塗師(ぬし) 大蔵流本
▲アト「これは都に住居致す塗師でござる。只今都には塗師の上手があまたござる。その上何事も当世様当世様と申して、我ら如きの昔細工は流行りませぬによつて、渡世を致さう様がなうて迷惑致す事でござる。それにつき、越前の国北の荘に、平六と申して弟子がござるが、かねがね都で塗師が流行らずば越前へ下れと申し越してござる程に、平六を頼みに北の荘へ下らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に花の都を振り捨てゝ越前へ下ると申すは、本意にはござらねども、これも浮世の習ひなれば是非もない事でござる。いや。参る程に北の荘ぢや。いや。申し申し。この辺りに、塗師に平六と申す者はござらぬか。やあやあ。これぢやと仰せらるゝか。やれやれ。嬉しや嬉しや。尋ねかねうと存じてござれば早速知れて、この様な悦ばしい事はござらぬ。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲女「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア「これは都に住居致す平六が師匠でござるが、かねがね平六の申し越しまするは、都で塗師が流行らずば越前へ下れと申し越しましてござるが、今では都には塗師の上手があまた出来、その上何事も当世様当世様と申して、我らの如きの昔細工は頼む人もござらぬ。よつて渡世を送らう様がなうて迷惑致し、平六を頼みに遥々下りましてござる。何とぞ平六に逢はせて下されい。
▲女「やれやれ。それはようこそ下らせられてござる。まづかう通らせられい。
▲ア「心得ました。
▲女「それにゆるりと御出なされい。
▲ア「心得ました。
▲女「これはいかな事。あれへ参られたは平六殿のお師匠ぢやと申されてござるが、お師匠ならば定めて塗師も上手でござらう。左様ならば、この所にござつては平六殿の細工の妨げにもなりませう程に、偽りを申し、戻らるゝ様に致さうと存ずる。《女、泣きながら行て座る》
▲ア「いや。申し申し。こなたは何を嘆かせらるゝぞ。
▲女「妾はこなたを見まするにつけても、平六殿の事が思ひ出されて悲しうござる。
▲ア「はあ。扨、平六は何と致いてござるぞ。
▲女「さればその事でござる。{*1}平六殿は三とせ以前に空しうなられてござる。
▲ア「やあやあ。何と仰せらるゝ。平六は三年以前に空しうなつたと仰せらるゝか。
▲女「中々。その通りでござる。
▲ア「扨も扨もそれはゝかない事でござる。かねて達者な者でござつたによつて、中々今など空しうならうとは存じなんだが。それは気の毒な事でござる。私も遥々平六を頼みにこれまで{*2}下りましたに、近頃残念な事を致いてござる。
▲女「平六殿もかねがね、こなたにお目に掛かりたい掛かりたいと申されてござるが、息災で居られましたならば、さぞ悦ばるゝでござらう。《この言葉の内に》
▲シテ「やいやい、女共。女共はどちへ行たぞ。花漆の塗り刷毛はどこ元に置いたぞ。
▲女「あゝ。申し申し。その様に物を声高に仰せらるゝな。
▲シ「それは又何とした事ぢや。
▲女「都よりこなたのお師匠の下らせられてござる。
▲シ「や。何ぢや。都よりお師匠の下らせられた。
▲女「中々。
▲シ「やれやれ。それはお懐かしや。どれにござるぞ。早うお目に掛からせてくれさしめ。
▲女「いや。こなたをお師匠様へ逢はせまする事はなりませぬ。
▲シ「それは又なぜにぢや。
▲女「さればその事でござる。妾の存じまするは、こなたのお師匠ならば細工も上手でござらう。さうあれば、この所にござつてはこなたの細工の邪魔になりませうと存じて、こなたには三年以前に空しうならせられたと申しました程に、あれへ出させらるゝ事はなりませぬ。
▲シ「扨々そなたはむざとした事を云ふものぢや。今この所で塗師の平六平六と云はるゝは、誰が蔭ぢやと思ふ。皆お師匠の蔭ではないか。それに、遥々と身共を頼みに下らせられたものを、何とお目に掛からずに居らるゝものぢや。そこをのかしめ。あれへ行てお目に掛かる。
▲女「まづ待たせられい。
▲シ「待てとは。
▲女「近頃尤ではござれども、妾もこなたのためを思うて偽りを申した事でござる程に、こゝを聞き分けて、お目に掛からせらるゝ事を思ひ止まつて下されい。
▲シ「又そのつれな事を云ふか。七尺去つて師の影を踏むなといふ事がある。その上某も、幼少の時分より取り立てられ、お師匠ぢやによつてかねがね、都で塗師が流行らずば越前へ下らせられい、ともどもに稼ぎませうと云うて進ぜたによつて、某を頼みに下らせられたものを、いかにためにならぬと云うて、これがお目に掛からずに居らるゝものか。どうあつてもお目に掛からねばならぬ。
▲女「さりとては、聞き分けのない事を仰せらるゝ。すればどうあつてもお目に掛からせられねばなりませぬか。
▲シ「はて、お目に掛からいで何とするものぢや。
▲女「それならば是非に及びませぬ。妾に暇を下されい。
▲シ「それは何故にぢや。
