枕物狂(まくらものぐるひ) 大蔵流本
▲初アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。某、祖父を一人持つてござるが、承れば恋をなさるゝと申すが、誠しからぬ事ではござれども、皆左様に仰せらるゝによつて、今日はあれへ参り様子を見ようと存ずる。それにつき、こゝに相孫がござる程に、これをも誘うて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、内に居らるれば良うござるが。もし居られぬ時は、参つた詮もない事でござる。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《常の如く》
只今参るも別なる事でもござらぬ。承れば、おほぢ御には恋をなさるゝと申すが、こなたには聞かせられてござるか。
▲後アト「私も左様に承つてはござれども、よもや誠ではござるまいと存じてござるが。すれば、誠でござるか。
▲初ア「中々。左様でござる。それにつき私の存じまするは、今日そなたと私とあれへ参つて承つて、なる事ならば老いの慰みに叶へて進ぜうと存じまするが、何とござらうぞ。
▲後ア「これは一段と良うござらう。
▲初ア「それならばまづこなたからござれ。
▲後ア「まづこなたからござれ。
▲初ア「私から参りませうか。
▲後ア「それが良うござらう。
▲初ア「さあさあ。ござれござれ。
▲後ア「参る参る。
▲初ア「誠に祖父御のあの年で恋をなさるゝとは、何とも似合はぬ事ではござれども、老いの慰みになる事ならば、何とぞ叶へて進ぜたいものでござる。
▲後ア「仰せらるゝ通り、なる事ならば叶へて進ぜたい事でござる。
▲初ア「いや。参る程にこれでござる。
▲後ア「誠にこれでござる。
▲初ア「さらば案内を乞ひませう。
▲後ア「それが良うござらう。
▲二人「いかにおほぢ御。孫どもが御見舞ひに参つて候ふ。疾う疾う出させられいや。
▲シテ「《謡》《サガリハ打ち上げて》枕物にや狂ふらん、枕物にや狂ふらん。寝るも寝られず起きもせず、理や、枕の後より恋の責め来れば、安からざりし身の狂乱は木枕なりけり。ありや笹の張り枕、ありや笹の張り枕、主ぞ恋しかりける、乙御前ぞ恋しかりける。逢ふ夜は君の手枕、来ぬ夜はおのれが袖枕、枕余りに床広し。寄れ枕、こち寄れ枕。枕さへ疎むか。げにもさあり、やようがりもさうよの。
▲二人「いかに祖父御。孫どもが御見舞ひに参つて候ふ。
▲シ「《枕を隠し、太鼓座にて懐へ入れ、肩を入れて》むゝ。何ぢや。孫どもが見舞ひに来たと云ふか。
▲二人「中々。
▲シ「やれやれ。ようこそおりやつたれ。まづかう通られい。
▲二人「畏つてござる。
▲シ「このおほぢは年が寄つて腰が痛い程に、早う床机をくれさしめ。
▲初ア「心得ました。早う上げさせられい。
▲後ア「心得ました。はあ。お床机でござる。
▲シ「両人ともにこれへ出さしめ。
▲二人「畏つてござる。
▲シ「扨この間は久しう見えなんだが、何として見えなんだぞ。
▲初ア「この間は両人とも渡世にひまがなうて、御無沙汰致しましてござる。
▲シ「その様な事は知らず、両人の孫どもには見捨てらるゝ。聞けばこの頃お大名衆に、人をあまた抱へさせらるゝと云ふによつて、この祖父も年は寄つたれども、弓の者になりとも又鉄砲の者になりとも出でうと思ふですわ。
▲初ア「御恨みは御尤でござるが、只今も申す通り、渡世にひまがござらいで御無沙汰致いてござる。扨承れば、祖父御には恋をなさるゝと申す事でござるが、誠でござるか。
▲シ「何ぢや。鯉をくれう。
▲初ア「はあ。
▲シ「それは近頃満足した。さりながらおほぢは年が寄つて歯が悪しい程に、魚頭や中打ちはそなた達喰うて、身取りばかりをくれさしめ。
▲後ア「中々。鯉も上げませうが、祖父御には恋をなさるゝと申すが、誠でござるか。
▲シ「何ぢや。恋をする。
▲後ア「中々。
▲シ「なう。物狂や物狂や。総じて恋の思ひのといふ事は、十九や二十の者にこそあれ。何とこの百とせに余るおほぢが恋をするものぢや。鯉やら鮒やら知り候はぬ。
