餅酒(もちさけ) 大蔵流本

▲アト「罷り出でたる者は、加賀の国のお百姓でござる。毎年御年貢と致いて、上頭へ実相坊の菊酒を大晦日境に持つて上り、元朝の御祝ひに捧げまするが、去年は木の芽峠の大雪に支へられ、当年まで遅なはつてござれども、上頭はいつもお正月ぢやと申すによつて、持つて上つても苦しうあるまいと存じ、只今持つて上る処でござる。《道行。「筑紫の奥」同断。連れを待つ処も同断》
▲シテ「罷り出でたる者は、越前の国のお百姓でござる。毎年御年貢と致いて、上頭へ円鏡を大晦日境に持つて上り。《これよりアトの名乗りと同断。道行は「筑紫の奥」と同断。言葉を掛くる処より御舘へ着く処まで、「三人夫」などゝ{*1}同断。シテより国を尋ね、アトよりシテへ尋ぬる時、「まづ隣の者ぢや」と云ふ。その他は変りなし。アトより先へ納むる。奏者同断{*2}》
▲ア「物申。頼みませう。こゝ元ではないさうな。もそつと奥へ持つて参らう。物申。頼みませう頼みませう。
▲奏者「やいやいやい。
▲ア「や。こなたは誰ぢや。
▲奏「今日の奏者です。
▲ア「はあ。はいもう致いた。真つ平御免あれ。
▲奏「あの狼藉者。何者なればお前近う参るぞ。{*3}
▲ア「《名乗りの通り云うて》お奏者のお心入れを以て、納めさせられて下されうならば、忝う存じまする。
▲奏「御序を以て申し上げて取らせう。御蔵の前へ持つて参れ。
▲ア「はあ。なうなう。越前の。おりやるか。
▲シ「これに居る。何と上げさしましたか。
▲ア「中々。上げておりやる。お奏者はつゝと奥にござる。この様な所で百姓のおめたは見苦しいものぢや。おめず臆せず、つゝかけて持つておりやれ。
▲シ「心得た。《アトの通り。奏者同断。納めてアトを呼び出し、「よう誑いた」と云ふ。「扨、御暇を申し上げう」と云ふ時》
▲奏「やいやい。両国のお百姓。召すわ。
▲ア「や。召すとある。つゝと御出やれ。
▲シ「心得た。
▲二人「両国のお百姓。お前に。
▲奏「仰せ出さるゝは、去年持つて参る御年貢を、当年まで遅なはる事、曲事に思し召す。さりながら、上頭はいつもお正月ぢやと祝ひました処で、御免なさるゝ。さうあれば、折節御歌の御会に持つて上り合はせたによつて、両国の御年貢によそへ、こぞ今年を折り入れ、歌を一首づゝ詠みませい、との御事ぢや。
▲ア「はあ。これは迷惑に存じまする。
▲シ「これはありがたう存じまする。
▲奏「いや。一人は迷惑と云ふ。又一人はありがたいと云うたが。まづ、汝は何と聞いたぞ。
▲ア「まづ私の承つてござるは。《奏者の云うた通りを云うて》歌を一首づゝ詠みませい{*4}との御事かと承つて、それ故迷惑なと申し上げましてござる。
▲奏「その通りぢや。又、汝は何と聞いた。
▲シ「はあ。違ひましてござる。
▲奏「何と違うた。
▲シ「私の承つてござるは。《初めは奏者の云うた通りを云うて》折節、御歌の御会に持つて上り合はせたによつて、両国の御年貢を私一人に下さるゝと承つて、それ故ありがたいと申し上げました。
▲奏「いや。さうではない。あの者が聞いた通りぢや。急いでお受けを申せ。
▲ア「何とそれがありがたいか。
▲シ「お詫び言を申さう。
▲ア「それが良からう。
▲シ「百姓の事でござれば、つひに歌などを詠うだ事はござらぬ。何とぞ御許されて下されい。
▲奏「いやいや。一旦仰せ出された事は綸言汗の如くで、翻す事はならぬ。
▲二人「扨は、翻す事はなりませぬか。
▲奏「中々。ならぬ事ぢや。
▲ア「それならば畏つてござる。
▲シ「これこれ。和御料は早、お受けを申したか。
▲ア「はて、翻す事はならぬと仰せらるゝ。
▲シ「いかい歌詠みの。
▲奏「やいやい。汝はなぜにお受けを申さぬぞ。
▲シ「あれが畏つてござらば、私は心得ましてござる。
▲奏「扨々、すねた事を云ふ者ぢや。いづれからなりとも早う詠め。
▲ア「私から詠みませう。
▲奏「汝から詠め。
▲ア「何とでござらうぞ。
▲奏「何とであらうぞ。
▲ア「かうもござりませうか。
