禁野(きんや) 大蔵流本

▲オモアト「これはこの辺りの者でござる。この禁野は昔より殺生禁断の所でござるによつて、この間何者やら毎日禁野へ出て殺生を致すによつて、捕らへうとは存ずれども、弓矢を持つて居まするによつて、聊爾に近付く事がなりませぬ。それにつき、私の工み出いた事がござるが、一人ではなりませぬ。こゝに誰と申す大いたづら者がござる程に、今日はこれを語らうて捕らへうと存ずる。《常の如く道行云うて、案内を乞うて》
只今参るも別なる事でもござらぬ。一人ではなりませぬによつて、こなたも来て下されうならば忝うござる。
▲次アト「扨々それは憎い奴でござる。成程私も参つて、こなたと致いて丸裸に致いてやりませう。
▲オ「それは忝うござる。それならばまづござれ。
▲次「まづこなたからござれ。
▲オ「私から参らうか。
▲次「それが良うござらう。
▲オ「さあさあござれござれ。
▲次「参る参る。
▲オ「この野は昔より殺生堅く禁断の所でござるに、それへ出ると申すは、近頃大胆な奴でござる。
▲次「誠に大胆な奴でござる。
▲オ「今日も天気が良うござるによつて、出ぬ事はござるまい。
▲次「中々。出ぬ事はござるまい。
▲オ「いや。参る程に禁野でござる。
▲次「誠に交野へ参つた。
▲オ「いつもこの辺りへ出まする。これに待つて{*1}居りませう。
▲次「それが良うござらう。
▲シテ「罷り出たる者は、いづれもご存じの者でござる。毎日交野へ殺生に参る。また今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠にこの交野は禁野と申して、昔より殺生禁断の所ではござれども、さる仔細あつて某は苦しうござらぬ。それ故かやうに毎日殺生に出る事でござる。昨日は雉子がほろゝをかけてござるによつて、二つまで射取つてござる。何とぞ今日も仕合せを致したい事でござる。いや。何かと申す内に、これは早交野ぢや。昨日はこの辺りに雉子があまた見えたが、今日は一羽も居らぬ。{*2}
▲オ「《シテ出たるを見付けて》申し。あれでござる。
▲次「はあ。あれでござるか。
▲オ「中々。私が言葉を掛けて、誑いて弓矢を取りませう程に、弓矢を取つたならばこなたも出させられい。
▲次「何が扨、心得ました。《これより言葉を掛くる》
▲オ「申し申し。これは殺生に出させられてござるか。
▲シ「中々。殺生に出ておりやる。
▲オ「総じて昔より、この交野は殺生禁断の所ぢやと申しまするが、何としてこなたには殺生をなされても苦しうござらぬか。
▲シ「仰しやる通り、この交野は昔より殺生禁断なれども、さる仔細あつて某は苦しうない事でおりやる。
▲オ「それは一段の事でござる。扨この交野を禁野と申すには、何ぞ仔細でもござるか。
▲シ「中々。夥しい仔細がある。知らずば語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲オ「心得ました。
▲シ「まづこの交野を禁野と云ふ事は、人皇三十四代推古天皇の御宇にてもやありけん、この所へ三足{*3}の雉子出来する。化鳥なれば退治あるべしとて鷹匠に仰せ付けられ、逸物の鷹を合はせけれども、かの雉子の尾、刃の剣にて、御鷹を刺し殺し候ふ間、鷹匠色々工夫をめぐらし、くろがねにて鷹を作り、かの雉子に合はせければ、真の鷹と心得、刺せども刺せども刺されず。その時{*4}逸物の大鷹を助け、鷹にやりかけ、ひしと取り組みたる処を、人々寄り合ひ打ち殺したるにより、助け鷹といふ事始まりたり。化鳥なればその雉子を土中に突つ込み神に斎ひ、雉子の宮と号し雉子領を下され、その跡を禁野と名付け、今に至るまで殺生禁断なり。さりながら最前も云ふ通り、さる仔細あつて某は苦しうない事でおりやる。
▲オ「扨も扨もかやうの仔細を初めて承つてござる。扨今日も何ぞ射させられてござるか。
▲シ「さればその事ぢや。昨日はこの辺りでほろゝをかけたによつて、二つまで射取つておりやるが、今日は未だ何も得ぬ事でおりやる。
▲オ「はあ。すれば昨日の雉子は、古歌の心を知らいでほろゝをかけたものでござらう。
▲シ「いや。和御料はこびた事を云ふが、その歌は何といふ歌ぢや。
▲オ「もの云へば父はながらの人柱啼かずば雉子も射られまじきを。この歌は昔、ながらの橋の人柱に立つた者の娘の詠うだ歌ぢやと申すが、昨日の雉子もこの歌の心を存じて居たならば、こなたの御手には掛かりますまいものを。
▲シ「扨々そなたは近頃面白い事を云ふ人ぢや。暇ならば今日はゆるりと同道して、何とぞ身共が手際の程を見せたい事でおりやる。
▲オ「誠にこなたのお手際を拝見致したい事でござる。
▲シ「今日は天気も良いによつて、雉子は居さうなものぢやが。
▲オ「誠に今日は天気も良うござる程に、雉子が居りさうなものでござるが。いや。申し申し。向かうに雉子が居まする。早う射させられい。
▲シ「どれどれ。どこ元に居るぞ。
▲オ「あれ。あの草の蔭に居まする。
▲シ「はて合点の行かぬ。某が目には見えぬ。
▲オ「あれ程頭を上げて居まする。しかも雄鳥でござる。早う射させられい。
