惣八(そうはち) 大蔵流本

▲アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。某存ずる仔細あつて、出家と料理人を抱へうと存ずる。まづこの由を高札に打たう。一段と良うござる。
▲出家「これはこの辺りに住居致す出家でござる。某、二三年以前までは俗で、料理人でござつたが、浮世を味気なう存じて出家になつてござれば、俄坊主の事なれば斎非時のくれ手はなし。迷惑致す処に、山一つあなたに大有徳な人がござつて、何者にはよるまい、出家と料理人を抱へうと高札を打たれたと申すによつて、あれへ参り、御扶持を貰うてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、御扶持を下さるれば良うござるが。下されぬ時は、参つた詮もない事でござる。いや。参る程に、これに高札がある。まづこの辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲主「誰そ。どなたでござる。
▲出「高札の表について参つた出家でござる。{*1}
▲主「易い事。扶持をして進じませう。かうお通りやれ。
▲出「それは忝うござる。
▲主「つゝと通らしめ。
▲出「心得ました。
▲主「それにとうとおりやれ。
▲出「はあ。
▲シテ「これはこの辺りに住居致す、惣八と申す料理人でござる。某近い頃までは出家でござつたが、出家と申すものは、朝夕の勤行の旦那あしらひのと申して、事難しいものでござるによつて、ふと落堕{*2}致いてござれば、出家の時分には斎非時のくれ手もござつたれども、今は左様の事はなし。行き当たつてほうど迷惑致す処に、山一つあなたに大有徳なお方がござつて、出家と料理人を抱へうと高札を打たれたと申す。私も出家の時分に精進料理を手掛けたる事がござるによつて、料理人になつて参り、御扶持を貰うてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に有徳人の事でござるによつて、定めて料理人もあまたござらう程に、行く行くは見習うて、魚類料理をも致さうと存ずる。いや。参る程にこれに高札がある。さらばこの辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲主「誰そ。どなたでござる。
▲シ「高札の表について参つた料理人でござる。
▲主「何ぢや。高札の表について来た料理人ぢや。
▲シ「中々。
▲主「扶持をして取らせうが、名は何と云ふぞ。
▲シ「惣八と申しまするが、お気に入らずばいかやうにも変へませう。
▲主「惣八。良い名ぢや。扶持をせう程にかう通れ。
▲シ「それはありがたうござる。
▲主「つゝと通れ。
▲シ「畏つてござる。
▲主「それにとうと居よ。
▲シ「はあ。
▲主「まんまと出家と料理人を抱へてござる。銘々に役を申し付けう。なうなう。何と窮屈かな。
▲出「いや。左様にもござらぬ。
▲主「扨、そなたの前にあるは持仏堂ぢや。随分綺麗に掃除して、毎日香華を手向けてくれさしめ。
▲出「畏つてござる。
▲主「扨、これは法華経ぢやが、これを日経に読うでくれさしめ。
▲出「心得ました。
▲主「居間に居て聞く程に、いかにも高らかに読うでおくりやれ。
▲出「畏つてござる。
▲主「頼むぞや。
▲出「はあ。
▲主「やいやい。惣八。
▲シ「はあ。
▲主「何と窮屈なか。
▲シ「いや。左様にもござらぬ。
▲主「扨、晩程俄かに客がある程に、料理をしてくれさしめ{*3}。
▲シ「畏つてござる。
▲主「この鯛は汁にするによつて、背切りにしておくりやれ。
▲シ「心得ました。
▲主「又この鯉は刺身にする程に、随分手際良う細造りにしてくれい。
▲シ「畏つてござる。
▲主「出来たならば、さうをさしめ。
▲シ「心得ました。
▲主「頼むぞや。
▲シ「はあ。
▲出「はあ。頼うだ人はもはや奥へ行かれたか知らぬ。扨々これは迷惑な事かな。定めて持仏の掃除なりとしたならば済む事ぢやと存じたれば、何やらこの様な難しい経を出いて、読めと仰しやる。まづあけて見よう。扨も扨も皆四角な文字で、これは一字も読めぬ。何としたものであらうぞ。《この内に》
