磁石(じゝやく) 大蔵流本
▲アト「これは遠江の国見付の宿の者でござる。某未だ上方を見物致さぬによつて、この度ふと思ひ立つてござる。まづそろりそろりと参らう。誠に皆人の仰せらるゝは、若い時旅をせねば年寄つての物語がないと仰せらるゝによつて、ふと思ひ立つてござる。いや。参る程に国境へ出たが、これは何といふ国ぢや。はあ。これは三河の国と見えた。この三河の国に八橋といふ名所がある。これを見物致さうか。いやいや。これは戻りの事に致さう。誠に皆の者に話いたならば、定めてのぼすまいと存じて、この度は某一人で上る事でござる。いや。又何かと申す内に国境へ参つた。やあやあ。何と云ふぞ。これは尾張の国ぢや。扨も扨も賑やかな国でござる。それそれ。尾張の国には熱田の明神といふ大社がある。これへ参らうか。いやいや。これも戻りの事に致さう。とかくまづ急いで京へ上り、こゝかしこを見物致いて、道すがら名所は戻りにゆるりと見ようと存ずる。いや。又これは国境へ出た。これは何といふ国ぢや知らぬ。はあ。向かうに青々と見ゆるは何ぢや。やあやあ。あれは近江の湖ぢや。すれば近江の国ぢや。扨々良い国でござる。いや。又こちらに夥しう人立ちがあるが、あれは何事ぢや。や。何ぢや。坂本の市ぢや。いや。これこそ承り及うだ市ぢや。その上程も近いによつて、これへは参つて見物致さうと存ずる。扨も扨も良い時分に通り掛かつて、珍しい市立ちを見物致す事でござる。いや。参る程に早市場ぢや。扨々夥しい事かな。あれからつゝとあれまで、皆市立ちゞや。ちと見物致さう。《「長光」の如く云うて、市立ちを見て褒むるなり》
▲シテ「これは大津松本の辺りを走り廻る、心も直にない者でござる。今日は坂本の市でござるによつてあれへ参り、良さゝうなものもござらば調儀致さうと存ずる。《道行。「茶壺」「長光」など同断》
いや。これに田舎者と見えて、売り物に見入つて居る。ちと当たつて見よう。《これより「長光」の如く口真似をして、「なう。久しいの」と云ふ。アト、肝を潰して》
▲ア「これはいかな事。扨々都は油断のならぬ。知らぬ者が言葉を掛くる。ちと所を替へよう。
▲シ「これはいかな事。眉あひの延びた奴かと存じたれば、目の鞘の外れた奴でござる。今一度当たつて見よう。これはいかな事。どちへやら所を替へた。某も所を替へう。《又初めの如くに真似して、「なう。久しいの」と云ふ》
▲ア「いや。そなたは最前から久しい久しいと仰しやるが、身共は知る人ではおりないぞや。
▲シ「こゝな人は、むざとした事を仰しやる。知らぬ者が何と言葉を掛くるものぢや。そなたはあの物の国の人ぢや。
▲ア「物の国と云ふ国があるものか。すれば真実知つておりやるか。
▲シ「中々。真実知つて居る。ありやうに仰しやれ。
▲ア「それならば云はう。身共は尾張の国の者でおりやる。
▲シ「おゝ。それそれ。尾張の国の人であつた。
▲ア「尾張の国には熱田の明神というて大社がある。
▲シ「おゝ。あるとも。
▲ア「その大社をつかつかと行て伏し拝む。《シテも同じ様に「伏し拝む」と云ふ》
いやいや。拝みはせぬせぬ。
▲シ「誠に。拝みはせなんだ。
▲ア「よう知つて居るの。
▲シ「中々。知つて居るとも。
▲ア「それならば、ありやうを云はう。
▲シ「ありやうを云はしめ。
▲ア「ありやうは、三河の国の者ぢや。
▲シ「誠に。三河の国の人であつた。
▲ア「三河の国には八橋といふ名所がある。
▲シ「おゝ。あるとも。
▲ア「あちらへこちらへ架けてあるわ。
▲シ「誠に。あちらへこちらへ架けてある。
▲ア「その八橋を。《シテ同じ様に云ふ》
あちらへはちよろり、こちらへはちよろと渡る。
▲シ「渡る渡る。
▲ア「いゝや。渡りはせなんだ。
▲シ「誠に、渡りはせなんだ。
▲ア「扨々和御料はよう知つて居るの。
▲シ「中々。よう知つて居る。ありやうに仰しやれ。
▲ア「それならば真実を云うて聞かさう。真実は、遠江の国見付の宿の者ぢや。
▲シ「誠に、遠江の国見付の宿の人であつた。
▲ア「見付の宿は、長い宿ぢや。
▲シ「成程、長い宿ぢやとも。
▲ア「それを真つ直に行て、左へひぢたをる{*1}。
▲シ「たをる。
▲ア「いやいや。左へひぢたをらいで。《シテ真似する》
右へきりゝと廻れば、堀掘り廻いた大きな藪がある。
▲シ「おゝ。あるともあるとも。
▲ア「その藪の中に、大きな家がある。
▲シ「誠に、大きな家がある。
▲ア「その家の内の者で。
▲シ「者で候ふ。
