水掛聟(みづかけむこ) 大蔵流本

▲アト「これはこの辺りに住居致す耕作人でござる。当年は豊年とは申しながら、某が田は殊の外よう出来て、この様な悦ばしい事はござらぬ。さりながら、うち続いての日照りでござるによつて、田に水がなうて迷惑致す。今日も見舞はうと存ずる。誠に当年程よう作り済まいた事はござらぬ。この上にひと雨降つたならば、殊の外楽しうなる{*1}事でござる。いや。参る程に某が田ぢや。扨も扨もよう出来た事かな。これはいかな事。田に水が少しもない。見れば隣の田には水がなみなみとある。こちの水を取つたものであらう。憎い事ぢや。さらばこちへ取らう。えい。かはかはかは。えい。かはかはかは。さればこそ、水が来るわ来るわ。もはや一面に行き渡つた。又水口を止めて置かう。えいえいえい。これで一段と良い。又明日見舞はうと存ずる。
▲シテ「これはこの辺りに住居致す耕作人でござる。当年は豊年とは申せども、取り分け某が田は、畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はござらぬ。さりながら、うち続いての日照りでござるによつて、田に水がなうて迷惑致す。今日も見舞はうと存ずる。誠に耕作と申すものは、忙しいものでござつて、毎日毎日見舞ひに参らねばならぬ事でござる。いや。何かと申す内に田へ参つた。これはいかな事。田に少しも水がない。これは苦々しい事ぢや。昨日まで夥しうあつた水ぢやが、合点の行かぬ。見れば隣の田には、水がなみなみとある。定めてあちへ取つたものであらう。扨々憎い事でござる。隣の田は則ち、身共が舅の田でござるが。某が田に水がなくば、ともどもに掛けてくれられうを、大人気なうこちの水をあちへ取るといふは、近頃腹の立つ事でござる。こちの田へ取らうと存ずる。えいえい。かはかはかは。えいえい。かはかは。扨も扨も、来るわ来るわ。気味の良い事ぢや。見て居る内に水が行き渡つた。大方良さゝうな。さらば水口を止めう。えいえい。やつとなやつとな。一段と良うござる。又明日も見舞はうと存ずる。
▲ア「昨日田へ見舞うてござれば、水がござらぬによつて、水を掛けてござる。又今日も見舞ひに参らう。まづそろりそろりと参らう。誠にうち続いての日照りでござるによつて、いづ方にも水がござらぬ程に、少しも油断のならぬ事でござる。いや。参る程に身共が田ぢや。これはいかな事。昨日沢山に掛けて置いた水が、又一水もない。定めて隣の田へ取つたものであらう。良い良い。又こちへ取らう。えいえい。かはかはかは。えいえい。かはかはかは。さればこそ、皆こちの田へ水が参つた。さらば水口を止めう。えいえい。やつとな。一段と良い。今日はこの辺りに番を致いて居らうと存ずる。
▲シ「昨日、田へ見舞うてござれば水が少しもござらぬによつて、随分沢山に水を掛けてはござれども、うち続いての日照りでござれば心元なうござるによつて、又今日も見舞ひに参らうと存ずる。まづ急いで参らう。誠に只今が一大事の時分でござる。段々生ひ立つ時分には、少し水がなうても田が疲れまするによつて、随分精を出す事でござる。いや。参る程にこれぢや。これはいかな事。昨日なみなみと掛けて置いた水が少しもない。合点の行かぬ事ぢや。定めて隣へ取つたものであらう。又こちへ取らずばなるまい。
▲ア「いや。聟殿。御出やつたか。
▲シ「いえ。舅殿。出させられてござるか。
▲ア「この間はうち続いての日照りで、田に水がなうて迷惑致す事でおりやる。
▲シ「仰せらるゝ通り、日照りが続きまする処で、田に水がなうて骨が折れまする。《と云ひながら、水口をあける》
▲ア「あゝ。これこれ。そなたはむざとした人ぢや。某が田へ水を掛けて置くと、その儘水がなくなる程に、合点の行かぬ事ぢやと思へば、和御料が取ると見えた。これは某が田の水ぢやによつて、やる事はならぬぞ。
▲シ「これはいかな事。こなたこそむざとした事を仰せらるゝ。私の田へ水を掛けて置けば、その儘こなたの田へ取らせらるゝ。その様な事があるものでござるか。元が某の田の水でござるによつて、こちへ取らねばなりませぬ。
▲ア「又その様な事を仰しやる。某が田に水がなくば、ともどもに掛けてくれう筈を、こちの田の水を取るといふ事があるものでおりやるか。やる事はならぬ。
▲シ「左様に仰せらるゝならば、私もこなたの為には聟でござらぬか。聟は子も同じ事でござるによつて、こちの田に水がなくば、こなたこそともども掛けて下されうを、大人気なう某が田の水を取らせらるゝといふ事があるものでござるぞ。どうあつても取らねばなりませぬ。
▲ア「いやいや。何程云うてもやる事はならぬ。
▲シ「元がこちの田の水ぢやによつて、取らねばなりませぬ。
▲ア「やい。そこな者。
▲シ「何事でござる。
▲ア「おのれ憎い奴の。なぜに某が顔へ水をかけたぞ。
▲シ「いや。これは怪我で掛けました。許いて下されい。
▲ア「何ぢや。怪我で掛けた。
▲シ「中々。
▲ア「怪我で掛けて良くば、某も掛けてやらう。
▲シ「なう。そこな人。
▲ア「何事ぢや。
▲シ「こなたはなぜに、わざわざ水を掛けさせられた。
▲ア「某も怪我で掛けた。堪忍をおしやれ。
▲シ「某は誠の怪我で掛けましたが、こなたはわざわざ掛けさせられた。掛けて良くば、身共も掛けう。
▲ア「これこれ。そなたはわざわざ掛けたの。
▲シ「こなたのわざわざ掛けさせられたによつて、某も掛けました。
▲ア「舅の顔へこの様に水を掛くるといふ事があるものか。又身共も掛けてやらう。
▲シ「某も負くる事ではない。やつとなやつとな。
▲ア「これはいかな事。この様に水を掛けて良いものか。いや。思ひ出いた。仕様がある。この泥を塗つてやらう。
▲シ「やい。そこな奴。某が顔へ泥を塗り居つたな。身共も負くる事ではない。塗つてやらう。
▲ア「もはや堪忍ならぬ。やあやあやあ。《と云うて組み合ひて居る。女聞き付けて》
▲女「やあやあ。それは誠か。真実か。扨々苦々しい事ぢや。どこ元に居らるゝ事ぢや知らぬ。申し申し。これはまづ何とした事でござる。何とぞ堪忍をして下されい。
▲シ「女共。良い処へ来た。舅殿の足を取れ。
▲女「心得ました。《これより「庖丁聟」の如く云うて、舅を打ち倒いて入るなり。舅追ひ込む》

校訂者注
 1:底本は、「楽なる」。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の三 二 水論聟」(国立国会図書館D.C.

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