節分(せつぶん) 大蔵流本

▲女「妾はこの家の内に住居致す者でござる。これのは今夜出雲の大社へ年籠りに行かれて留守でござる程に、背戸門に柊を挿いて留守を致さうと思ひまする。《柊を挿し、座に着く》
▲シテ「節分の夜にもなりぬれば、節分の夜にもなりぬれば、いざ豆拾うて噛まうよ。
これは蓬莱の島の鬼です。今夜日の本には節分と申して、豆を囃いて年を取ると申すによつて、急ぎ日の本へ渡り、豆を拾うて噛まばやと存じ候ふ。《打ち切りヤ》
蓬莱の島をばあとに見なしつゝ。《打切》見なしつゝ、行く末問へど白雲の、行末問へど白雲の。《打切》足に任せて行く程に、足に任せて行く程に、日本の地にも着きにけり。
急ぐ間、日本の地に着いた。これはいかな事。俄かに物欲しうなつたが、この辺りに人家はないか知らぬ。いや。つゝとあれに灯の光が見ゆる。さらばあれへ行て何ぞ喰ふ物を貰うてたべうと存ずる。いや。来る程にこれぢや。まづ内の体を覗いて見よう。あ痛、あ痛。はあゝ。それそれ。今夜は蓬莱の島より我ら如きの者が参ると申して、背戸門へ柊を挿すといふ事をはつたと忘れて、目をしくりと突いたよな。あらめひらきやんや。腹も立つ。かち落といてのけう。これこれ。一段と良い。さらば案内を乞はう。物申。案内申。
▲女「これは今夜出雲の大社へ年籠りに行かれて留守でござるが。
▲シ「これは近所の者でござるが、{*1}叶はぬ用の事がござる。平にこゝをあけて下されい。
▲女「何ぢや。近所の人ぢや。
▲シ「中々。
▲女「それならばあけて進ぜう。さらさらさら。はて、合点の行かぬ。人影もさゝぬ。定めて辺りの若い衆のなぶらせらるゝであらう。さらさらさら。ばつたり。
▲シ「これはいかな事。鼻の先に居る某が見えぬさうな。はあはあ。それそれ。身共がこの隠れ笠隠れ蓑を着て居るによつて、それ故見えぬものであらう。さらばこれを脱いで案内を乞はう。《蓑笠をとりて》
物申。案内申。
▲女「最前も左様に仰せられたによつてあけてござれども、誰もござらぬ。定めて又辺りの若い衆のなぶらせらるゝ{*2}のでござらう程に、あくる事はなりませぬ。
▲シ「いやいや。これは隣の者でござるが、急な用事がござる程に、何とぞこゝをあけて下されい。
▲女「何ぢや。隣の人ぢや。
▲シ「中々。
▲女「いゑ。それならばあけて進じませう。さらさらさら。なう。怖ろしや怖ろしや。いかめな鬼が来た。誰もござらぬか。あの鬼を追ひ出いて下されい。なう。怖ろしや怖ろしや。《鬼も肝を潰し、一の松へ逃げて》
▲シ「いや。これこれ。そなたは何が怖ろしいぞ。
▲女「何が怖ろしいと云うて、そちが怖ろしい。
▲シ「何ぢや。身共が怖ろしい。
▲女「中々。
▲シ「某は又他に何ぞ怖ろしいものがあるかと思うて、身共によい肝を潰させた。これは蓬莱の島の鬼というて、さのみ怖ろしいものでも怖いものでも{*3}おりない。
▲女「なう。物狂や物狂や。鬼が怖ろしうなうて何が怖ろしからう。まだそれに居るか。早う出て行けいやい出て行けいやい。
▲シ「これこれ。それならば出て行かう程に、何ぞ喰ふ物をくれさしめ。
▲女「喰ふ物を遣つたらば出て行くか。
▲シ「中々。出て行かう。
▲女「それならば遣らう。さあさあ。これを遣る程に出て行かしめ。
▲シ「これへくれさしめ。
▲女「さらさらさら。
▲シ「あ痛。あ痛。これは何ぢや。
▲女「三宝の親の荒麦よ。
▲シ「何ぢや。三宝の親の荒麦ぢや。
▲女「中々。
▲シ「鬼の心は荒麦の、鬼の心は荒麦の、喰ふ物とは知りつれど、調する事のならざれば、ただ捨てい。
▲女「ゑゝ。あの罰当りめが。
▲シ「何ぢや。罰当りぢや。
▲女「中々。
▲シ「罰当りならば、かきさかいてのけう。
