膏薬練(かうやくねり) 大蔵流本

▲アト「これは鎌倉の膏薬練りでござる。某が膏薬程強い膏薬はござるまいと存ずる処に、又都にも強い膏薬があると申すによつて、急いで都へ上り、膏薬を吸ひ比べて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。殊にこの度都へ上り膏薬を吸ひ比べて、もし勝つたならば弟子にせうず。もし負けたならば身共が弟子にならうと存ずる。いや。参る程に上下の街道ぢや。まづこの所に休らうて参らう。
▲シテ「これは都の膏薬練りでござる。某が膏薬程強い膏薬はあるまいと自慢を致す処に、承れば鎌倉にも強い膏薬があると申すによつて、鎌倉へ下り、膏薬を吸ひ比べて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠にものには油断を致すまい事でござる。某が膏薬程強い膏薬はあるまいと存ずる程にの。いや。参る程にしきりに松脂臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。
▲ア「いや。殊の外膏薬臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。《互に行き逢うて》
▲シ「ゑい。こゝな者。この広い街道を、人に行き当たるといふ事があるものか。
▲ア「そなたが行き当たつた。
▲シ「いや。和御料が行き当たつた。
▲ア「いや。そなたが行き当たつた。
▲シ「それはともあれ、和御料はどれからどれへ行く者ぢや。
▲ア「某は鎌倉の膏薬練りでおりやるが、身共が膏薬程強い膏薬はあるまいと自慢を致す処に、又都にも強い膏薬があると聞いたによつて、吸ひ比べて見ようと思うて、今都へ上る処でおりやる。
▲シ「すれば聞き及うだ鎌倉の膏薬練りはそなたか。
▲ア「中々。身共でおりやる。して又和御料{*1}はどれからどれへ行く人ぢや。
▲シ「そなたの尋ねる都の膏薬練りでおりやるが、身共が膏薬程強い膏薬はあるまいと自慢をする処に、又鎌倉にも強い膏薬があると聞いたによつて、吸ひ比べて見ようと思うて、今鎌倉へ下る処でおりやる。
▲ア「すれば和御料が聞き及うだ都の膏薬練りか。
▲シ「中々。
▲ア「これは良い所で出逢うた。
▲シ「互の心が通じたものであらう。
▲ア「その様な事であらう。
▲シ「扨そなたの膏薬には何ぞ霊験でもあるか。
▲ア「中々。関東にはびこる程の霊験がある。語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲シ「心得た。
▲ア「扨も鎌倉殿の御時、生食といふ名馬のありしを、何とかして取り放ちけん、虚空をさして逃げて行く。人々これはこれはと前非{*2}を悔う処に、某の先祖の祖父御前へ出で、あの馬を某一人して留めて参らせうずる、と申されければ、物に狂ふかと{*3}云うてどつと笑うた。
▲シ「ほう。
▲ア「鎌倉殿聞こし召し、急ぎ留めさせよ。え留めぬにおいては曲事に仰せ付けられうとの御事であつた。
▲シ「ほう。
▲ア「その時先祖の祖父、おめず臆せずお前へ出で、腰なるたゝきより膏薬を透頂香程取り出し、おゆびの腹にまんまと塗り、息をほつとしかけ、かの馬に向かひ、吸へ吸へと云はれければ、かの馬おゆびの腹の膏薬に吸はれてぢりゝぢりゝと寄る程に、ぢたぢたぢたぢつたりと吸ひ寄せた。
▲シ「ほう。
▲ア「鎌倉殿御覧じて、扨も名誉な膏薬かな。銘はなきかとお尋ねある。只吸ふ膏薬とばかり申し上げゝれば、か程の名誉な膏薬に銘のなきこそ不思議なれ。さあらば銘を下されう、とあつて、関東一の馬吸ひ膏薬と銘を下されてよりこの方、某が膏薬は関東に隠れがおりない。
▲シ「扨々夥しい霊験ぢや。さりながら、それ程の事はこちにもある。云うて聞かせう。ようお聞きあれ。
▲ア「心得た。
▲シ「扨も平家浄海の御時、六波羅にお庭を造らせらるゝ。立石になる大石を北山より三千人して引かせ、北門までは引つ付けたれども、御門の内へ入る事がならなんだ。
▲ア「ほう。
▲シ「その時人々これはこれはと前非を悔う処に、某が先祖の祖父罷り出で、あの石を某一人して直いて参らせうずる間、所を御さし候へ、と申されければ、物に狂ふかと云うて、諸人がどつと笑うた。
▲ア「ほう。
▲シ「浄海聞こし召し、急ぎ直させよ。え直さぬにおいては曲事に仰せ付けられう、との御事であつた。
▲ア「ほう。
▲シ「その時先祖の祖父、おめず臆せずお前へ出で、腰なる印籠より膏薬を芥子粒程取り出し、おゆびの腹にひつたりと塗り、息をほつとしかけ、かの石に向かひ、吸へ吸へ、と云はれければ、かの石がおゆびの腹の膏薬に吸はれてぢりぢりゝと寄る程に、ぢたぢたぢたぢつたりと寄せた。