▲シ「早頼うだ人は行かれたか知らぬ。扨も扨も迷惑な事かな。有徳人ぢやによつて、料理人も多うあらう程に、行く行くは見習うて魚類の料理をもせうと存じて参つたれば、来るや否やこの様な赤い魚や黒い魚を出いて、何やら難しい料理を云ひ付けられたが。これはまづ、何としたものであらうぞ。扨も扨も長い薄刃ぢや。この又火箸は何になる事ぢや知らぬ。何にもせよ、この赤い魚の目がぎろぎろとして気味が悪い。この火箸で目をくり抜かうか。
▲出「あゝ。
▲シ「いやいや。この薄刃でかぶを離さう。
▲出「あゝ。
▲シ「いや。こゝな御出家は。魚類の料理はお知りやるまいに。料理人の料理するに、なぜにあゝとは仰しやるぞ。
▲出「近頃尤ぢや。定めてそなたは高札の表について来た料理人であらう。
▲シ「中々。その通りでおりやる。
▲出「さう見えた。それならば、まづ身共が身の上から話いて聞かさう程に、よう聞かしめ。
▲シ「心得た。
▲出「某、二三年以前までは俗で、料理人であつたが。
▲シ「あの。そなたがの。
▲出「中々。
▲シ「ほう。
▲出「浮世を味気なう思うて、ふと出家になつたれば、俄坊主の事なれば斎非時のくれ手はなし。迷惑する処に、こゝ元で出家と料理人を抱へうと高札を打たれたといふ程に、定めて持仏の掃除なりとしたならば済む事であらうと思うて、これへ来て御扶持貰うたれば、来るとその儘、この様な難しい経を出いて読めと云はれて、殊の外迷惑する処に、今和御料の体を見れば、魚類などをつひに手掛けた事はないと見ゆるによつて、それ故あゝと云うた事ぢや。
▲シ「やれやれ。そなたの話を聞いて落ち着いた。扨々、世には似た事もあるものぢや。それならば、身共が身の上も話いて聞かさう。ようお聞きやれ。
▲出「心得た。
▲シ「某は近い頃までは出家であつたが。
▲出「ほう。
▲シ「出家といふものは、朝夕の勤行の旦那あしらひのというて、事難しいものぢやによつて、ふと落堕{*4}したれば、出家の時分には斎非時のくれ手もあつたれども、今では左様の事はなし。行き当たつてほうど迷惑する処に、そなたの仰しやる通り、こゝ元で出家と料理人を抱へうと聞いたによつて、某も出家の時分、精進料理を少し致し覚えて居る程に、有徳人の事なれば、料理人もあまたあらう程に、行く行くは見習うて魚類の料理をも致さうと存じてこれへ参つたれば、来るや否や未だ居直りもせぬに、この様な赤い魚や黒い魚を出いて、何やら難しい料理を云ひ付けられて、ほうど迷惑致す処でおりやる。
▲出「仔細を聞けば尤ぢや。扨々世には似た事もあるものでおりやる。
▲シ「その通りぢや。扨そなたは、二三年以前まで料理人であつたならば、魚類の料理をば何なりとするであらう。
▲出「おゝ。魚類の料理は何なりともする事ぢや。
▲シ「それならば良い相談があるわ。
▲出「何とするぞ。
▲シ「某はもと出家であつたによつて、経は何なりとも読む程に、その経を身共が読うでやらうず。又そなたはこの魚を料理してくれさしめ。
▲出「誠にこれは良い分別ぢや。
▲シ「まづかやうにして今日の間を合はせ、行く行くは、経をば身共が教へてやらう程に、料理をばそなた教へておくりやれ。
▲出「中々。教へておまさうとも。
▲シ「扨、経は何経ぢや。
▲出「何とやら云はれた。おう。それそれ。日経と仰しやつた。
▲シ「これはいかな事。日経といふ経があるものか。これへ見せさしめ。
▲出「さあさあ。見てくれさしめ。
▲シ「はあ。これは法華経ぢや。
▲出「誠に法華経であつた。
▲シ「定めてこれを日経に読め、と云ふ事であらう。
▲出「おう。それそれ。居間に居て聞く程に、いかにも高らかに日経に読め、と云はれた。
▲シ「さうであらう。それならば経を読まう程に、そなたはこの魚を料理しておくりやれ。
▲出「心得た。まづ身拵へをせう。そなたは手伝うてくれさしめ。
▲シ「心得た。
▲出「まづこの衣に襷を掛けておくりやれ。
▲シ「心得た。扨々、料理といふものは甲斐甲斐しいものでおりやるの。
▲出「中々。甲斐甲斐しうなうてはならぬ事でおりやる。さあさあ。そなたは早う経を読ましめ。
▲シ「心得た。妙法蓮華経。にやむにやむにやむ。
▲出「はゝあ。扨も扨も読むわ読むわ。立て板に水を流す様に読む。いや。なうなう。
▲シ「何事ぢや。
▲出「この鯛は何になるぞ。
▲シ「鯛とは。
▲出「この赤い魚ぢや。
▲シ「その赤い魚を鯛と云ふか。
▲出「中々。
▲シ「その鯛は汁にする程に、輪切りとやら云はれた。
▲出「こゝな者は。汁になるならば背切りであらう。
▲シ「なう。その背切りであつた。
