狐塚(きつねづか) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。当年は豊年とは申しながら、某が田は畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はござらぬ。さりながら、この間狐塚の田{*1}へ群鳥があまたつくと申すによつて、両人の者どもを呼び出し、群鳥を逐ひに遣はさうと存ずる。やいやい。両人の者ども。あるかやい。
▲シテ次郎冠者両人「はあ。
▲主「居たか。
▲両人「お前に{*2}。
▲主「念なう早かつた。汝ら{*3}呼び出す事、別なる事でもおりない。当年は豊年とは云ひながら、某が田は畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はないゝやい。
▲シテ「誠にこなたの田は、畦を限つて良う出来て、我々までも皆悦ばしい事でござる。
▲主「これと云ふも、汝らが精を出いてくれた故ぢやと思へば、ひとしほ悦ぶ事ぢや。
▲シ「左様に思し召して下さるれば、両人ともに骨を折つたしるし{*4}があつて、近頃忝う存じまする。
▲主「扨それにつき、ちと苦々しい事があるわ。
▲シ「それは又いかやうな事でござるぞ。
▲主「別の事でもないが、この間狐塚の田へ群鳥がつくと云ふ程に、汝らは太儀ながら、今から逐ひに行てくれい。
▲シ「畏つてはござれども、左様の事は幼い者の役でござるによつて、誰ぞ小児を遣らせられい。
▲主「近頃尤ぢやが、聞けば狐塚へは悪い狐が出ると云ふによつて、それ故幼い者は遣られぬ。その上夜分の事ぢや程に、太儀ながら汝ら行てくれい。
▲シ「その儀でござらば畏つてござる。
▲主「まづそれに待て。
▲二人「心得ました。
▲主「この鳴子を遣るによつて、これで逐つてくれい。
▲二人「畏つてござる。
▲主「扨、庵をも二つ作つて置いた程に、両人ともにそれへ這入つて居よ。
▲二人「心得ました。
▲主「ゑい。
▲二人「はあ。
▲シ「いや。なうなう。
▲次「何事ぢや。
▲シ「扨当年は豊年とは云ひながら、頼うだ人の田は畦を限つて良う出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲次「仰しやる通り、めでたい事でおりやる。
▲シ「今も仰せらるゝは、これと云ふも両人が精を出いた故ぢやと仰せられたが、何と忝い事ではないか。
▲次「誠に、骨を折つたしるしがあつて、近頃満足な事でおりやる。
▲シ「いざ。さらば日の暮れぬ内に行かうではないか。
▲次「いかさま。少しも早う行かしめ。
▲シ「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲次「参る参る。
▲シ「扨あの狐塚は、悪い狐が出ると云ふが、何と気味の悪い事ではないか。
▲次「仰しやる通り、気味の悪い事でおりやる。
▲シ「さあさあ。この鳴子をそなた持たしめ。
▲次「いやいや。和御料に仰せ付けられた事ぢやによつて、そなた持つて行かしめ。
▲シ「扨々そなたは義理の堅い事を仰しやる。両人へ仰せ付けられた事ぢやによつて、和御料も持たしめ。
▲次「それならばちと持たう。これへおこさしめ。
▲シ「心得た。さあさあおりやれおりやれ。
▲次「参る参る。
▲シ「両人して精を出いて作つた田を群鳥に荒らさるゝといふは、何と腹の立つ事ではないか。
▲次「仰しやる通り、群鳥などに荒らさるゝといふは、残念な事でおりやる。扨、この鳴子を又和御料に渡さう。
▲シ「扨々そなたは義理の堅い事を云ふ。今少しぢや程に、持つて行かしめ。
▲次「いやいや。和御料の持つた程は持つたによつて、又そなた持たしめ。
