鬼の継子(おにのまゝこ) 大蔵流本

▲女「妾はこの辺りに{*1}住居致す者でござる。山一つあなたに親里を持つてござるが、久しう便りも承らぬによつて、今日は見舞ひに参らうと思ひまする。まづそろりそろりと参らう。誠に親里が程遠うござるによつて、暇のない身の悲しさは、再々見舞ひに参る事もならいで、心元なう思ひまするが、父様母様にも変らせらるゝ事はないでござろう。いや。何かと申す内に、これは早いつもの野へ出ました。こゝ元は播磨の印南野と申して、つゝと人遠い恐ろしい所でござる。急いで里近くへ参らうと思ひまする。妾も人を連れて参りたうはござつたが、皆忙しうござる。又暇になるを待てば余り遅うなりまするによつて、今日は一人参る事でござる。
▲シテ鬼「いで喰らはう喰らはう喰らはう。
▲女「あゝ。悲しや悲しや。真つ平命を助けて下されい。《一遍周りて》
▲シ「いで喰らはう。
▲女「あゝ。真つ平命をお助けなされて下されい。
▲シ「やいやいやい。そこな奴。
▲女「はあ。
▲シ「おのれは憎い奴の。こゝは印南野と云うて、七つ下つては男さへ通らぬ所を、殊に女の身として一人通るは、定めて武辺立てゞあらう。頭から一口に、いで喰らはう。あゝ。
▲女「あゝ。構へて武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シ「むゝ。見れば何やら懐へ入れて居るが、それは何ぢや。
▲女「これは妾が稚いでござる。
▲シ「何ぢや。そちが子ぢや。
▲女「中々。
▲シ「それならばまづその子から喰うて仕舞はう。
▲女「妾は喰はるゝとも、その子は助けて下されい。
▲シ「何ぢや。助けてくれい。
▲女「中々。
▲シ「まづそれに待て。
▲女「心得ました。
▲シ「扨も扨も美しい女かな。あの様な眉目の良い女を喰うて仕舞ふは惜しい事ぢや。何とぞ誑いて某が妻に致さうと存ずる。やいやい。そちは夫があるか。
▲女「中々。ござりまする。
▲シ「おのれは憎い奴の。夫があらば、この野を汝一人やるものか。おのれ偽りを云ひ居るな。
▲女「何しに偽りを申すものでござるぞ。よう思うても見させられい。夫があればこそ、この様な稚いを持つてござる。
▲シ「これは身共が誤つた。扨汝は真実命が助かりたいか。
▲女「中々。助かりたうござる。
▲シ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲女「何なりとも承りませう。
▲シ「身共は恥づかしい事なれども、未だ定まる妻がないによつて、汝を連れて行て某が妻にする程に、さう心得い。
▲女「なう。物狂や物狂や。いかに命が助かりたいと云うて、夫ありながら、何とこなたの妻にならるゝものでござるぞ。これはなりませぬ。
▲シ「おのれは憎い奴の。そのつれを云うて妻にならずば、まづその子から、いで喰らはう。あゝ。
▲女「あゝ。妻になりませう。真つ平命を助けて下されい。
▲シ「何ぢや。妻にならう。
▲女「中々。
▲シ「おう。良い合点ぢや。それならばすぐに蓬莱の島へ連れて行て、思ふ儘に暮らしをさせうぞ。
▲女「それは嬉しうござる。扨蓬莱の島とやらへ参るならば、この体ではいかゞでござる。ちと取り繕うて参りたうござる。この子の守りをして下されい。
▲シ「何が扨易い事ぢや。これへおこさしめ。守りをしてやらう。
▲女「さあさあ。進じまする。
▲シ「心得た。扨も扨も愛らしい子かな。この恐ろしい某が面を見て、驚きもせずにこにこと笑うて居る。扨何ぞ芸はないか。はあゝ。何やらつむりを振るが、あれは何とした事ぢや。
▲女「それは、かぶりかぶりと申す芸でござる。
▲シ「何ぢや。かぶりかぶりといふ芸ぢや。
▲女「中々。
▲シ「さあさあ。そのかぶりかぶりが見たい。おう。かぶりかぶりかぶり。《笑うて》もうないか。はあ。今度は手を打つ様な事をするが。あれも芸か。
▲女「それは、手打ち手打ちと申す事でござる。
▲シ「何ぢや。手打ち手打ちぢや。
▲女「中々。
▲シ「その手打ち手打ちを見たい。おう。手打ち手打ち手打ち手打ち。《笑うて》扨々愛らしい子かな。一口に喰うて仕舞ひたい。
▲女「あゝ。悲しや。その子故にこそこなたの妻にもなりますれ。その様な事をなさるゝならば、もはや蓬莱の島へ参りますまい。
▲シ「これは戯れ事。身共がためにも継子ぢやものを、何として喰ふものぢや。扨もはや芸はないか。はあ。今度はうなづくが、あれは何といふ事でおりやる。
▲女「それは、合点合点と申す事でござる。
▲シ「おう。合点合点合点。《笑うて》もうないか。あゝ。今度は手を握る様な事をする。これも芸か。
▲女「それは、にぎにぎと申す芸でござる。
▲シ「おう。にぎにぎにぎ。《笑うて》扨も扨もそちは殊の外の芸者ぢや。今一度かぶりかぶりが見たい。おう。かぶりかぶり。《笑うて》扨も扨も愛らしい事ぢや。
▲女「申し申し。身拵へも良うござる。
▲シ「何と良うおりやるか。
▲女「中々。
▲シ「扨これからすぐに蓬莱の島へ連れて行かうが、かりそめながら祝言ぢやによつて、とてもの事に囃子物で参らう。
▲女「それが良うござらう。
▲シ「《子を肩へ乗せて》鬼の継子を肩に乗せて、乗せて乗せて、蓬莱の島へ参らう参らう。《二三遍返して、せり足》
もはや堪忍ならぬ。頭から呑うで仕舞はう。
▲女「あゝ。悲しや。こちへおこさしめ。なう。恐ろしや恐ろしや。
▲シ「やい。誑された。いで喰らはう喰らはう喰らはう。《と云うて、追ひ入る》

校訂者注
 1:底本は、「此 に」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の三 五 鬼の養子」(国立国会図書館D.C.

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