▲ア「いやいや。その内の者ではなうて、その傍に小さい家がある。
▲シ「おゝ。あるともあるとも。
▲ア「その小さい家の内の者で候ふ。
▲シ「誠に、小さい家の内の人であつた。
▲ア「よう知つておりやるの。
▲シ「中々。良う知つて居る。扨、そなたの内。おゝ。
▲ア「おゝ。お寮殿の事か。
▲シ「そのお寮殿の事ぢやが、何と変らせらるゝ事はないか。
▲ア「そのお寮様まで知つて居るか。
▲シ「身共は、あのお寮様に抱き育てられた者ぢや。
▲ア「すれば、そなたの事であらう。都へ上らば、言伝のしたい者があると仰せられた。
▲シ「それは疑ひもない身共が事ぢやが。何と御息災か。
▲ア「中々。変らせらるゝ事もおりない。
▲シ「扨そなたは今など上る人ではないが、何として上つた。
▲ア「さればその事ぢや。皆の者に云うたならば上すまいと思うて、忍うで上る事でおりやる。
▲シ「定めてさうであらう。扨これからどれへ行くぞ。
▲ア「身共は都へ上る。
▲シ「何ぢや。都へ上る。
▲ア「中々。
▲シ「それは幸ひな事ぢや。身共も明日は都へ上る程に、同道致さう。
▲ア「中々。同道致さうとも。
▲シ「この所に石山の観世音というて験仏者があるが、お参りやつたか。
▲ア「いや。まだ参らぬ。
▲シ「それならば、これは戻りの事にさしめ。
▲ア「戻りの事に致さう。
▲シ「今夜は身共が定宿へ連れて行て宿らせう。
▲ア「何とぞ泊めてくれさしめ。
▲シ「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲ア「参る参る。
▲シ「扨そなたは何ぞ用意召されたか。
▲ア「路銭の足しに致さうと存じて、細物を用意致いた。
▲シ「それは一段の事ぢや。こゝは物騒な程に、泊まりへ着いたならば、某に預けさしめ。
▲ア「何が扨預けうとも。
▲シ「いや。何かと云ふ内に、これが定宿ぢや。つゝと通らしめ。
▲ア「心得た。身共は殊の外草臥れた程に、もはや伏せらう。
▲シ「これこれ。洗足でも使はぬか。湯も茶も嫌か。これはいかな事。きやつは旅疲れに疲れたと見えて、正体がない。いや。なうなう。宵の内、身共は勝手へ行て亭主と話いて居る程に、何ぞ用があらば仰しやれや。扨も扨も、殊の外草臥れた体ぢや。なうなう。御亭主。ござるか。ござりまするか。
▲亭「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲亭「和御料の来るを待つて居た。
▲シ「それは又いかやうの事でござる。
▲亭「さればその事ぢや。この間の者は何の役に立たぬ程に、良い者があらば取り替へてくれさしめ。
▲シ「あれはよう使はるゝ者でござるがの。
▲亭「いやいや。何の役に立たぬ者でおりやる。
▲シ「それならば、今日坂本の市で良い若い者を誑いて、則ち表の座敷へ連れて参つて寝させて置きました。あれと替へて進ぜう。
▲亭「それと替へてくれさしめ。
▲シ「扨明日は所用あつて都へ上りまするが、鳥目二百疋いりまする。六つ太鼓の時分表を叩きませう程に、貸して下されい。
▲亭「易い事。貸しておまさう。
▲シ「頼みまするぞ。
▲亭「心得た。
▲シ「なうなう。洗足でも使はぬか。湯も茶も嫌か。扨も扨もよう寝た。身共もこれに寝る程に、用があらば起こさしめや。《と云うて背中合せに寝る。アト、シテ亭主と話すを立ち聞きするなり。シテ寝てからアトそつと起きて、抜き足して》
▲ア「なうなう。恐ろしや恐ろしや。人売りに出合うた。急いで参らうか。夜前身共を鳥目二百疋に売り付けた。これを取つて路銭の足しに致さうと存ずる。《太鼓座へ行き叩く》
▲亭「心得た。そりや渡いた。《と云うて亭主出す。受け取つて》
▲ア「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと調儀致いた。いや。まだ余り夜深な。不案内ぢやによつて、夜を明かいて参らう。《と云うて笛の上座へ着きて寝る》
▲シ「扨も扨もよう寝た。いや。六つ太鼓の時分ぢや。《太鼓座へ行き叩く》
▲亭「誰ぢや。
▲シ「夜前のをお渡しやれ。
▲亭「最前渡いた。
▲シ「いや。未だ受け取らぬ。
▲亭「いやいや。渡いた。
▲シ「ちと待たせられい。《と云うて寝た所を見て》
南無三宝。申し申し。夜前の奴が、して退きました。
▲亭「やあやあ。夜前の奴が、してのいた。
▲シ「私は追ひ掛けませう。
▲亭「いやいや。最前からもはや間もある程に、追ひ掛けたりとも追ひ付けはすまいぞ。
