引括(ひつくゝり) 大蔵流本

▲シテ「これはこの辺りに住居致す者でござる。某女共を持つてござるが、殊の外わゝしうござるによつて、いつぞは暇を遣はさうと存ずる処に、この間親里へ逗留に行た程に、汝はこの暇の状を持つて行てくれい。
▲冠者「畏つてはござりまするが、これは何とぞ御免なされて下されい。
▲シ「それはなぜに。
▲冠「あのおかみ様は余のおかみ様と違ひまして、殊の外わゝしうござる程に、その状を見させられたならば、さぞ御腹立ちでござらう。何とぞ御免なされて下されい。
▲シ「むゝ。すれば山の神は怖し、身共は怖うないな。
▲冠「いや。左様ではござらねども、幾重にもお許されて下されい。
▲シ「ようおりやる。
▲冠「はあ。
▲シ「総別この間甘やかいて置くによつて、方領もない。この上は行くとも行かずとも行かせうが、ていとおりやるまいか。
▲冠「まづものを云はせられい。
▲シ「ものを云はせいとは。
▲冠「参りませう。
▲シ「いや。おりやるまいものを。
▲冠「いや。参りませう。
▲シ「それは誠か。
▲冠「誠でござる。
▲シ「真実か。
▲冠「一定でござる。
▲シ「これは戯れ事。使ひに行て貰ひたさの儘ぢや。
▲冠「怖いお戯れ事でござる。
▲シ「扨汝はこの状を女共に渡いたならば、見ぬ内に早う戻れ。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「ゑい。
▲冠「はあ。扨も扨も迷惑な事を仰せ付けられた。さりながら参らずばなるまい。誠にあのおかみ様は殊の外わゝしいお方でござるによつて、この状を見させられたならば、さぞ腹を立たせらるゝでござらう。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲女「いや。表に聞き馴れた声で物申とある。案内とは誰そ。
▲冠「私でござる。
▲女「ゑい。太郎冠者。そちならばよそよそしい案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲冠「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じて、それ故案内を乞ひましてござる。
▲女「それは念の入つた事ぢや。扨頼うだ人には変らせらるゝ事もないか。
▲冠「随分変らせらるゝ事もござりませぬ。
▲女「それは一段の事ぢや。妾も早う帰りたうは思へども、まだちと用の事があつて、それ故戻らぬ。近々には戻るであらうぞ。
▲冠「何が扨ゆるりと御用仕舞はせられて、その上でお帰りなされたが良うござる。
▲女「扨今は何と思うて来たぞ。
▲冠「頼うだ人よりお文を遣はされましてござる。
▲女「何ぢや。お文を遣はされた。
▲冠「中々。
▲女「やれやれ。ようこそ文を下された。早う見せい。
▲冠「はあ。これでござる。
▲女「これへおこせ。
▲冠「扨私はかう参りまする。
▲女「まづ待て。今文を見て返事を遣らう。
▲冠「いや。頼うだ人のお返事には及ばぬと仰せられてござる程に、置いて参りませう。
▲女「いやいや。まづ待て。妾が用の事がある。
▲冠「それならば畏つてござる。
▲女「や。これはいかな事。やい。太郎冠者。おのれは憎い奴の。これは暇の状ぢや。これを持つて参るといふ事があるものか。おのれ引き裂いてのけうか。喰ひ裂いてくれうか。
▲冠「いや。私は何とも存じませぬ。頼うだ人の持つて参る様に仰せ付けられましたにより、それ故持つて参りました。
▲女「又そのつれな事を云ふ。おのれが知らいで何とするものぢや。あり様に云はずば只置く事ではないぞ。
▲冠「はあ。申し申し。それならばあり様に申しませう。私もまづかうござらうと存じて、色々と御断りを申してござれども、持つて参らぬにおいてはお手討になされうとの御事でござるによつて、背に腹は替へられず持つて参りました。私に御恨みはござりますまい。
▲女「何ぢや。手討にせうと云うたか。
▲冠「中々。
▲女「すれば汝に罰はない。そちも良う思うても見よ。あの様な男は、薮を蹴ても五人や七人は蹴出さうが、去られたと思へば身が燃ゆる様に腹が立ついやい。
▲冠「近頃御尤でござる。
▲女「扨戻つてさう云うてくれい。ようこそお文を下されて忝うござる。追つ付けそれへ参つて御返事を申すでござらうと云へ。
▲冠「畏つてござる。それならば私はお先へ参りまする。
▲女「早う行け。
▲冠「心得ました。《女は太鼓座へ座り着いて、袋を懐へ入れて、良い時分を見合せて立つ》
なうなう。恐ろしや恐ろしや。早う戻らう。いや。申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲シ「ゑい。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者戻つたか戻つたか。
▲冠「ござりますかござりますか。
▲シ「ゑい。戻つたか。
▲冠「只今戻りました。
▲シ「扨文を置いて来たか。
▲冠「さればその事でござる。私もお文を上げまして、その儘戻らうと致いてござれば、用があると仰せられて私を止めさせられ、その内にお文を見させられて、殊ないお腹立ちでござつて、追つ付けそれへ行て返事を云ふ程に先へ戻れ、と仰せられてござる。
▲シ「扨々それは苦々しい事ぢや。女共がこれへ来て良いものか。それ故渡いたならばその儘戻れと云うたに。何としたものであらうぞ。
▲冠「何となされて良うござらうぞ。《と云ふ内に女立つて》
▲女「やい。わ男。妾を誑いて親里へ遣つて、よう後から暇の状をおこし居つた。おのれ何としてくれうぞ。
▲シ「いや。なうなう女共。扨々そちはむざとした者ぢや。男が暇を遣つたに、これへ来るものか。
▲女「又そのつれな事を仰しやる。そなたの様な男は薮を蹴ても五人や七人は蹴出さうが、去られたと思へば腹が立つ。それに、あり様に云うたならば出て行くまいものでもないに、誑いて去られたと思へばいよいよ腹が立つ。おのれ何としてくれうぞ。喰ひ裂かうか。引き裂かうか。
▲シ「扨々わゝしい女ぢや。男が暇を遣るに、出て行くまいと云ふ事があるものか。
▲女「いや。出て行くまいではない。出て行かうが、出て行くには塵を結んでなりとも印を取るものぢやと云ふ程に、印をおくりやつたならば出て行かう。
▲シ「それこそ易い事なれ。こりやこりや。塵を結んでやらう。さあさあ。これを遣る程に早う出て行け。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。それは言葉でこそあれ。身に付いた物をおこさしめ。
▲シ「扨々そちは欲の深い者ぢや。さりながら、暇を遣る女に何が惜しからう。何なりともそちが好きな物を遣る程に、それを持つて早う出て行け。
▲女「すれば妾が欲しい物を何なりと下さるゝか。
▲シ「中々。何なりとも遣らう。
▲女「それならば妾はあれが欲しうござる。《と云ひながら袋を出し》
▲シ「あれとは。
▲女「これが欲しうござる。《と云うて、男の首へ袋を打ち掛けて引き行く》
▲シ「これは何とするぞ。
▲女「妾が欲しい物はこれでござる。
▲シ「これは何とするぞ。《と云ひながら袋を外して逃げ入る》
あゝ。許いてくれい許いてくれい。
▲女「やい。わ男。どれへ逃ぐるぞ。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。《又シヤギリ留めにもする》

底本:『狂言全集 中巻』「巻の三 四 暇の袋」(国立国会図書館D.C.

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