▲女「なう。腹立ちや腹立ちや。誰もござらぬか。あの鬼を追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シ「あら美しの女房や。漢の楊貴妃・李夫人、小野小町は見ねば知らねども、あれ程美しき女房もありけるぞや。あらほそたへがたや。や。あの島先におりやればこそ、負うては隠れ渡らん。そのやさきにお手を掛くるでもなし。あらおいらいらしや。お軽忽やの。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。又これへ来た。誰そこの鬼を追ひ出いて下されいの。打ち出いて下されいの。なう。怖ろしや怖ろしや。
▲シ「これこれ。そなたは内に一人居るか、二人居るか。
▲女「一人居ようと二人居ようと。聞いての用は。
▲シ「一人居るならば淋しからう程に、某が伽をしてやらうといふ事ぢや。
▲女「なう。腹立ちや。鬼に伽をして貰はずと良い。又これへ来たか。早う出て行けいやい出て行けいやい。
▲シ「なんぼうさきの夜、なんぼうさきの夜、忍ぶ小切戸がきりゝと鳴る程に、誰ぞよと思うて走り出て見たれば、北風の山颪めが吹き来て扉に当たり、たをやしや。和御料と思うたりや。主な、縁なやの。
▲女「ゑゝ。腹立ちや腹立ちや。誰もござらぬか{*4}。この鬼を早う追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シ「これこれ。そなたは毛抜きは持たぬか。
▲女「毛抜きを聞いて何にするぞ。
▲シ「そなたの眉が余り伸びたによつて、毛抜きがあらば抜いてやらうといふ事よ。
▲女「なう。腹立ちや。鬼に眉を抜いて貰はずと良い。又これへ来たか。早う出て行けいやい出て行けいやい。
▲シ「来うか小次郎、来まいか小次郎、いひ切れ小次郎。門さゝうに、門さゝうに。さすならさゝい、さすならさゝい。藪から道はないものか、藪から道はないものか。
▲女「なう。腹立ちや。又これへ来た。早う出て行けいやい出て行けいやい。
▲シ「太刀佩いたも憎いか、小太刀佩いたも憎いか、殿弓担げたも憎いか。縁でこそ候はめ。ばいどうばいどう。担げたはいとし。
▲女「ゑゝ。腹立ちや。又これへ来たか。誰もござらぬか。この鬼を追ひ出いて下されい。なう。怖ろしや怖ろしや。
▲シ「十七八は棹に干いた細布、取りよりやいとし。糸より細い腰を締むれば、いたんと尚いとし。《腰へ抱き付く》
▲女「ゑゝ。腹立ちやの腹立ちやの。妾を女ぢやと思うて色々の事をする。誰ぞござらぬか{*5}。早う外へ追ひ出いて下されい。なう。腹立ちや腹立ちや。{*6}
▲シ「《突き倒されて》しめしめと降る雨も、西が晴るればやむものを。何とてか我が恋の晴れやる方のなきやらん。《鬼泣くなり》
▲女「これはいかな事。あの鬼は誠に妾を思ふと見えた。誑いて宝物を取らうと存ずる。
いかにやいかに鬼殿よ。誠、妾を思ひなば、宝を我にたび給へ。
▲シ「易き間の御所望なり。
▲女「はあゝ。そなたも悪うはほけぬよの。
▲シ「易き間の御所望なり。蓬莱の島なる、蓬莱の島なる、おれが持つ宝は、隠れ蓑に隠れ笠、打出の小槌。諸量無量常無量、諸量無量常無量。くわつし国にくわつたりと、そなたへおますぞ。
▲女「これは近頃忝うござる。
▲シ「さあさあ。これからは某が儘ぢや。これへ寄つて腰を打つてくれさしめ。はゝあ。殊の外草臥れた。やつとな。《と云うて寝る》
▲女「やうやう時分も良うござる程に、豆を囃さうと存ずる。
福は内へ福は内へ福は内へ。鬼は外鬼は外。
▲シ「何とするぞ。
▲女「鬼は外へ。
▲シ「何とするぞ。
▲女「鬼は外へ鬼は外へ鬼は外へ鬼は外へ。
▲シ「あゝ。許いてくれい許いてくれい許いてくれい。

校訂者注
 1:底本に、「これは近所の者でござるが、」はない。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)により補った。
 2:底本は、「なぶらせらる」。
 3:底本は、「こはいもので」。
 4・5:底本は、「誰もござらぬ」。
 6:底本は、「腹立ちや(二字以上の繰り返し記号)。《つき倒されて。》▲シ「」。

底本:『狂言全集 中巻』「巻の五 十 節分」(国立国会図書館D.C.

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