▲初ア「近頃御尤ではござれども、今日両人とも参りまするも、別なる事でもござらぬ。なる事ならば老いの慰みに叶へて進じませうと存じて参りました。包まずとも仰せられい。
▲シ「この祖父は恋はせねども、こゝに恋の怖ろしい物語がある。語つて聞かせう。ようお聞きやれ。
▲初ア「承りませう。
▲シ「そなたもよう聞かしめ。
▲後ア「はあ。
▲シ「扨も京極の御息所、日吉詣の折節、御車の物見の御簾を吹き上げしひまより、志賀寺の聖人只一目御覧じて、しづ心なき恋とならせ給ふ。この事世以て隠れなければ、同宿達聞こし召し、いゝや。苦しからぬ事。御文を参らせられて御心を慰まれ候へかし、とありしかば、さあらばとありて、一首の歌を贈らるゝ。その歌は、初春の初音の今日の玉箒手に取るからに揺らぐ玉の緒。と、只ひと揺らめかし揺らめかいて{*1}遣はさるゝ。その御返歌に、極楽の玉の台の蓮葉に我を誘なへ揺らぐ玉の緒。と、又ひと揺らめかし揺らめかいて御返歌をなされければ、それより聖人の御恋も晴れ、いよいよ尊き身とならせ給ふ。又柿の本の貴僧正は染殿の后を恋ひかね、加茂の御手洗川に身を投げ、青き鬼となつてその本望を遂げらるゝ。
祖父もこの恋叶はずば、いかなる井の中、溝の底へも身を投げ、青き鬼とはえならずとも青き蛙ともならばや、と思ひ定めて候ふ。恋よ恋。我なか空になすな恋。恋風が来ては袂にかいもつれて、なう、袖の重さよ。恋風は重いものかな。《泣きて》あゝ。浮世はいらぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲初ア「申し。隠させらるゝな。早、お色に出ましてござる。
▲シ「やあやあ。何と仰しやる。早色に出たと仰しやるか。
▲初ア「中々。
▲シ「それは誠か。
▲初ア「誠でござる。
▲シ「真実か。
▲初ア「一定でござる。
▲シ「それならば何を隠さうぞ。それ。先月の地蔵講は、辻の刑部三郎が頭ではなかつたか。
▲初ア「中々。刑部三郎が頭でござりました。
▲シ「あのさぶが娘に、やゝと云うてあるわ。
▲初ア「そのやゝが事でござるか。
▲シ「いゝや。そのやゝではなうて、やゝが妹におとゝ云うてあるわ。
▲後ア「そのおとが事でござるか。
▲シ「おう。その乙が出居に鉄漿付けて居た処へ、この祖父が行たればおとが云ふは、何とておほぢ御には疾う御出であつて、地蔵の法号なりとお唱やらいで、と云うて莞爾と笑うた顔を見たれば、なう。しほらしやしほらしや。天目程の靨が七八十入つた。余りにしほらしう思うたによつて、行き違ひざまにふつゝりとつねつたれば、乙が腹を立てゝ物と云うた。
▲初ア「何と。
▲シ「物と。
▲初ア「何と。
▲シ「《謡》推参の祖父めや、推参のおほぢめや。きはめて色は黒うして、口はすけみて目は腐り、老いぼれたか祖父とて、鏡にても打てかし、紅粉皿にても打たずして、この枕をおつ取つて、おほぢが顔を丁と打つ。打たれて目は真暗となりたれど、只恋しきは乙御前と、足ずりしてぞ泣き居たる。捨てゝも置かれず、取れば面影に立ち増り、起き臥し我が手枕より、後より恋の責め来れば、詮方枕に臥し沈む事ぞ恋しき。《ヲモアト入つて、乙を連れて出づ》
▲初ア「《謡》いかに祖父御。これこそおことの恋ひ給ふ乙御前よ。よくよく寄りて見給へとよ。《被衣を取る》
▲シ「はあ、したりしたり。恨めしや。《謡》
疾くにも出でさせ給ひたらば、かやうに老いの恥をばさらさじものを。あら恨めしとは思へども。たまたま逢ふは乙御前か。げにもさあり、やようがりもさうよの。なう。愛しの人。こちへ渡しめこちへ渡しめ。
校訂者注
1:底本は、「ゆらめいて」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の一 九 枕物狂」(国立国会図書館D.C.)
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