若市(にやくいち) 大蔵流本
▲シテ「これは四條辺りの上人でござる。今朝さる方へ斎に参つて只今戻りまする。まづそろりそろりと参らう。誠にあの人の様な丁寧な人はござらぬ。いつも馳走を致さるゝが、今日は取り分け色々の馳走で充満致し、御酒をも過ごいてござる。寺へ戻つてゆるりと休まうと存ずる。《この内に若市、一の松にて名乗る》
▲若市「これはこの辺に住居致す若市と申す尼でござるが、今日はさるお寺へ把針に頼まれて参る。まづそろりそろりと参らう。今日参るお寺のお児が花好きでござるによつて、さる方にこの菊を貰うてござる。これを進ぜたならば、さぞ喜ばるゝでござらう。
▲シ「いえ。若市。
▲若「いえ。御上人様。どれへ御出なされまする。《と云ひながら、菊を後ろへ隠す》
▲シ「今朝はさる方へ斎に行て、只今戻る処でおりやる。
▲若「それは近頃御苦労に存じまする。
▲シ「扨この間は久しう寺へも見えぬが、何と変る事もおりないか。
▲若「中々。妾も変る事もござらねども、あなたこなたと把針に頼まれまして、お寺へも御無沙汰致いてござる。
▲シ「いやいや。そなたも定めて若い新発意どものある寺へばかり行て、愚僧が辺りへは来ぬものであらう。
▲若「又御上人様のおざれ言を仰せられまする。何かと致いて御無沙汰致しましてござる。
▲シ「扨そなたの持つたは菊の花ではないか。
▲若「中々。菊でござる。
▲シ「扨々それは見事な花ぢやが、そなたの庭前か、但しは他から貰うておりやつたか。
▲若「さればその事でござる。これはさる方の菊でござるが、今日参るお寺のお児が殊ない花好きでござるによつて、これへ進ぜうと存じて、二三本貰うて参りました。
▲シ「見れば見る程見事な花ぢや。ちとこれへ見せさしめ。
▲若「どれから見させられても同じ事でござる。それから御覧ぜられい。
▲シ「いやいや。これから見ては知れぬ。その上、何とやら見た様な花ぢや程に、平にこれへ見せさしめ。
▲若「世に似た花もあるものでござる。それから見させられい。
▲シ「とかく遠いから見ては知れぬ。どうあつてもこれへ見せさしめ。《と云うて無理に取つて》
さればこそ。これは身共が花壇の菊ぢや。
▲若「扨々こなたは異な事を仰せらるゝ。今も申す通り、世には似た花は何程もござる。それは今朝さる方で貰うて参つた花でござる。
▲シ「やあら、おのれは口のあいた儘に、そのつれな事を云ふか。この間花壇の菊を何者やら荒らすによつて、目印を付けて置いたれば、その花も見えぬ。定めてそなたが取つたものであらう。欲しくば欲しいと云うたならば、やるまいものでもないに。尼の分として、盗むといふ事があるものか。
▲若「なう。物狂や。こなたは人聞き悪い事を仰せらるゝ。妾も欲しくば左様に申して貰ひまする。何として盗むものでござるぞ。御出家の身としてその様なむざとした事は仰せられぬものでござる。
▲シ「とかくこの花を持たせて置くによつて腹が立つ。散々に引きむしつて捨てゝのけう。
▲若「なう。腹立ちや。妾が花をむしるといふ事があるものか。元の様にして戻し居らう。
▲シ「のき居れ。
▲若「何とする。
▲シ「何とすると云うて、尼の分として、身共に取り付くといふ事があるものか。
▲若「はて、取り付かいで何とせう。妾が折角貰うて来た花をむしるといふ事があるものか。こゝなわ坊主めわ坊主め。
▲シ「総別甘やかいて置けば方領もない。おのれ散々に打擲してやらう。憎い奴の憎い奴の。
▲若「あゝ。痛や痛や痛や。やいやいやい。わ坊主。妾をこの様に打擲して、ために悪からうぞよ。
▲シ「ために悪からうと云うて、何とする。
▲若「目に物を見せう。
▲シ「それは誰が。
▲若「妾が。
▲シ「尼の分として、深しい事があるものか。
▲若「悔やまうぞよ。
▲シ「何の悔やまう。まだそれに居るか。あちへ失せう失せう失せう。
▲若「あゝ。痛々々。追つ付け思ひ知らせうぞ。なう。腹立ちや腹立ちや。
▲シ「扨々憎い奴でござる。かねがねいつぞは打擲致いてやらうと存ずる処に、身共が秘蔵の花を盗みましたによつて、散々に習はかいてござる。まづ寺へ戻つて休まうと存ずる。
▲アト「やあやあ。それは誠か。一定か。扨々苦々しい事ぢや。申し申し。御上人様。何としてその様に落ち着いてござるぞ。
▲シ「別に用もござらぬ。
▲ア「承れば、若市と喧嘩をなされたと申すが、誠でござるか。
▲シ「喧嘩と申す程の事ではござらねども、愚僧が秘蔵の菊を盗みましたによつて、打擲致いてござる。
▲ア「すれば偽りではござらぬ。それが腹が立つと云うて、洛中の尼どもを語らうて、追つ付けお寺へ押し寄せて参ると申しまする。
▲シ「いや。こなたも分別らしいお方かと存じてござるが、むざとした事を仰せらるゝ。たとへ尼どもが押し寄せて参つたと申して、何程の事があるものでござるぞ。
▲ア「いや。左様に仰せらるゝな。皆長道具で押し寄せて参ると申す。
▲シ「何ぢや。長道具で押し寄する。
▲ア「中々。
▲シ「いかに女ぢやと申して、長道具ならばちと用心をせずばなりますまい。
▲ア「私が取り繕うて遣はしませう。これへ寄らせられい。
▲シ「心得ました。
▲ア「この棒をもつて防がせられい。
▲シ「これは忝うござる。後をも良い様にくろめて下されい。
▲ア「心得ました。
▲尼「《一セイ》声々に、日中鬨を作りかけ、鉦鼓を鳴らし鉦を{*1}打つて、上人の御坊へ押し寄せたり。
▲シ「その時上人、高き所に走り上がり、寄せ手の勢を見渡せば、尼方の勢は三百人。《打ち切り》
三百人。思ひ思ひの出で立ちに、心々の打ち物抜き持ち、仏前の庭まで乱れ入る。えい。とうとうとう。
▲シ「お前の勢はこれを見て。《打ち切り》
これを見て、仲喜阿、隔夜上人、我も我もとかゝり給へば。
▲若「若市は、小鎗を抜いて小鎗を抜いて、昔の、あまの了観にも劣るまじと、こゝやかしこを突き廻れば、さしもに猛き御坊達も、突きまくられてぞ逃げたりける、突きまくられてぞ逃げたりける。えいえいとう。
▲シ「上人腹に据ゑかねて、手棒を振り上げかゝり給へば。
▲若「若市はこれを見てこれを見て、ものものしと云ふ儘に、上人とむづと組んで、二振り三振り振るぞと見えしが、上人を振り転ばかし、取つて押さへて、刺刀抜いて、帽子をかさと掻き落とし、差し上げて帰り給へば、残りの尼衆は悦びで、ぢつくぢくと踊りつれて、ぢつくぢくと踊りつれて、我が寮々にぞ帰りける。えいえいあう。《と云うて、若市帽子を差し上げて留める。上人は帽子を落とされて切戸より入る》
校訂者注
1:底本は、「ときを」。『狂言記』に従い改めた。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の三 四 若市」(国立国会図書館D.C.)
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