賽の目(さいのめ) 大蔵流本

▲シウト「罷り出たる者は、この辺りに住居致す大有徳な者でござる。某、娘を一人持つてござるが、総じて我ら如きの者は、算勘が達せいではなりませぬによつて、何者によらず算勘に達した者を聟に取らうと存ずる。まづこの由を高札に打たう。《常の如くシテ柱へ打つて》
一段と良うござる。さらば太郎冠者を呼び出し、この由申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝呼び出す事、別なる事でもない。高札の表について聟殿の見えたならば、こなたへ申せ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シウト「えい。
▲冠「はあ。
▲初ムコ「これはこの辺りに住居致す者でござる。承れば山一つあなたに大有徳な人がござつて、何者にはよるまい、算勘に達した者を聟に取らうと高札を打たれたと申す。某はいかやうの難しい算なりとも置きまするによつて、あれへ参り聟にならうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、聟にしてくれゝば良うござるが。もし聟にしてくれぬ時は、参つた詮もない事でござる。参る程にこれに高札がある。この辺りから案内を乞はう。《常の如く》
▲冠「誰そ。どなたでござる。
▲初ムコ「高札の表について聟が参つたと仰しやれ。
▲冠「扨は聟殿でござるか。
▲初ムコ「中々。
▲冠「その通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲初ムコ「心得た。
▲冠「申し。聟殿の御出でござる。
▲シウト「何ぢや。聟殿のわせた。
▲冠「中々。
▲シウト「行て云はうは、高札の表には算勘に達した者をと打ちましたが、そなたには算勘をなさりまするかと云うて問うて来い。
▲冠「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲初ムコ「高札の表について参るからは、いかやうの難しい算なりとも仰せ付けられい。恐らくは置いてお目に掛けうと仰しやれ。
▲冠「畏つてござる。いや。申し申し。《右の通り云ふ》
▲シウト「それならば、かう通らせられいと云へ。
▲冠「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲初ムコ「通らうか。
▲冠「つゝと通らせられい。
▲初ムコ「心得た。不案内にござる。
▲シウト「初対面でござる。扨、高札には算勘に達したお方をと打ちましてござるが、こなたにはなされまするか。
▲初ムコ「何が扨、かやうに参りまする上は、いかやうの難しい算なりとも仰せ付けられい。置き済まいてお目に掛けう。
▲シウト「それは一段の事でござる。それならば早速申しませう。五百具の賽の目の数{*1}は何程ござるぞ。云うて聞かせられい。
▲初ムコ「五百具の賽の目の数でござるか。
▲シウト「中々。
▲初ムコ「扨々これは難しい事を仰せ付けられた。只今申して聞かせませう。まづ左の手の指が五本。右の手の指が五本。合せて十本。又、足の左の指が五本。右の指が五本。都合廿本。五百具の賽の目でござらば、二千ばかりもござらうか。
▲シウト「これはいかな事。その様な愚鈍な算では中々聟には取られませぬ。早う戻らせられい。
▲初ムコ「違ひましたならば、置き直いてお目に掛けう。
▲シウト「いやいや。その様な事ではなりませぬ。早う戻らせられい。太郎冠者。早う戻せ。
▲冠「さあさあ。早う戻らせられい。
▲初ムコ「太郎冠者。まづ待て。今一度置き直いて、まんまと置き済まいて見せう。
▲冠「いやいや。その様な事ではなりませぬ。早う戻らせられい。
▲初ムコ「扨々残念な。今度こそ置き済まいて見せうものを。
▲冠「何とその様な事でなるものでござるぞ。
▲二ムコ「これはこの辺りに住居致す者でござる。《初めの聟の如く云うて》まづそろりそろりと参らう。誠に某が算勘の事を聞かれた事ならば、舅は悦うで聟に取らるゝであらう。聟にさへなつたならば、出よと云うても出る事ではござらぬ。参る程にこれに高札がある。まづこの辺りから案内を乞はう。《初めの如く云うて、通りても同断》
はあ。五百具の賽の目でござるの。
▲シウト「中々。
▲二ムコ「これは存じも寄らぬ事を仰せ付けられた。只今申しませう。まづ一の裏が六。二の裏が五。三の裏が四。はあ。五百具ならば、都合で目の数が五千三百ござらう。
▲シウト「これはいかな事。それでは違ひました。早う戻らせられい。
▲二ムコ「それならば今一算致しませう。算木を貸して下されい。
▲シウト「申し。こればかりの事に算木がいりますものか。その様な事ではなりませぬ。太郎冠者。聟殿を往なせ。
▲冠「畏つてござる。さあさあ。早う戻らせられい。
▲二ムコ「是非に及ばぬ。それならば戻らう。
▲シテ聟「これはこの辺りに住居致す者でござる。承れば、山一つあなたに大有徳な人がござつて、一人の娘を持たれてござるが、何者にはよるまい、算勘に達した者を聟に取らうと高札を打たれたと申す。それにつき、私は算勘においては世上に誰怖い者もござらぬ。その上承れば、かの娘は美人ぢやと申すによつて、あれへ参り聟にならうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に世上に算勘に達した者もあまたござれども、某が算は日本は申すに及ばず、唐土南蛮までも某に続く者はあるまいと存ずる。定めて舅は悦うで聟に取らるゝでござらう。いや。参る程にこれに高札がある。この高札は某が引かう。この辺りから案内を乞はう。《常の如く、前より全て前の聟の如く云うて通りて》
