合柿(あはせがき) 大蔵流本
▲アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。承れば、宇治の乙方の柿が大なり致いたと申すによつて、いづれもを誘うて乙方へ参らうと存ずる。申し。いづれもござりまするか。
▲立衆「これに居りまする。
▲ア「承れば、宇治の乙方の柿が大なり致いたと申すによつて、今日は乙方へ柿を食べに参らうではござるまいか。
▲立「これは一段と良うござりませう。
▲ア「さあさあ。ござれござれ。
▲立「参る参る。
▲ア「今日は天気も良うござるによつて、ゆるりと慰みませう。
▲立「仰せらるゝ通り、天気も良うござるによつて、ゆるりと慰みませう。
▲ア「いや。何かと申す内に上下の街道でござる。ちとこの所に休んで参りませう。
▲立「それが良うござらう。
▲シテ「これは宇治の乙方の者でござる。当年は乙方の柿が大なり致いてござるによつて、毎日都へ商売に参る。又今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠にさすが都でござるわ。かやうに毎日持つて参つても、つひに売り余いて戻つた事がござらぬ。今日も何とぞ仕合せを致いたい事でござる。
▲ア「いや。申し申し。これへ柿売りが参る。呼うで見ませう。
▲立「それが良うござらう。
▲ア「いや。なうなうなう。そこな人。
▲シ「こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲ア「いかにもそなたの事ぢや。その柿は進上物か。但し商ひ物か。
▲シ「私は宇治の乙方の柿売りでござるが、毎日都へ商売に参りまする。則ち商売物でござる。
▲ア「何ぢや。乙方の柿売りぢや。
▲シ「中々。
▲ア「申し申し。乙方の柿売りぢやと申しまする。すれば、あの方へ参るまでもござらぬ。何とこれで食べうではござらぬか。
▲立「これは一段と良うござらう。
▲ア「なうなう。柿売り。
▲シ「何事でござる。
▲ア「我々は都の者で、今日は乙方へ柿を食ひに行く処ぢや。そなたが乙方の柿売りならば、皆寄つて求めてやらうと仰せらるゝが、何とこゝで売るまいか。
▲シ「それは仕合せな事でござる。乙方へ御出なされて召し上がらるゝも同じ事でござる。さあさあ。いづれも様。召し上がられて下されい。《と云うて柿{*1}を出す》
▲ア「どりやどりや。さらば柿を見ませう。いや。申し。これは合はせ柿でござる。
▲シ「あゝ。申し申し。いづれも様は扨々、柿の目利きが下手な。何しに合はせ柿を持つて出るものでござるぞ。これは乙方でも木ねりと申して、いち旨い柿でござる。さあさあ。いづれも様。まづ召し上がられ。御覧ぜられい。
▲ア「いやいや。とかく渋さうな柿ぢや。
▲シ「いや。申し。何しに偽りを申すものでござるぞ。まづ召し上がられ。御覧ぜられい。
▲ア「それ程旨い柿ならば、汝喰うて見よ。
▲シ「私の食べる分は易い事でござるが、それでは旨い渋いが知れますまい。とかくいづれも様の内で、召し上がられて見させられい。
▲ア「いやいや。そなたが食うても、旨いか渋いかは口元で知るゝ事ぢや。平に食うて見よ。
▲シ「それならば食べませうが、これは商売物でござるによつて、後で値ひを下さるか。
▲ア「中々。甘くばやらう程に、早う食へ。
▲シ「いやいや。とかく私が食うては知れますまい。平に一つ召し上がられい。
▲ア「はて扨、くどい事を云ふ。そなた食うて見ませいと云ふに。
▲シ「是非とも食べいと仰せらるゝか。
▲ア「中々。
▲シ「後で柿の値ひは下さるゝの。
▲ア「中々。甘くば何程なりともやらうとも。
▲シ「いえ。それならば食べませう。さらばこれに致さう。
▲ア「あゝ。いやいや。これを食うて見せい。
▲シ「扨々、いづれもはさすが御素人ぢや。これは中にも旨い柿でござる。これに致しませう。