▲女「はて、こなたもよう思うても見させられい。一旦こなたは空しうなられたと申したものが、あれへ出させられて、何と妾が生きて顔が合はさるゝものでござるぞ。淵川へなりとも身を投げて死にまする。
▲シ「何ぢや。身を投げて死ぬる。
▲女「中々。
▲シ「むゝ。誠に尤ぢや。扨々これは苦々しい事ではあるぞ。身共がお師匠へお目に掛からうと云へば、そなたが身を投ぐると云ふ。又お目に掛からねば、本意になし。これはまづ何としたものであらうぞ。
▲女「誠に何とぞして、こなたの今一度お目に掛からせらるゝ仕様が、ありさうなものでござるが。
▲シ「とかく身共は途方に暮れて、分別にあたはぬ。そなた、良い様に了簡をしてくれさしめ。
▲女「されば何と致いて良うござらうぞ。
▲シ「何として良からうぞ。
▲女「いえ。良い事がござる。最前お師匠へ、平六殿の常々懐かしう存じて、今一度お目に掛かりたい掛かりたいと申されてござると云うて置きましたによつて、こなたは幽霊になつて、今一度お目に掛からせられい。
▲シ「これは良からうが、某も今まで色々のものになつたが、つひに幽霊になつた事がおりない。
▲女「又むざとした事を仰せらるゝ。誰しも幽霊になつた者はござらねども、昔語りにも聞き及ばせられたでござらう程に、幽霊らしう取り繕うて、あの風炉の陰から出させられい。
▲シ「それならば、幽霊らしう取り繕うて、あの風炉の陰から出よう処で、お師匠の、傍へ寄らせられぬ様にしてくれさしめ。
▲女「何が扨心得ました。早う出させられい。
▲シ「追つ付け出ようぞ。《中入り。女、又泣きながら行く》
▲女「はて、合点の行かぬ事ぢや。
▲ア「申し申し。何事を仰せらるゝ。
▲女「さればその事でござる。只今平六殿の声が致いた様にござつたと存じて、あれへ参つて見てござれば、人影もさしませぬ。
▲ア「誠に今、平六の声が致いた様にござつたが。すれば人影もさしませぬか。
▲女「中々。それについて妾の存じまするは、最前も申す通り、平六殿の常々こなたをお懐かしう存ぜられて、今一度お目に掛かりたい掛かりたいと申されてござるが、こなたのお下りなされたを嬉しう思うて、もし平六殿の幽霊ばし、出ましたものでござらうと存じまする。
▲ア「すれば疑ひもない。平六が幽霊でござらう。私も、弟子もあまたござつたが、中にもあの平六は幼少より取り立てた者でござるによつて、定めて懐かしう存じて、幻に出たものでござらう。
▲女「扨、こなたもお草臥れではござらうが、又余の回向とも違ひまして、平六殿も悦ばれませう程に、今夜は何とぞ泊まらせられて、夜と共に後を弔うて下されい。
▲ア「いかさま。私も遥々下つた事でござるによつて、今夜はこゝ元に泊まりまして、夜もすがら後を弔ひませう程に、鉦鼓があらば貸して下されい。
▲女「心得ました。さらば鉦鼓を上げまする。
▲ア「これへ下されい。
▲女「心得ました{*3}。
▲ア「扨、念仏は俗在出家{*4}の差別はござらぬと申す程に、夜もすがら念仏を申して、後を弔ひませう。
▲女「それが良うござらう。
▲ア「こなたもこれへ寄つて念仏を申させられい。
▲女「心得ました。
▲ア「《謡》旅人は、鉦鼓を鳴らし女房と。
▲二人「念仏申し、平六が亡き後いざや弔はん、亡き後いざや弔はん。
▲シ「《一セイ》ありがたや。法の漆の縁あれば、再び閻浮に帰るなりけり。
▲ア「不思議やな。平六が姿、影の如くに見えけるは、念仏の功力か。ありがたや。
▲シ「我平六が幽霊なるが、御弔ひのありがたさに、これまで顕はれ出でゝ候ふ。
▲ア「都にて見し時よりも、面影の衰へ果つる無残さよ。
▲シ「おう。昔は花漆、今は年長け蝋色の、漆の罪の当たりけるか。
▲ア「職のありさま懺悔せよ。
▲シ「いでいでさらば語り申さんと、恥づかしながら餓鬼道の。《打ち切り》
恥づかしながら餓鬼道のぬしとなつて、青漆の如くなる淵に臨んで、漆漉に水を入れて飲まんとすれば、程なく火焔と燃え上がつて、身は焼け漆となりたるぞや、身は焼け漆となりたるぞや。又ある時は布に巻かれ。捩木を入れて、ひたねぢに捩ぢ詰めらるれば、あら心漆刷毛の、ばけ損なはゞいかならんと、風炉の小蔭に入りにけり。塗り込め他行といふ事も、塗籠他行といふ事も、この時よりこそ始まりけれ。
校訂者注
1:底本に以下の一文はない。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い補った。
2:底本は、「是程」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
3:底本は、「心得ましした」。
4:底本、「俗」の字は不鮮明。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従った。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の三 六 塗師」(国立国会図書館D.C.)
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