入間川(いるまがは) 大蔵流本
▲シテ「東国に隠れもない大名です。永々在京致す処に訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を戴き新知を過分に拝領致し、その上国元への御暇までを下されてござる。この様なありがたい事はござらぬ。まづ太郎冠者を呼び出いて、悦ばせうと存ずる。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シ「居るか居るか。
▲冠「はあ。
▲シ「居たか。
▲冠「お前に。
▲シ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「汝を呼び出す事、別なる事でもない。永々在京致す処に訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を戴き新知を過分に拝領したは、何とありがたい事ではないか。
▲冠「かやうのお仕合せを待ち受けまする処に、近頃めでたう存じまする。
▲シ「それよそれよ。それにつき、又汝が悦ぶ事があるわいやい。
▲冠「それはいかやうの事でござるぞ。
▲シ「国元への御暇までを下された。
▲冠「これは重ね重ね、思し召す儘のお仕合せでござる。
▲シ「扨、追つ付けて国元へ下らう程に、汝は太刀を持つて供をせい。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「えい。
▲冠「はあ。お太刀を持ちましてござる。
▲シ「何と持つたか。
▲冠「中々。
▲シ「さあさあ、来い来い。
▲冠「参りまする。
▲シ「国元を出づる時は、我も我もと供をしたれども、永々の在京なれば、皆国元へ下つてあるに、汝一人はよう奉公をしたによつて、国元へ下つたならば、くわつと取り立てゝとらせうぞ。
▲冠「それは悦ばしい事でござる。
▲シ「馬に乗せう。
▲冠「尚々でござる。
▲シ「が、乗り付けぬ馬に乗れば、必ず落つるものぢやによつて、馬に乗るまでは牛に乗せう。
▲冠「それはともかくも御意次第でござる。
▲シ「《笑うて》これは戯れ言。馬に乗る程に取り立てゝとらせうぞ。
▲冠「それは近頃でござる。
▲シ「さあさあ来い来い。
▲冠「参りまする。
▲シ「はゝあ。富士山。はあ。三国一の名山ぢやと褒めて置かれたが、どれから見ても形の良い山ではないか。
▲冠「誠にどれから見ましても、なりの良い山でござる。
▲シ「すれば駿河の国ぢや。
▲冠「左様でござる。
▲シ「国元へ近うなつた。急げ急げ。
▲冠「心得ました。
▲シ「千里の行も一歩より起こると。都を出る時は遥々の様に思うたが、早駿河の国までは来たわ。
▲冠「誠に駿河の国までは御出なされてござる。
▲シ「はゝあ。これは又渺々とした広い野へ出たが、これは何といふ野ぢや。
▲冠「されば何と申す野でござるか、存じませぬ。
▲シ「これは定めて武蔵野であらう。
▲冠「左様でござらう。
▲シ「はて、武蔵野をのけてこの様な大きな野はあるまい。
▲冠「誠にこの様な広い野は、武蔵野の他にはござるまい。
▲シ「すれば、武蔵の国ぢや。
▲冠「左様でござる。
▲シ「国元へはいよいよ近い。急げ急げ。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「国元ではこの様な事は知らいで、今日か明日かと待ち兼ねて居るであらうなあ。
▲冠「殊ないお待ち兼ねでござらう。
▲シ「戻つてこの様子を話いたならば、さぞ悦ぶであらう。
▲冠「さぞお悦びでござりませう。
▲シ「これは又大きな河へ出たが、これは何といふ河ぢや。。
▲冠「されば何と申す河でござるか、私も覚えませぬ。
▲シ「定めて上りに渡つたであらうが、はつたと忘れた。
▲冠「私も忘れました。
▲シ「河の名が問ひたいが、近辺に人がないか。
▲冠「誰も見えませぬ。
▲シ「いや。川向かひに人が見ゆる。問うて見よう。
▲冠「それが良うござらう。