▲ア「いやいや。その旨い柿を食へ。
▲シ「それならば食べませう。
▲ア「いづれも。口元を見させられい。
▲立「心得ました。
▲シ「扨も扨も旨い柿かな。《と云うて、いかにも渋さうな顔をして食ふを見て》
▲ア「さればこそ渋さうにござるわ。
▲立「左様でござる。
▲シ「いや。申し申し。殊の外旨い柿でござる。平に召し上がられて見させられい。
▲ア「いやいや。渋さうな。いや。これこれ。それ程旨くばうそを吹いて見よ。
▲シ「いや。申し。私もさもしい商売人でこそござれ、嘘などをついた事はござらぬ。
▲ア「いやいや。嘘ではない。うそを吹いて見よ、と云ふ事ぢや。
▲シ「扨、そのうそとやらは、いかやうにして吹くものでござるぞ。
▲ア「かやうにして吹くものぢや。《と云うて、口笛を吹いて聞かする》
▲シ「その事でござるか。
▲ア「中々。
▲シ「いえ。それは私の得物でござる。只今吹いて見せませう。《と云うて、うそ吹かんとて、ぶつぶつと云ふ》
▲ア「さればこそ渋いわ。《と云うて、皆々笑うて》
いざ。さらば乙方へ参りませう。
▲立「それが良うござらう。
▲シ「あゝ。待たせられい。
▲ア「何事ぢや。
▲シ「柿を買はずば、今の値ひを置いてござれ。
▲ア「扨々、そなたはむざとした事を云ふ。甘くばやらうと云うたに、何と渋い柿に値ひがやらるゝものぢや。やる事はならぬ{*2}。
▲シ「やあら、いづれもは御仁体にも似合はぬ。さすが商売人なればこそ、今まで堪忍をして居たれ。柿を買はぬのみならず、色々の事を云うておなぶりやつて、あまつさへ、身共が食うた柿の値ひまでおこすまいと云ふ事があるものか。どうあつても、約束ぢやによつて取らねばならぬ。
▲ア「やいやいやい。そこな奴
▲シ「やあ。
▲ア「やあとは。おのれ憎い奴の。それ故最前、甘くばやらうと云うたに。何と渋い柿に代物がやらるゝものか。やる事はならぬ。
▲シ「見れば和御料は年輩な人ぢやが、むざとした事を仰しやる。よう思うてもお見やれ。商売物を只食うて良いものか。値ひをやらうと仰しやつたによつて食ふ。どうあつても代物を取らぬ内は、一寸でもやる事ではないぞ。。
▲ア「いや。おのれ。柿売りづれに推参な事を云ひ居る。そのつれを云うたらば、ために悪からうぞよ。
▲シ「ために悪からうと云うて、何と召さる。
▲ア「目に物を見せう。
▲シ「それは誰が。
▲ア「いづれも大勢が。
▲シ「はゝあ。いづれもは大勢、身共は一人ぢやと思うて、侮つて仰しやるか。某も乙方では口をも利く者ぢや。いづれも大勢なりとも、恐らく怖づる{*3}柿売りではおりない。
▲ア「ていとさう云ふか。
▲シ「おんでもない事。
▲ア「悔やまうぞよ。
▲シ「何の悔やまう。
▲ア「たつた今、目に物を見せう。いづれも。打擲致しませう。《皆立ち掛かつて打擲する》
▲皆「憎い奴の憎い奴の憎い奴の。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい許させられい。
▲ア「いづれも。こゝへ寄つてござれ。《皆々座り着く》
▲シ{*4}「やいやいやいやい。卑怯者。返せ返せ返せ。《謡》
返せ合はせ柿合はせ柿、と云へども云へども取り残さるゝ、木守りの古への人丸、柿の本に休みて歌を案じて、空うそを吹かせ給ひしためしもある。うたてや、我がうその吹かれぬ口をかきむしり、後悔しつゝ、頭を柿のくしざしにあらねども、拾ひ入れたる渋柿を、かたげて宿へ帰りけり、かたげて宿へ帰りけり。
校訂者注
1:底本は、「我」。
2:底本は、この後に「と云うたに、何と渋い柿に値ひがやらるゝものぢや。やる事はならぬ。」がある。
3:底本は、「恐らく柿づる」。
4:底本は、「▲皆々「」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の三 八 合柿」(国立国会図書館D.C.)
コメント