樋の酒(ひのさけ) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。某今日は所用あつて山一つあなたへ参るが、いつも留守になると太郎冠者が酒を盗んでたべまする。それにつき今日は良い事を思ひ付いてござる。両人ともに蔵へ押し籠うで出ようと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出さう。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「居たか。
▲シ「お前に。
▲主「念なう早かつた。汝を呼び出す事、別なる事でもない。軽物蔵に用の事がある。あけてくれい。
▲シ「畏つてござる。くわらりくわらり。くわらくわらくわらくわら。
▲主「がつきめ。
▲シ「これは何となさるゝぞ。
▲主「くわらくわらくわら。ばつたり。ちと思ふ仔細があつて入れて置く。きつと這入つて居よ。
▲シ「これは迷惑にござる。
▲主「やいやい。次郎冠者。あるかやい。
▲次「はあ。
▲主「居たか。
▲次「お前に。
▲主「念なう早かつた。急に酒のいる事がある程に、酒蔵をあけて酒を出いてくれい。
▲次「畏つてござる。くわらりくわらり。くわらくわらくわらくわら。
▲主「がつきめ。くわらくわらくわら。ばつたり。
▲次「これは何となされまする。
▲主「かやうにするも、別なる事でもない。いつも留守になると太郎冠者が酒を盗んで呑む。とかくそなたが手伝うてやると見えた。汝は下戸ぢやによつて、酒蔵へ入れて置く。必ず人に呑ますまいぞ。
▲次「いや。申し。これは何とも迷惑にござる。
▲主「やいやい。両人ともよう聞け。いつも留守にさへなれば酒盛をするによつて、今日は両人ともに蔵へ入れて置く。身共は所用あつて山一つあなたへ行く程に、盗人の入らぬ様によう番をせい。
▲シ「いや。申し。何とこの体でお留守がなるものでござるぞ。
▲次「盗人が這入つても存じませぬぞ。
▲シ「申し。頼うだ人。
▲次「申し。頼うだお方。これはいかな事。早行かれたさうな。扨々これは迷惑な亊かな。何としたものであらうぞ。その上殊の外寒うなつて来た。淋しさは淋しゝ。まづ壺の蓋を取つて、一盃呑まう。
▲シ「申し。頼うだ人。これはいかな事。もはや行かれたさうな。扨々これは苦々しい事でござる。いつも両人でお留守をしてさへ淋しいに、今日はかやうに別々に置かせらるゝ程に、ひとしほ淋しい事ぢや。さぞ次郎冠者も淋しうござらう。きやつはどこ元へ入れられた知らぬ。いや。隣の蔵で声がする様なが。次郎冠者ではないか。
▲次「さう云ふは太郎冠者か。
▲シ「中々。その通りぢや。
▲次「はあ。そなたは軽物蔵へ入れられたか。
▲シ「中々。身共は酒を盗んで呑むと云うて、軽物蔵へ入れられた。
▲次「扨々それは悪い所へ入れられた。身共は下戸ぢやと云うて酒蔵へ入れられたわ。
▲シ「何ぢや。そなたを下戸ぢやと。
▲次「中々。
▲シ「《笑うて》そなたの様な下戸に酒蔵を預くる事は、身共は嫌でおりやるわ。
▲次「頼うだ人の知らせられぬが、某が仕合せぢや。殊の外寒うてならぬによつて、最前から蓋をあけて呑うで居るが、はあ。何とぞゝなたにも一つ呑ませたい事でおりやる。
▲シ「和御料は早呑むか。
▲次「中々。酒なりと呑まいで何と只居らるゝものぢや。又、むゝ。殊の外旨い事ぢや。
▲シ「これはいかな事。又呑むさうな。いや。なう。次郎冠者。
▲次「何事ぢや。
▲シ「扨々そなたはつれない{*1}者ぢや。いかに酒蔵に居ればとて、その様に一人呑むといふ事があるものか。身共も寒いは同じ事ぢや。何とぞして呑ませてくれまいか。
▲次「そなたの云ふまでもない。身共は一人では面白うないによつて、何とぞ和御料にも呑ませてやりたいが、何を云ふも間を隔てゝ居るによつて、了簡に及ばぬ事ぢや。さらば又たべう。むゝ。旨い事ぢや。
▲シ「これこれ。又呑むか。
▲次「中々。
▲シ「あゝ。扨々羨ましい亊かな。何とぞ良い調儀がありさうなものぢやが。いや。良い事を思ひ出いた。これこれ。次郎冠者。
