岡大夫(をかだいふ) 大蔵流本
《この名乗り、年配ならば良し。若き者は常の如く名乗るべし。舅名乗りその他、前に同じ》
▲シテ「罷り出でたる者は、年に似合はぬ申し事でござれども、人のいとしがる花聟でござる。今日は最上吉日でござるによつて、舅の方へ聟入りを致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に某も疾う聟入りを致すはずでござるが、かれこれ致いて遅なはつてござる。定めて舅は待つて居らるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲冠者「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シ「今日は最上吉日で、聟が参つたと仰しやれ。
▲冠「扨は聟殿でござるか。
▲シ「中々。
▲冠「その通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲シ「心得た。《冠者、その通り舅へ云ふ。「音曲聟」の如く云うて、扨通りても「庖丁聟」などの如く挨拶して、盃事も同断。舅、盃取つて冠者に「最前云ひ付けた物を出せ」と云ひ付くる。太郎冠者、盃持つて引つ込む》
いや。申し。こなたの悦ばせらるゝ事がござる。
▲舅「それはいかやうな事でござる。
▲シ「この間おこうは青梅を好んでたべまする。
▲舅「それは一段の事でござる。《太郎冠者、三宝へ綿を載せて持つて出る》
申し申し。聟殿。それをちと参りませい。
▲シ「これをたべまするか。
▲舅「中々。
▲シ「これは忝うござる。それならばたべませう。扨も扨も、これは殊の外旨い物でござる。この様な旨い物は、つひにたべた事がござらぬ。これはまづ何と申す物でござるぞ。
▲舅「それは蕨餅でござるが、定めて賤しい物の様に思し召されうが、延喜の帝のお好きで賞翫なされ、則ち官を下されて、岡太夫とも申しまして、朗詠の詩にも載つてある物でござる。お気に入つたならば、代へて参りませう。
▲シ「これは良い物でござる。それならば代へませう。
▲舅「太郎冠者。代へて進ぜい。
▲冠「もはやござりませぬ。
▲舅「何ぢや。ない。
▲冠「中々。
▲舅「扨々それは不調法な。近頃気の毒な事を致いた。
▲シ「いやいや。少しも苦しうござらぬ。総じて私の癖で、ない物は食べませぬ。
▲舅「近頃残り多い事を致いた。さりながら、もしお気に入つたならば、おこうが拵へ様を存じて居りまする程に、戻らせられたならば、拵へさせて参りませい。
▲シ「やあやあ。何と仰せらるゝ。この拵へ様をおこうがよう覚えて居ると仰せらるゝか。
▲舅「中々。その通りでござる。
▲シ「それは一段の事でござる。戻つたならば、早々拵へさせてたべませう。
▲舅「それが良うござらう。
▲シ「扨私はもうかう参りませう。
▲舅「ござるか。
▲シ「さらばさらば。
▲舅「ようおりやつた。
▲シ「はあ。なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと聟入りを致いた。まづ急いで罷り帰らう。定めて女共が今か今かと待つて居るでござらう。戻つてこの様子を話いたならば、さぞ悦ぶでござらう。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。いや。なうなう。女共居りやるか。今戻つておりやるわ。
▲女「やあやあ。これのは戻らせられてござるか。
▲シ「中々。今戻つておりやる。
▲女「定めて父様の悦ばせられたでござらう。
▲シ「殊ない悦びであつた。
▲女「左様でござらう。扨あの父様は、人に珍しい物を振舞ふ事が好きでござるが、こなたは何も珍しい物は参りませぬか。
▲シ「あゝ。それについて、何やら珍しい物を振舞はれた。
▲女「それは何でござるぞ。
▲シ「あゝ。何とやらであつた。そなたの拵へ様をよう知つて居ると仰しやつた。早う拵へてくれさしめ。
▲女「それは何でござるぞ。名を仰せられたならば、拵へて進じませう。
▲シ「あゝ。何とやら云ふ物であつた。
▲女「何でござらうぞ。
▲シ「おう。それそれ。らうらうとやら云はれた。
▲女「らうらうと云ふ物はござらぬが。もし朗詠の詩ではござらぬか。
▲シ「中々。その朗詠の詩であつた。それを拵へて喰はさしめ。
▲女「これはいかな事。これはものゝ本の名で、喰ふ物ではござらぬが。この朗詠の詩の中にある物ではござらぬか。
▲シ「おゝ。定めてその様な事であらう。
▲女「それならば、常々父様の読ませらるゝを承つて、少しは覚えて居まする。これを申しませう程に、この内にあるならばあると、早う仰せられい。
▲シ「心得た。
▲女「池の凍り東頭は風渡つて解け、窓の梅北面は雪封じて寒し{*1}。この窓の梅で思ひ出しました。梅干しばし参つたか。
▲シ「なう。酸や酸や。その様な酸い物ではおりない。
▲女「これではござらぬか。
▲シ「中々。
▲女「気霽れては風新柳の髪を梳り、氷消えては浪旧苔の鬚を洗ふ{*2}。この鬚で思ひ出しました。もし野老ばし参つたか。
▲シ「なうなう。苦や苦や。その様な苦い物でもない。旨い物でおりやる。
▲女「それならば、鶏既に鳴いて忠臣旦を待つ{*3}。あしたとは開場の時。貝の酢和へに鶏冠海苔ばし参つたか。
▲シ「その様な物でもおりない。
▲女「白飯山の上にはりやうばうの雲棚引き、御酒海の底に納豆の砂を敷く。白飯とは白いお台の事。りやうばうのお和へ、白い飯ばし参つたか。
▲シ「こゝな者は。朝夕喰ふ飯を忘るゝといふ事があるものか。
▲女「御酒海とは良い酒の事。納豆を肴にして良い酒ばし喰らうたか。
▲シ「何ぢや。喰らうたか。
▲女「中々。
▲シ「やい。こゝな者。
▲女「何事でござる。
▲シ「藁で束ねても男は男ぢやに、夫に向かうて喰らうたかと云ふ事があるものか。
▲女「でもこなたの様に、喰らうた物を忘るゝといふ事があるものでござるか。
▲シ「おのれ憎い奴の。総別この間甘やかいて置けば方領もない。おのれ散々に打擲してやらう。憎い奴の憎い奴の憎い奴の。
▲女「あゝ。痛々。扨も扨も痛い事かな。余り堪へがたさに手で受けたれば、この手をしたゝかに打たれた。誠に、紫塵の嫩き蕨人手を拳る{*4}、と申すがこの事でござらう。あゝ。痛々々。
▲シ「いや。なうなう。今そなたは何と云うたぞ。
▲女「妾は知りませぬ。
▲シ「その様にすねた事を云はずとも、今のを云うて聞かさしめ。
▲女「紫塵の嫩き蕨人手を拳る、と云ふ事よ。
▲シ「おう。その蕨餅であつた。
▲女「何ぢや。蕨餅ぢやと仰せらるゝか。
▲シ「中々。
▲女「それならば、妾が拵へ様をよう覚えて居まする程に、拵へて進じませう。こちへござれござれ。
▲シ「心得た心得た。
校訂者注
1:底本は、「池凍東頭風渡解。窓梅北面雪封寒。」。
2:底本は、「気霽風梳新柳髪。氷消浪洗旧苔鬚。」(但し返り点がある)。
3:底本は、「鶏既鳴忠臣待且。」(但し返り点がある)。
4:底本は、「紫塵嫩蕨人拳手(シヂンノワカキワラビヒトニギルテヲ)。」(但し返り点がある)。
底本:『狂言全集 中巻』「巻の三 一 岡大夫」(国立国会図書館D.C.)
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