▲シ「それならば、仲良う両人して持つて行かう。
▲次「これは一段と良からう。
▲シ「とてもの事にこの辺りから逐ひもつて行かう。
▲次「それが良からう。《両人して鳴子を引つ張りて》
▲二人「ほゝいほゝいほゝいほゝい。
▲シ「何と夥しい群鳥ではないか。
▲次「誠に夥しい群鳥ぢや。
▲シ「又あれへも来るわ。
▲次「心得た。
▲二人「ほゝいほゝいほゝいほゝいほゝい。
▲シ「いや。何かと云ふ内に{*5}、これは早狐塚へ来たさうな。
▲次「誠に狐塚ぢや。
▲シ「頼うだ人の、庵を二つ作つて置いたと仰せられたが、どこ元にある事ぢや知らぬ。
▲次「仰しやる通りどれにあるか、日が暮れたによつて知れぬ。
▲シ「いや。一つはこれにあるわ。
▲次「それならば、今一つもこの辺りであらうが、どれにあるか。いや。これにある。
▲シ「それならば、それへ這入つて逐はしめ。身共もこれへ這入つて逐はう。
▲次「それならば身共も這入らう。
▲シ「いや。なう。これ程に作り済まいた田を鳥などに荒らさるゝといふは、近頃腹の立つ事ではないか。
▲次「仰しやる通り、腹の立つ事でおりやる。
▲シ「又あれへ群鳥が来た。
▲次「誠に夥しう来た。
▲二人「ほをゝいほをゝいほをゝいほをゝいほをゝい。
▲シ「逃ぐるわ逃ぐるわ。扨も扨も夥しい事ぢや。
▲次「誠に夥しい事ぢや。
▲シ「いかに鳥ぢやと云うても、あの夥しい鳥に喰はれては、そなた某が骨を折つたも無になる事ぢや。
▲次「誠にその通りでおりやる。
▲シ「又あれへ来た。
▲次「心得た。
▲二人「ほをゝいほをゝいほをゝいほをゝいほをゝい。《この言葉の内に主出る。両人庵へ入つたなれば、出て良し》
▲主「両人の者を狐塚へ群鳥を逐ひに遣はしてござるが、夜も長し、寒うもござるによつて、御酒を持つて参つてやらうと存ずる。定めて両人ともに退屈致すでござらう。いや。何かと云ふ内に狐塚ぢや。ほをゝい。太郎冠者。次郎冠者。
▲二人「何事ぢや。
▲シ「誰やら呼ぶ様な。
▲次「身共もさう思ふ。
▲シ「定めて狐であらう。必ず油断をお召さるな。
▲次「心得た。
▲シ「いや。これこれこれ。よう聞けば、あれは頼うだ人の声ではないか。合点の行かぬ事ぢや。
▲次「何とも合点の行かぬ事でおりやる。
▲シ「さりながら、返事をせずばなるまい。
▲次「いかさま。返事をせいでも居られまい。
▲二人「ほをゝいほをゝいほをゝい。いゑ。頼うだ人でござるか。
▲主「いゑ。両人ともにそれに居るか。
▲シ「中々。これに居まするが、これは何と思し召し、只今時分出させられてござるぞ。
▲主「夜も長し、夜寒なによつて、汝らに酒を一つ呑ませうと思うて持つて来た。
▲シ「それは近頃忝うござる。まづこれへ寄つて田の様子を見させられい。
▲主「心得た。
▲シ「次郎冠者。これへおりやれ。
▲次「心得た。
▲シ「何とよう化けたではないか。
▲次「いかさま。その儘の頼うだ人ぢや。
▲シ「必ず酒を呑ましますな。
▲次「抜かる事ではない。《この内主、「扨も扨も、これまでに汝らが骨を折つて作り済まいた田を、群鳥に荒らさるゝといふは、腹の立つ事ぢや」など云うて》
▲主「太郎冠者。次郎冠者。両人ともにどれへ行たぞ。
▲二人「これに居りまする。
▲主「汝らはどれへ行たぞ。
▲シ「只今あれへ群鳥が参りましたによつて、それを逐ひに参りました。
▲主「やれやれ。それは大儀ぢや{*6}。まづ一つ呑め。
▲シ「お酌はこれへ下されい。
▲主「身共が注いでやらう。
▲シ「これは慮外にござる。
▲主「おう。恰度ありさうな。
▲シ「恰度ござる。いや。申し。頼うだ人。あの山間からこの田へ夥しう群鳥が参りまする。