▲出「心得た。さあさあ。随分高らかに読うでくれさしめ。
▲シ「心得た心得た。《又経を読む。出家、鯛の鱗をふくを、シテ見て》
はゝあ。皮を剥くわ皮を剥くわ。
▲出「これはいかな。皮を剥くとは云はぬ。鱗をふくと申す。
▲シ「鱗をふく。
▲出「中々。
▲シ「難しい事でおりやるの。
▲出「よう覚えさしめ。
▲シ「心得た。《又経を読む。出家、魚頭を突く》
はゝあ。かぶを離いた。
▲出「《笑うて》扨々そなたはむざとした。それは皆精進料理の言葉ぢや。これは魚頭を突くと申す。
▲シ「何ぢや。魚頭を突く。
▲出「中々。
▲シ「扨々、色々難しい事がある事でおりやるの。
▲出「その通りでおりやるとも。さあさあ。随分高らかに読ましめ。
▲シ「心得た心得た。《又経を読む。出家、鯛を背切りにする》
ほう。輪切りにするわ。
▲出「これはいかな事。これは背切りでおりやる。
▲シ「それが背切りでおりやるか。
▲出「中々。さあさあ。随分精を出いて読ましめ。
▲シ「心得た。《又経を読む。出家、鯛を切り済まして》
▲出「扨も扨も高らかに読むわ読むわ。いや。これこれ。
▲シ「何事ぢや。
▲出「この鯉は何になるぞ。
▲シ「はあ。その黒い魚を鯉と云ふか。
▲出「中々。
▲シ「それは確か酢和へにするによつて、細かう刻めとやら云はれた。
▲出「《笑うて》最前から和御料の云ふは、皆精進料理の言葉ぢや。定めて刺身になるによつて、切り目尋常に細造りであらう。
▲シ「おう。その細造りであつた。
▲出「定めてさうであらう。さあさあ。又読ましめ。
▲シ「心得た心得た。《又経を読む。出家、鱗をふく》
はゝあ。鱗をふくわ。
▲出「はあ。和御料は早覚えたの。
▲シ「中々。覚えたとも。
▲出「さりながら、この鯉に限つて鱗をふくとは申さぬ。毛をふくと申す。
▲シ「毛をふく。
▲出「中々。違ふ事ぢや。
▲シ「扨々、それは難しい事でおりやる。
▲出「これこれ。難しい事ぢや程に、よう覚えさしめ。
▲シ「心得た。《経を読む。出家、魚頭を突くを見て》
はゝあ。魚頭を突いたわ。
▲出「よう覚えたの。
▲シ「随分気を付けて覚ゆる事ぢや。《三枚におろすを見て》
はゝあ。へぐわへぐわ。
▲出「これは三枚におろすと申す。
▲シ「三枚におろす。
▲出「中々。
▲シ「色々の事がおりやるの。
▲出「その通りぢや。早う読ましめ。{*5}
▲シ「《シテ又経を読む。細造りを見て》刻むわ刻むわ。
▲出「《笑うて》これが細造りでおりやる。
▲シ「それが細造りでおりやるか。
▲出「中々。
▲シ「これは難しさうな事ぢや。
▲出「いかにも。これはつゝと手際ものでおりやる。
▲シ「さう見えた。
▲出「さあさあ。経を読ましめ。
▲シ「心得た心得た。《細造りの時分、主立つて》
▲主「出家の経を読む声は聞こえまするが、惣八が料理が出来るか、参つて見ようと存ずる。これはいかな事。惣八が経を読む。出家が料理をする。定めてすつぱであらう。やいやいやい。
▲二人「これはいかな事。見付けられたさうな。《と云うて、出家は鯛を持つて脇座へ行き、経にして読む。惣八は経を持つて笛の上へ行て、「苦々しい事ぢやが、何とせう」と云うて居る》
▲主「やいやい。おのれ、それは鯛ではないか。
▲出「これは日経でござる。
▲主「何の日経。
▲出「あゝ。許させられい許させられい。
▲主「やるまいぞやるまいぞ。《この内、惣八「致し様がござる」と云うて、経を切つて居る》
▲主「やいやい。勿体ない。それは法華経ではないか。
▲シ「これは背切りでござる。
▲主「何の背切り。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい。
▲主「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:岩波文庫本(『能狂言』1945刊)と同じであるが、何らかの脱文があるか。
 2・4:底本は、「堕落」。
 3:底本は、「料理をしてくれしめ」。
 5:底本は、「読ましめ。《シテ又経を読む。細造りを見て。》▲シ「」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の四 六 俄道心」(国立国会図書館D.C.

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