▲シ「まづ待たせられい。《と云うて、アトの寝た跡をいらうて{*2}見て》
申し申し。きやつが寝た跡をいらう{*3}て見ましたれば、まだ如来肌でござる程に、遠うは参るまいが。私は見させらるゝ通り丸腰でござる。こなたの腰の物を貸して下されい。
▲亭「易い事。貸してやらう。それに待たしめ。
▲シ「心得ました。
▲亭「これは某が重代なれども貸してやらう。
▲シ「これは忝うござる。扨、後をも良い様にくろめて下されい。
▲亭「中々。くろめて置かう。
▲シ「頼みまするぞ。
▲亭「心得た。
▲シ「扨も扨も腹の立つ事ぢや。《と云ひながら、肩を脱ぎ》
どこ元へ行た事ぢや知らぬ。
▲ア「いや。やうやう夜が明けた。急いで参らう。扨々夜前は危ない目に遇うてござる。《と云うて、互に行き当たりて》
▲シ「やい。おのれは夜前のすつぱではないか。
▲ア「おのれこそ人売りなれ。
▲シ「何の人売りか。ひと討ちにしてやらう。《太刀を抜き打ち付くる》
▲ア「あゝ。《と云うて口を開きて呑まうとする》
▲シ「あゝと云うたりと、胴斬りにしてやらう。
▲ア「あゝ。
▲シ「やいやい。汝何者なれば、某が打ち付くる太刀にあゝとは云ふぞ。
▲ア「某をえ知らぬか。
▲シ「いゝや。何とも知らぬ。
▲ア「これは、唐と日本の潮境に磁石山といふ山がある。その山に住む磁石の精なるが、唐土の鉄を呑み尽くし、日本へ渡り鉄を呑まう呑まうと思ふ処に、夜前某を鳥目二百疋に売り付けたを、取つて呑うだれば、唐金でのどに詰まつた。今又汝が抜いた物を見れば、一銘抱へた物と見ゆる。それを呑まう呑まうと思うて、それ故あゝと云ふ事ぢや。
▲シ「おのれ、いかに磁石の精なりとも、呑まれさへせば呑うで見居れ。唐竹割りにしてやらう。
▲ア「あゝ。
▲シ「あゝと云うたりとも瓜割りにしてやらう。
▲ア「あゝ。
▲シ「これはいかな事。きやつがあゝと申せば、太刀の地肌がどみと致す。やいやい。
▲ア「何事ぢや。
▲シ「この太刀をかう振り上げた処は何とあるぞ。
▲ア「それを呑まう呑まうと思うて気がせいせいとする。
▲シ「気が晴々とする。
▲ア「中々。
▲シ「又かう隠いては。
▲ア「それでは何とやら気が遠うなる様な。
▲シ「それならば、かう鞘に差いては。
▲ア「おゝ。さいてくれそ。
▲シ「それはなぜに。
▲ア「某が一命が失する。
▲シ「何ぢや。一命がうする。
▲ア「中々。
▲シ「いや。おのれをこれまで追ひ掛くるも、害せんがためぢや。鞘に差いて差し殺すぞ。
▲ア「おゝ。差いてくれそ。
▲シ「さすぞ。
▲ア「さすな。
▲シ「さすぞ。
▲ア「さすな。
▲シ「そりや。差いた。《アト、くるりと廻りて倒るゝ》
はあ。又磁石が誑すよ。磁石磁石。《と云うて、太刀の鐺にて突いて、それをいらうて見て》
これはいかな事。誠にきやつは虚しうなつたと見えて、太刀の芝引きが冷たうなつた。扨々これは苦々しい事でござる。この御政道正しい御代に、大津松本の辺りで若い者が二人して、追ひつまくつゝしたが、一人は仕留める。今一人を逃がすな、とある時は、某が足の抜かう様がござらぬ。何と致さう。それそれ。磁石が存生の時分に、この太刀を好うでござるによつて、これを磁石が氏産神に手向け、再び蘇生致させうと存ずる。
いかに磁石が氏産神も確かに聞き給へ。元よりも磁石が好むこの太刀を、鎺元二三寸抜きくつろげ、磁石が枕元にとうど置き、活々の文を唱へ、磁石が上をあちらへはひらり、こちらへひらり、ひらりひらりと閃かし、やあ。いかに磁石磁石。
▲ア「誰そや。辺りに音するは。
▲シ「古へのたうたうよ。
▲ア「名を聞くだにも恨めしや。
▲シ「恨むも道理なり。げに恨むるも道理なり。《シテ萎える。この内にアト、肩を脱ぎ太刀を取りて》
▲ア「がつきめ。やるまいぞ。
▲シ「それは切れ物。こちへおこせ。
▲ア「何の切れ物。胴斬りにしてやらう。
▲シ「又磁石に誑された。許いてくれい許いてくれい。
▲ア「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:「ひぢたをる」は、「肘撓(ひぢたわ)る」と同じ。「角を曲がる」意。
2:底本は、「いらして」。
3:底本は、「いらう(触るゝ事)」。
底本:『狂言全集 中巻』「巻の五 七 磁石」(国立国会図書館D.C.)
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