、そなたの鯉を獺が喰うた如く、某の鱸は鴋鳥{*4}が喰うてないと云ふによつて、今の物語を喰うた呑うだと思うて、足元の明るい内とつとゝ帰らしめ。
▲ア「面目もござらぬ。

校訂者注
 1:底本は、「いふひて」。
 2:底本は、「[身花]」。[身花]という漢字はテキストになく、『狂言記』に従い「しつけ」とした。
 3:底本、「親」はカスレ、判読困難。
 4:底本は、「放情(ハウジヤウ)」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の二 九 鱸庖丁」(国立国会図書館D.C.

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