▲主「定めてさうであらう。《と云うて、主見る内、シテ、酒を捨つるなり。以下両人ともに同じくする》
さあ。次郎冠者。汝も一つ呑め。
▲次「畏つてござる。おう。恰度ござる。
▲主「恰度ありさうな。
▲次「いや。申し。又向かうの森を見させられい。あれからも夥しう群鳥が出まする。
▲主「さぞさうであらう。太郎冠者。今一つ呑め。
▲シ「これは忝うござる。いや。申し申し。群鳥ばかりでもござらず、こゝ元は山田でござるによつて、折々は猿や猪なども出まする。
▲主「定めてさうであらう。
▲シ「あれ見させられい。何やら出ましてござる。
▲主「はあ。どこ元へ出たぞ。
▲シ「又どれへやら這入りました。
▲主「さあさあ。汝も又一つ呑め。
▲次「畏つてござる。あれ。あの田を見させられい。夥しい群鳥でござる。
▲主「誠に夥しい群鳥ぢや。さあさあ。太郎冠者。今一つ呑め。
▲シ「今一つたべませう。
▲主「それが良からう。
▲シ「いや。申し。
▲主「何事ぢや。
▲シ「こなたの田は見させらるゝ通り青々と生ひ立ちまして、穂などもよう出ましたが、あれ、向かうの田を見させられい。あの如く瘠せて見えまする。
▲主「誠に、畦一つ向かうは格別に痩せて見ゆる。さあさあ。汝も又一つ呑め。
▲次「心得ました。申し申し。あの山を見させられい。
▲主「何とした。
▲次「あれから夥しう群鳥が、あれ、あの如く出まする。
▲主「誠に夥しい群鳥ぢや。扨、もはや呑まぬか。
▲シ「もうたべますまい。
▲主「汝も呑まぬか。
▲次「私もゝはやたべますまい。
▲主「それならば帰らう。これは夜も長いに、汝ら両人でこれに居ては、さぞ淋しからうが、これ程にまで作り済まいて程なう今少しで取り入るゝ処を、群鳥に喰はするは残念な事ぢや程に、取り入れたならば両人ともにゆるりと休息させうによつて、精を出いて逐うてくれい。《この言葉の内に太郎冠者立つて》
▲シ「なう。こちへおりやれ。
▲次「何事ぢや。
▲シ「ようもようも化けたではないか。
▲次「仰しやる通り、頼うだ人にその儘ぢや。
▲シ「身共が思ふは、狐は煙を嫌がるものぢやと云ふによつて、両人していぶいて正体を顕はし、生け捕りにして頼うだ人への土産にせうではないか。
▲次「これは一段と{*7}良からう。
▲シ「必ず抜かるまいぞ。
▲次「抜かる事ではない。
▲主「やいやい。両人ともどれへ行たぞ。
▲二人「これに居りまする。又あれへ群鳥が参りましたによつて、逐ひに参りました。
▲主「それは近頃骨折りぢや。
▲シ「やい。くんと云へ。
▲主「何とするぞ。
▲シ「くんと云へ。
▲次「尾を出せ尾を出せ。
▲主「これは何とするぞ。《主迷惑するを、両人悦んで松葉にてふすべて》
▲シ「くんと云へ。
▲次「尾を出さぬか。
▲主「汝らは何とするぞ。
▲二人「何とすると云うて、ようもようも。頼うだ人へのお土産にするぞ。《と云うて、鳴子の縄にて主を両人して縛る》
▲主「やいやい。これは身共ぢやわ。
▲二人「頼うだ人でござるか。あゝ。許させられい許させられい。
▲主「おのれら憎い奴の。主をこの様にして、将来がようあるまい。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「狐塚田」。
 2:底本は、「御前」。
 3:底本は、「汝を」。
 4:底本は、「証」。
 5:底本は、「云ふ内」。
 6:底本は、「太儀や」。
 7:底本は、「一段」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の四 九 狐塚」(国立国会図書館D.C.

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