▲ア「ほう。
▲シ「浄海御覧じて、扨も名誉な膏薬かな。銘はなきかとお尋ねある。只吸ふ膏薬とばかり申し上げゝれば、か程の名誉な膏薬に銘のなきこそ不思議なれ。さあらば銘を下されう、とあつて、天下一の石吸ひ膏薬と銘を下されてよりこの方、某が膏薬は天下に隠れがおりない。
▲ア「扨も扨も夥しい霊験ぢや。扨とてもの事に薬種を明かし合はうではないか。
▲シ「一段と良からう。
▲ア「まづ下におりやれ。
▲シ「心得た。
▲ア「扨そなたの膏薬には何ぞ珍しい物が入るか。
▲シ「別に珍しい物も入らぬが。石の腸、木になる蛤、蚯蚓の胴骨などが入る事でおりやる。
▲ア「扨々それは珍しい物が入る事でおりやる。
▲シ「そなたの膏薬には何が入るぞ。
▲ア「身共が膏薬にも別に珍しい物も入らぬ。まづ、空を飛ぶ胴亀、地を走る雷、雪の黒焼きなどが入る事ぢや。
▲シ「扨々それは珍しい物が入る。それを何として求むるぞ。
▲ア「先祖の祖父の求め置かれたを少しづゝ出いて用ゆる事でおりやる。
▲シ「某とてもその通りぢや。
▲ア「扨どこに付けて吸はするぞ。
▲シ「やはり先祖の祖父の通り、おゆびの腹に付けて吸はせう。
▲ア「いやいや。某が膏薬は今では殊の外強うなつたによつて、おゆびの腹に付けて吸はせたならば、定めてかひなを吸ひ抜くであらう。かう見るに、人間の鼻といふものは根の強いものぢやによつて、鼻に付けて吸はせうと思ふが何とあらうぞ。
▲シ「これは一段と良からう。
▲ア「それならば身拵へをさしめ。
▲シ「心得た。《太鼓座と笛の上へ行て、膏薬を鼻へ付ける》
▲ア「何と身拵へは良うおりやるか。
▲シ「中々。良うおりやる。
▲ア「それならばこれへ出さしめ。
▲シ「心得た。
▲ア「必ず出し抜くまいぞ。
▲シ「中々。出し抜く事ではおりない。
▲二人「吸へ吸へ吸へ。
▲ア「ほう。和御料の膏薬はいかう強さうな。
▲シ「そなたの膏薬も殊の外強さうな。
▲ア「ちと鎌倉の方へ吸ひ寄せう。
▲シ「いかないかな。吸はるゝ事ではおりない。
▲ア「と云うたりと吸はずには置くまい。吸へ。
▲シ「吸はれはせぬ。
▲ア「吸へ。
▲シ「吸はれはせぬ。
▲ア「吸へ吸へ吸へ。
▲シ「吸はれはせぬせぬせぬ。
▲ア「何と吸うたではないか。
▲シ「誠に吸はれた。今度は都の方へ吸ひ戻さう。
▲ア「いかないかな。吸ひ戻さるゝ事ではおりない。
▲シ「と云うたりと吸ひ戻さずには置くまい。吸へ。
▲ア「吸はれはせぬ。
▲シ「吸へ。
▲ア「吸はれはせぬ。
▲シ「吸へ吸へ吸へ吸へ。
▲ア「吸はれはせぬせぬせぬせぬ。
▲シ「何と吸うたではないか。
▲ア「誠に吸ひ戻された。今度は鎌倉の方へねぢ引きに致さう。
▲シ「いやいや。ねぢ引きにさるゝ事ではおりない。
▲ア「と云うたりとねぢ引きにせずば置くまい。吸へ。
▲シ「吸はれはせぬ。《前同様に云うて、廻りて引く》
▲ア「何とねぢ引きにしたではないか。
▲シ「誠にねぢ引きにされた。又都の方へねぢ戻さう。
▲ア「いかないかな。ねぢ戻さるゝ事ではおりない。
▲シ「と云うたりとねぢ戻さずに置かうか。《又同断にして》
何とねぢ戻いたではないか。
▲ア「まんまとねぢ戻された。今度は鎌倉の方へしやくり引きに致さう。
▲シ「いかないかな。今度こそしやくり引きになる事ではない。
▲ア「と云うたりとしやくり引きにせずば置くまい。《又同断に云ふ。しやくり引き{*4}にする》
何としやくり引きにしたではないか。
▲シ「誠にしやくり引きにされた。又都の方へしやくり戻さう。
▲ア「中々しやくり戻さるゝ事ではない。
▲シ「と云うたりとしやくり戻さずには置くまい。《又同断にして、シテ柱の際へ行きたる時、「見えたか」と云うて膏薬を取る。シテ、鼻の膏薬を取ると、アト、その儘転ぶなり》
▲ア「今のは転うだのぢや。勝ちにはなるまいぞ。
▲シ「勝つたぞ勝つたぞ。《と云うてシテ入る》
▲ア「あの横着者。やるまいぞやるまいぞ。
《薬種、右の外に、赤子の頬髭、天狗の陰干し、海の底の白鳥、雲を翔くる蟇》

校訂者注
 1:底本は、「又御料」。
 2:底本は、「先非」。
 3:底本は、「狂ふとか」。
 4:底本は、「ししやくり引」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の四 五 膏薬練」(国立国会図書館D.C.

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