▲次「何事ぢや。
▲シ「幸ひこれに軒端の樋がある。これをこなたの窓からそなたへ出さう程に、何とぞ注いでくれさしめ。
▲次「扨々これは一段の調儀ぢや。それならば出さしめ。
▲シ「心得た。そりやそりや。
▲次「心得た。今注いでやる程に、それで受けさしめ。
▲シ「心得た。
▲次「そりやそりやそりや。
▲シ「おう。来るぞ来るぞ。
▲次「何と酒が行くか。
▲シ「中々。早一つあるわ。
▲次「何ぢや。一つある。
▲シ「中々。
▲次「早う呑ましめ。
▲シ「心得た。
▲次「何とあるぞ。
▲シ「最前からたべたいたべたいと思ふ処へ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりして風味を覚えぬ。今一つ注いでくれさしめ。
▲次「これは尤ぢや。それならば又注ぐぞ。
▲シ「心得た。
▲次「そりやそりや。
▲シ「おう。来るわ来るわ来るわ。又一つ受け持つた。
▲次「早うお呑みやれ。
▲シ「心得た。
▲次「何とあるぞ。
▲シ「むゝ。風味の。
▲次「中々。
▲シ「いつもとは云ひながら、今日のは格別に風味の良い様な。
▲次「さうであらう。これは頼うだ人の呑み料と見えて、格別に念を入れてあつた壺でおりやる。
▲シ「いかさま、さうであらう。殊の外良い酒ぢや。扨そなたは最前から呑うだ程に、今一つ呑ませてくれさしめ。
▲次「心得た。ちと謡はぬか。
▲シ「謡はうか。
▲次「それが良からう。
▲シ「扨一つ受け持つた。何ぞ肴に舞はぬか。
▲次「何とこの様な所で舞はるゝものぢや。これは許いておくりやれ。
▲シ「いやいや。その狭い処が面白い。平に一さし舞はしめ。
▲次「それならば舞はうか。
▲シ「それが良からう。《何にても短き事を》
やんやゝんや。骨折りに一つ呑ましめ。
▲次「心得た。《又小謡》
扨又某も受け持つた程に、何ぞ舞はしめ。
▲シ「易い事ぢやが、舞うても見る事がなるまい。
▲次「舞は見えずとも、謡を聞いてなりとも慰む。その上身共も舞うた程に、平に舞はしめ。
▲シ「それならば舞はう程に、謡うてくれさしめ。
▲次「心得た。《「七つになる子」を舞うて、「恋しき人は見ないものぢや」と云ふ時、扇を前へ出して太郎冠者{*2}の方を見る》
やんやゝんや。舞うておりやるわ。今の骨折りに又そなたに呑まさう。
▲シ「又呑ますのか。《小謡》
扨頼うだ人は両人ともに蔵へ入れて置いたと思うて、ゆるりと慰うで居らるゝであらう。
▲次冠「仰しやる通り、ゆるりと慰うで居らるゝであらう。
《シテの小舞済むとその儘、主出でゝ、「棒縛り」の如く云うて、「くわらくわら」と云うて蔵の戸をあけて、まづ次郎冠者より先に追ひ込む。次郎冠者、「私は下戸でござる。たべは致さぬ」と云ふ。主、「この様に壺の蓋を取つて、呑まぬといふ事があるものか」と云うて追ひ込む。{*3}主、次郎冠者を追ひ入るゝ内に、シテ、「これはいかな事。頼うだ人の戻らせられたさうな。何と致さう」と云うて、うろたへて居るなり》
▲主「扨々憎い奴でござる。くわらくわら。やい。おのれ。よう酒を盗んで呑み居つたな。
▲シ「いや。申し。私は軽物蔵に居まして、何と呑むものでござる。それは次郎冠者でござる。
▲主「又そのつれな事を云ふ。この軒端の樋は何事ぢや。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい。
▲主「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「無情い」。
 2:底本は、「衣冠者」。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い訂正。
 3:これ以降のト書きは、底本では最後の主の台詞の後にある。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の一 七 樋の酒」(国立国会図書館D.C.

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