▲入間「これは入間の何某です。所用あつて川向かひへ参る。まづ急いで参らうと存ずる。
▲シ「やいやい。向かひの者に問はうやい。
▲入「これはいかな事。この辺りであの様に某に横柄に申す者はござらぬ。定めて道通りであらう。この方からも返答の致し様がござる。やいやい。向かひな者に物が問ひたいと云ふは、こちの事か。何事ぢやいやい。
▲シ「太刀をおこせ。
▲冠「まづ待たせられい。
▲シ「今のを聞かぬか。
▲冠「さればその事でござる。国元でこそ、こなたをお大名と存じて居りますれ、こゝ元では存じますまい程に、只お言葉を直いて問はせられい。
▲シ「むゝ。これは尤ぢや。こゝ元では知るまい。それならば言葉を直いて問はう。
▲冠「それが良うござらう。
▲シ「いや。申し申し。向かひな人に物が問ひたうござる。
▲入「さればこそ言葉を直いた。又この方からも言葉を直いて申さう。いや。申し申し。向かひな者に物が問ひたいと仰せらるゝは、こちの事でござるか。何事でばしござるぞ。
▲シ「何事でばしござるぞござるぞ。《笑うて》やいやい。太郎冠者太郎冠者。
▲冠「何事でござるぞ。
▲シ「さればこそ言葉を直いた。
▲冠「直しましてござる。
▲シ「昔も、売る言葉に買ふ言葉とは、よう云うたものぢやなあ。
▲冠「左様でござる。
▲シ「河の名を問はう。
▲冠「良うござりませう。
▲シ「申し申し。この河は何と申すぞ。
▲入「入間河と申す。
▲シ「いや。太郎冠者。入間河ぢやと云ふ。
▲冠「左様に申しまする。
▲シ「すれば、上りに渡つたものを、はつたと忘れた。
▲冠「私も忘れました。
▲シ「いや。申し申し。向かひの宿は。
▲入「入間の宿。
▲シ「方々の御名字は。
▲入「いゝや。名もない者でござる。
▲シ「見ますれば御仁体と見受けてござる。包まずと御名を仰せられい。
▲入「身不肖ながら、入間の何某{*1}です。
▲シ「あつ。やい。太郎冠者。入間の何某{*2}ぢやと云ふ。
▲冠「左様に申しまする。
▲シ「すれば、最前横柄に云うたは尤ぢやなあ。
▲冠「尤でござる。
▲シ「渡しを問はう。
▲冠「良うござりませう。
▲シ「申し申し。この河は、どこ元を渡りますぞ。
▲入「昔はこの通りを渡つてござれども、今は瀬が違うて上へ廻りまする程に、方々にも上へ廻らせられい。
▲シ「何と仰せらるゝぞ。前はこの通りを渡つたれども、今は瀬が違うて上へ廻るによつて、某にも上へ廻れでござるの。
▲入「中々。
▲シ「真実、入間河でござるの。
▲入「よゝ。入間河でござる。
▲シ「太郎冠者。渡り瀬が知れた。某に引つ添うて渡れ。
▲冠「申し申し。上へ廻れと申されまする。
▲入「いや。申し。上へ廻らせられい。
▲シ「向かひの宿は。方々{*3}の御名字は。
▲入「これはいかな事。ひと絞りにならせられた。それ故上へ廻らせられいと申したに。扨々気の毒な事かな。
▲シ「お直り候へ。
▲入「何と召さる。
▲シ「何とするとは。覚えがあらう。
▲入「いや。覚えはおりない。
▲シ「最前この川の名を問へば、入間川とは仰しやらぬか。
▲入「はて。入間川ぢやによつて入間川と申した。
▲シ「向かひの宿は入間の宿。方々の御名字はと問へば、入間の何某とは仰しやらぬか。
▲入「何某ぢやによつて何某と申した。
▲シ「昔より入間様と云つて、この所では逆さ言葉に使ふと聞いた。上へ廻れと云ふはこゝを渡れといふ事かと思うて渡つたれば、諸侍に欲しうもない水をほつてとお飲ましやつた。堪忍ならぬ。成敗致すぞ。
▲入「扨は方々には、入間様の逆さ言葉をご存じあつて、ご成敗なさるゝぢやまで。
▲シ「おんでもない事。
▲入「とてもの事に、御誓言で承らう。
▲シ「弓矢八幡、成敗致すぞ。
▲入「あら心安や。ざつと済んだわ。
▲シ「ざつと済んだとは。
▲入「さればその事でござる。私も年久しうこの所に住居致せども、入間様の逆さ言葉を存ぜぬ処に、方々にはようご存じあつて、弓矢八幡成敗なされうとの御事は、はて入間様ならば、御成敗なさるまいとの御事かと存じて、それ故ざつと済んだと申した。