▲シ「そなたがその様に仰しやると心がせくによつて、いよいよ某が目には見えぬ。
▲オ「扨々もどかしい。早立ちまする程に、早う射させられいと申すに。
▲シ「はて、射たいものぢやが。どちに居る事ぢや知らぬ。
▲オ「すれば、すきと見えませぬか。
▲シ「中々。いかやうにしても見えぬ。
▲オ「もはや立ちさうに致しまする程に、弓矢を貸させられい。私が射て進じませう。
▲シ「それならば弓矢を貸す程に、早う射てくれさしめ。
▲オ「心得ました。これへおこさせられい。
▲シ「中つたならば、構へて雉子はこちへおこさしめ。
▲オ「いかにも雉子はこなたへ進じませうとも。
▲シ「早う射さしめ。
▲オ「がつきめ。やるまいぞ。
▲シ「これは危ない。何とするぞ。
▲オ「何とするとは。この殺生禁断の所で、よく雉子を射居つた。おのれ一矢に射殺いてくれう。
▲シ「あゝ。まづ待て。
▲オ「待てと云ふ事があるものか。
▲シ「あゝ。出合へ出合へ。
▲次「あゝ。これこれ。そなた達は何を喧しう仰しやるぞ。
▲オ「さればその事でござる。あの者がこの殺生禁断の所で毎日雉子を射まするによつて、あの様な者は見せしめに只一矢に射殺いてやりませう。そこを退かせられい。
▲シ「あゝ。止めておくりやれ。
▲次「まづお待ちあれ。某がきつと叱つてやらう。
▲オ「それならば、きつと叱つて下されい。
▲次「申し申し。こなたは見れば御仁体でござるが、この殺生禁断の所でなぜに殺生をなさるゝぞ。
▲シ「さればその事ぢや。今日は天気も良いによつて、身共は的前{*5}を射に出たれば、あの者が雉子を射るによつて弓矢を貸せと云うた程に、貸しておりやる。あの者こそ殺生をすれ、某は何も咎はない程に、あの弓矢を取つておくりやれ。
▲オ「まだそのつれな事をいふか。昨日も二つまで雉子を射たと云うたではないか。その上禁野の仔細も知つて居ながら毎日毎日殺生をする。おのれが様な者は後々の見せしめに一矢に射殺いてやらう。
▲シ「あゝ。真つ平命を助けてくれい。
▲オ「何ぢや。命が助かりたい。
▲シ「中々。
▲オ「いや。申し。それならば、あれが差いて居る物をおこせと仰せられて下されい。
▲次「心得た。申し申し。こなたのひと腰をおこせと申しまする。
▲シ「何ぢや。差いた物をおこせ。
▲オ「中々。
▲シ「おのれは推参な事を云ふ。諸侍のひと腰が何と放さるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲オ「おのれ、おこさずば一矢に射殺いてやらう。
▲シ「あゝ。それならば遣らう遣らう。
▲オ「早うおこせ。
▲シ「是非に及ばぬ。これを遣ると云うてくれさしめ。
▲次「さあさあ。腰の物をば取つた程に、命をば助けてやらしめ。
▲オ「とてもの事に、あの小袖上下をも脱いでおこせと云うて下されい。
▲次「いや。申し申し。その小袖上下をも脱いでおこせと云ひまする。
▲シ「扨々おのれは憎い奴の。諸侍が何と丸裸にならるゝものぢや。遣る事はならぬ。
▲オ「それをおこさずば一矢に胴腹を射てくれう。
▲シ「はあ。それならば遣らう遣らう。
▲次「申し申し。命には替へられますまい。早う遣らせられい{*6}。
▲シ「あゝ。是非に及ばぬ。それならばこの小袖上下を遣る程に、弓矢をばこちへ返せと云うて、取つてくれさしめ。
▲次「心得ました。《と云うて小袖上下を取つて》
やい。聞くか。
▲シ「何事ぢや。
▲次「我々はこの辺りに隠れもない大いたづら者ぢやが、おのれがこの禁野へ毎日殺生に出るといふによつて、今日は捕らへて丸裸にせうと思うて、云ひ合はせて来た。身共はこれを取つて退くぞ。
▲シ「あのすつぱめ。憎い奴の。その弓矢をおこさしめ。一矢に射てやらう。
▲オ「又そのつれな事を云ふ。おのれこそ一矢に射殺いて{*7}やらう。
▲シ「あゝ。命ばかりは助けてくれい助けてくれい。
▲オ「どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「参つて」。
 2:底本は、「居らぬ。《シテ出たるを見付けて》▲オ「」。
 3:底本は、「三疋」。
 4:底本は、「その」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)により補った。
 5:底本は、「的箭」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)により改めた。
 6:底本は、「早うせられい」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)により補った。
 7:底本は、「射て」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)により補った。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の四 七 禁野」(国立国会図書館D.C.

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