▲シウト「早速ながら申しませう。五百具の賽の目の数は何程ござるぞ。云うて見させられい。
▲シテ聟「何と仰せらるゝ。五百具の賽の目の数を申せと仰せらるゝか。
▲シウト「中々。
▲シテ聟「私は又、何ぞ難しい割り物でも仰せ付けらるゝかと存じてござれば、これは何より心安い事でござる。とてもの事に拍子に掛けて申しませう。
▲シウト「一段と良うござらう。
▲シテ聟「五百具の賽の目賽の目。いち一千に、に二千。さん三千、し四千。合すれば一万。ご五千に、ろく六千。合すれば一万千。都合二万千なり。五百具の賽の目の数。やはか違ふまい。
▲シウト「扨も扨もこなたは殊の外の算者でござる。只今まで高札の表について聟の見えましたれども、こなたの様に算勘に達した者はござらぬ。則ち聟に取りませう。
▲シテ聟「それは忝うござる。
▲シウト「扨、娘を連れて参つてこなたに引き合せませう程に、それに待たせられい。
▲シテ聟「心得ました。{*2}
▲シウト「《楽屋へ入り、姫をかづきを着せて連れて出で、脇座へ直して》申し申し。これが則ち私の娘でござる。こなたと娶せまするによつて、千年も万年も仲良う添うて下されい。
▲シテ聟「その分はお気遣ひなさるゝな。随分仲良う致いて、この家の繁昌致す様に致しませう。
▲シウト「扨、私もこなたを聟に取りまするからは、早隠居致しまするによつて、財宝は申すに及ばず家一跡被官までをこなたに譲りまする程に、さう心得させられい。
▲シテ聟「それは近頃忝うはござれども、私も只今これへ参つた事でござれば、諸事勝手も存ぜず、その上御親類中ともお知る人になりませぬ程に、まづ今暫くこなた持たせられて下されい。
▲シウト「いやいや。勝手の事は娘がよう存じて居りまする。これに問はせらるれば、悉く知れまする。又一門どもとは追々にお知る人に致しませう。その上今日は日柄も良うござる程に、今日より万事皆渡しまするぞ。
▲シテ聟「それならばともかくもでござる。
▲シウト「それは悦ばしうござる。又後程ゆるりとお目に掛かりませう。
▲シテ聟「何が扨、後程お目に掛かりませう。《舅・太郎冠者、引き込む》
▲シテ聟「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと聟になり済まいた。その上財宝は云ふに及ばず、家一跡被官までを譲られてござる。この様な満足な事はござらぬ。
▲女「いや。なうなう。誠に不思議な事でそなたと夫婦になりました程に、これからは千年も万年も仲良う添ひませうぞ。
▲シテ聟「《うなづく》扨知る人になりませう程に、そのかづきを取らしめ。《女、頭振る》
何ぢや。嫌ぢや。はあ。誠に初対面の事ぢやによつて恥づかしいは尤なれども、今舅殿の仰せらるゝは、勝手の様子もそなたがよう知つて居るによつて、そなたに聞けと仰せられた。諸事聞き合せたい事もある程に、平にかづきを取らしめ。《又かぶり振る》
何ぢや。嫌ぢやと云うて、夫婦になつていつまで取らずに居らるゝものぢや。それならば某が取つて進じよう。《と云うて衣を取つて顔を見て、肝を潰し傍へ退き》
これはいかな事。この娘は殊の外美人ぢやと申すによつて参つたれば、あれは散々の悪女でござる。いかに有徳ぢやと云うても、あの様な悪女に添ふ事は嫌でござる。何とぞして戻りたいものぢやが。何としたものであらうぞ。
▲女「申し申し。こなた、それに何をしてござるぞ。まづこちへござりませい。
▲シテ聟「いや。某は宿元に大切の物を忘れて参つた。まづ行つて取つて参らう。
▲女「申し申し。忘れさせられた物があらば、人を云ひ付けて取りに遣りませう程に、まづ妾の側へ来て下されい。
▲シテ聟「いやいや。人を遣つては中々知るゝ事ではない。某が行て取つて参る程に、そこを放さしめ。
▲女「これはいかな事。今でなうても苦しうござるまい。まづ妾が側へ来て下されいと申すに。
▲シテ聟「いやいや。手間を取る事ではない。只今取つて参る。是非ともそこを放いておくりやれ。
▲女「こなたがござるならば、妾も一緒に参りませう。
▲シテ聟「扨々そなたは聞き分けのない。今取つて来ると云ふに、その様な事があるものか。平にそこを放いてくれさしめ。
▲女「いやいや。放す事はなりませぬ。
▲シテ聟「いや。どうあつても行かねばならぬ。そこを放さしめ。それならば真実を云はう。ありやうは、何も忘れた物はなけれども、和御料の様な悪女と添ふ事は嫌でおりやる。《と云うて突きのけて逃げ入る》
▲女「なう。腹立ちや。妾を嫌うてどれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
▲シテ聟「あゝ。許さしめ。許いてくれい許いてくれい。

校訂者注
 1:底本は、「目数」。
 2:底本は、「心得ました。《楽屋へ入り。姫を。被ぎを着せて連れて出で。ワキ座へ直して。》▲シウト「」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の五 九 算勘聟」(国立国会図書館D.C.

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