▲シ「それでの。
▲入「中々。
▲シ「太郎冠者。これにほうど詰まつた。
▲冠「左様でござる。
▲シ「命を助けずばなるまい。
▲冠「お助けなされずばなりますまい。
▲シ「いや。なうなう。方々の命を助くるでもおりないぞ。
▲入「命を助けても下さらねば、忝うもござらぬ。
▲シ「忝うもござらぬござらぬ。《笑うて》やいやい。太郎冠者太郎冠者。人に命を助けて貰うて、忝うないは面白いなあ。
▲冠「左様でござる。
▲シ「何ぞおませたいものぢやが。いや。なうなう。さあさあ。この扇子は京扇でもなし、又さし古しもせぬものを、これをそなたへおまするでもおりないぞ。
▲入「はあ。この扇子は京扇でもなし、又おさし古しもなされぬものを、私へ下されもなされねば、祝着にもござらぬ。
▲シ「ござらぬござらぬ。《笑うて》太郎冠者太郎冠者。物を貰うて祝着にないは、何と面白いではないか。
▲冠「中々。面白うござる。
▲シ「又何ぞおませたいものぢやが。いや。申し申し。やあやあ。この太刀かたなでもないものは、重代わざよしでもないものを、これも和御料に進ずるでもおりないぞ。
▲入「はあ。この太刀かたなでもないものは、御重代わざよしでもないものを、私へ下されもなされねば、満足にもござらぬ。
▲シ「ござらぬござらぬ。《又笑うて》扨々面白い人ではないか。
▲冠「いかにも面白い人でござる。
▲シ「汝も何ぞ遣らぬか。
▲冠「私は何もござらぬ。
▲シ「吝い事を云ふ。この小袖上下を遣らう。
▲冠「いや。それはいらぬ物でござる。
▲シ「おのれが何を知つて。早う取つてくれい。
▲冠「心得ました。
▲シ「何と良いか。
▲冠「一段と良うござる。
｛と云うてから、太郎冠者引つ込む。｝
▲シ「いや。なうなう。やあやあ。この小袖上下でもないものは、この川へはまりもせねば濡れもせぬものを、これもそなたへおまするでもおりないぞ。
▲入「はゝあ。この御小袖上下でもないものは、この川へはまりもなされねば濡れもせぬものを、私へ下されもなされねば、大慶にもござらぬ。
▲シ「ござらぬござらぬ。《又笑うて》扨も扨も面白い事かな。この様な面白い事はござらぬ。《この言葉の内》
▲入「良い時分でござる。外さうと存ずる。
▲シ「いや。入間殿がどちへやら行かれた。いや。なうなう。入間殿入間殿。やあやあ。どれへおりやるぞ。
▲入「これを置いて参るまい。
▲シ「いや。それがないによつての事ぢや。まづこちへおりやるな。
▲入「心得ました。
▲シ「扨今までは入間様。その入間様をのけて、真実嬉しいか嬉しくないかを仰しやれ。
▲入「申し。こなたもよう思うても見させられい。この様に御小袖・御上下・御太刀かたな、御扇子まで拝領致いて、忝うないと申す事がござらうか。真実祝着にもござらぬ。
▲シ「それは入間様で合点ぢや。その入間様をこの川へさらりと流いて、真実を仰しやれと云ふに。
▲入「申し。こなたもよう思し召しても見させられい。この様に色々拝領致いて、忝うないと申す事がござらうか。身に余つて満足にもござらぬ。
▲シ「やあ。こゝな人は。身共をなぶるか。その入間様をのけて真実を云はねば、後へも先へも遣る事ではおりないぞ。
▲入「申し。こなたもよう思し召しても御らうぜられい。この様に御小袖・御上下・御太刀かたな、扇子までを下されて、忝うないと申す事があるものでござるぞ。身に余つて忝うござる。
▲シ「ざつと済んだわ。
▲入「済んだとは。
▲シ「はて。入間様ならば、忝うないといふ事であらう。こちへおこさしめ。
▲入「あの横着者。誑された。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1・2：底本は、「某」。 3：底本は、「旁」。
底本：『狂言全集 中巻』「巻の五 二 入間川」（国立国会図書館D.C.）
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