蟹山伏(かにやまぶし)　大蔵流本

▲シテ「《次第》三つの峯入り駈け出なる、三つの峯入り駈け出なる、行者ぞ尊かりける。

これは出羽の羽黒山より出たる駈け出の山伏です。この度、大峯葛城を仕舞ひ、只今本国へ罷り下る。いかに強力。

▲強力「お前に候ふ。

▲シ「国元へ下らうずる間、供をせい。

▲強「畏つてござる。

▲シ「さあさあ来い来い。

▲強「参りまする参りまする。

▲シ「扨この程の難行苦行は何と夥しい事ではないか。

▲強「御意の通り夥しい事でござる。

▲シ「扨某が行力を世上で何と云ふぞ。

▲強「こなたの事を世上で生き不動ぢやと申しまする。

▲シ「定めてさうであらう。汝も随分精を出いて早う先達になる様にせい。

▲強「何が扨、私も随分精を出す事でござる。

▲シ「いや。何かと云ふ内に、これは大きな沢へ出たが、これは何といふ沢ぢや。

▲強「されば何と申す沢でござるか、覚えませぬ。

▲シ「これは定めて江州蟹が沢であらう。

▲強「誠に蟹が沢でござらう。

▲シ「はあ。何とやら空が曇つて山が鳴る様な。

▲強「誠に山が鳴る様にござる。

▲シ「この様な所に長居は無用。急いで里近くへ行かう。

▲強「それが良うござらう。

▲シ「さあさあ来い来い。

▲強「参りまする参りまする。

▲シ「扨今日の天気はこの様に俄かに変らうとは思はなんだが。合点の行かぬ事ぢや。

▲強「左様でござる。《この言葉を云ひながら幕の方へ行く。蟹出る》

▲シ「やいやい。あれへ異形なものが出たわ。

▲強「誠に何やら異形なものが出ました。

▲シ「他に道はないか。

▲強「いや。他に道はござらぬ。

▲シ「まづ待て待て。某程の者が異形な物に逢うて、え言葉を{*1}掛けなんだとあつては、後難も口惜しい。言葉を掛けて見よう。

▲強「さりながら、傍へは御無用でござる。

▲シ「心得た。やいやい。それへ出たは何者ぢや。

▲蟹「二眼天にあり。一甲地に着かず。大足二足。小足八足。右行左行して遊ぶものゝ精にてあるぞとよ。

▲シ「何ぢや。二眼天にあり。一甲地に着かず。大足二足。小足八足。右行左行。これは蟹の精であらう。

▲強「誠に蟹の精でござらう。

▲シ「やい。その蟹の精が、何としてこれへは出たぞ。

▲蟹「汝が行法を慢ずる間、妨げんためこれまで出てあるぞとよ。

▲シ「やいやい。蟹の分として、某が行法を妨げうと云ふは、何と憎い事ではないか。

▲強「扨々憎い奴でござる。あの様な奴は、この金剛杖で甲を打ち砕いてやりませう。

▲シ「いやいや。それは無用にせい。

▲強「いやいや。苦しうござらぬ。おのれ憎い奴の。今この杖で甲を打ち砕いてくれう。《と云うて杖にて打つ。蟹飛び違ひ、強力の左の耳を挟む》

あ痛あ痛あ痛。

▲シ「何としたぞ何としたぞ。

▲強「したゝかに耳を挟みましてござる。

▲シ「それ見よ。それ故身共が無用にせいと云うたに。扨々苦々しい事ぢや。それならば身共がひと祈り祈つて祈り離いてやらう。

▲強「何とぞ祈り離いて下されい。

▲シ「心得た。それ山伏と云つぱ、山に起き伏すによつて{*2}の山伏なり。何と殊勝なか。

▲強「殊勝さうにはござれども、殊の外痛うてなりませぬ。

▲シ「今祈り離いてやらう。頭巾と云つぱ、一尺ばかりの布を真つ黒に染め、むざとひだを取つて戴くによつての頭巾なり。珠数と云つぱ、苛高の珠数ではなうて、むざとしたる草の実を繋ぎ集め、珠数と名付く。この珠数にてひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろをんぼろをんぼろをんぼろをん。

▲強「あゝ。申し申し。

▲シ「何事ぢや。

▲強「こなたの祈らせらるゝ程、強う挟みまする。

▲シ「何ぢや。祈る程強う挟む。

▲強「中々。

▲シ「それならばこの度は祈り殺いてやらう。

▲強「何とぞ祈り殺いて下されい。

▲シ「心得た。いかに悪心深き蟹なりとも、明王の索にかけて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろをんぼろをん。橋の下の菖蒲は苅れども苅られず。折れども折られず。ぼろをんぼろをんぼろをん。《祈る内、蟹段々追ひかけてシテの耳を挟むと、シヤギリ{*3}吹き出す。》

▲シ「あゝ。痛々々。《シヤギリにて跳んで、蟹は両人を突き倒して這入る》

▲二人「やいやい。あの蟹を捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注

　1：底本は、「言葉」。

　2：底本は、「に依すて」。

　3：底本は、「シヤリ」。