▲奏「早出たか。
▲ア「呑みふせる。
▲奏「呑みふせる。
▲ア「酔ひの紛れに年一つ。
▲奏「年一つ。
▲ア「打ち越し酒の二年酔ひかな。と仕りませう。
▲奏「一段とよう詠うだ。さあさあ、汝も詠め。
▲シ「歌と申すものは、あの様なものでござるか。
▲奏「中々。
▲シ「左様ならば、最前から詠みませうものを。
▲奏「早う詠め。
▲シ「呑みふせる。
▲奏「呑みふせる。
▲シ「酔ひの紛れに年一つ。
▲奏「やいやい。それはあの者が詠うだ歌ぢや。
▲シ「すれば、同じ歌はなりませぬか。
▲奏「中々。ならぬ。汝が御年貢によそへて{*5}詠め。
▲シ「それならば、ちと案じて見ずばなりますまい。
▲奏「それはいかやうにしてなりとも、早う詠め。
▲シ「何とでござらうぞ。
▲奏「何とが良からうぞ。
▲シ「かうもござらうか。
▲奏「早出たか。
▲シ「年の内に。
▲奏「年の内に。
▲シ「餅は搗きけり一年を去年とや食はん今年とや食はん。と仕りませう。
▲奏「汝も一段とよう詠うだ。その通り申し上げて取らせう。はあ。両国のお百姓、歌、かくの如く。はあはあ。やいやい。
▲二人「はあ。
▲奏「お笑ひ草と思し召し、仰せ出された処に、百姓のなりにも似せずよう詠みましたとあつて、御感なさるゝ。さうあれば、前々はない事なれども、万雑公事を御免なさるゝ、との御事ぢや。
▲二人「や。万雑公事を御免なさるゝ。
▲奏「その通りぢや。
▲二人「その様な事を承れば、心がくわつくわつと致す。
▲奏「やいやいやいやい。汝らはむざとした。お前近うくわくわらめいたとあつて、御機嫌が損ねた。今度は今の過怠に、又御年貢によそへ、大きな歌を一首づゝ詠め、との御事ぢや。急いでお受けを申せ。
▲シ「そなたがくわくわらめいた。
▲ア「いや。和御料がくわくわらめいた。
▲奏「論は無益。急いで詠みませい。
▲シ「最前のさへござるに、何とぞ御免なされて下されい。
▲奏「いやいや。最前も云ふ通り、翻す事はならぬ。早う詠め。
▲シ「それならば畏つてござる。
▲ア「又私から詠みませう。
▲奏「それが良からう。
▲ア「何とでござらうぞ。
▲奏「何とが良からうぞ。
▲ア「かうもござらうか。
▲奏「早出たか。
▲ア「盃は。
▲奏「盃は。
▲ア「空と土とのあひの物。
▲奏「間のもの。
▲ア「富士をつきずのはうにこそ呑め。と致しませう。
▲奏「一段と大きな歌ぢや。
▲シ「いや。申し申し。
▲奏「何事ぢや。
▲シ「扨も扨も、きやつは大きな歌を詠みました。富士をはうの物に譬へましてござる。
▲奏「その通りぢや。
▲シ「私もあの様な大きな歌を詠みたうござる。
▲奏「汝も随分大きな歌を詠め。
▲シ「何とでござらうぞ。
▲奏「何とであらうぞ。
▲シ「かうもござらうか。
▲奏「早出たか。
▲シ「大空に。
▲奏「大空に。
▲シ「憚る程の餅もがな、生けらう一期かぶり食らはん。と仕りませう。
▲奏「これも殊の外大きな歌を詠うだ。その通り申し上げて取らせう。はあ。両国のお百姓、大きな歌、かくの如く。はあはあ。やいやい。
▲二人「はあ。
▲奏「一段と大きな歌を詠うだとあつて、御感に思し召す。さうあれば、これも前々はなけれども、お通りを下さるゝ。三献づゝたべて、洛中を舞ひ下りに致せ、との御事ぢや。
▲二人「これはありがたうござる。
▲奏「則ち、身共が酌をして取らせう。
▲二人「これは慮外にござる。
▲奏「まづ汝から呑め。
▲ア「私からたべませう。
▲奏「恰度ある。
▲ア「恰度ござる。
▲奏「汝も呑め。
▲シ「これは慮外にござる。
▲奏「恰度ある。
▲シ「誠に恰度ござる。
▲ア「結構な御酒でござる。今一つたべませう。
▲奏「それが良からう。
▲シ「私も今一つたべませう。
▲奏「今一つ呑め。
▲ア「めでたう三献たべませう。
▲奏「それが良からう。
▲シ「私も数良う三献たべませう。
▲奏「めでたうそれが良からう。扨、追つ付け御暇を下さるゝ{*6}程に、洛中を舞ひ下りに致せ。
▲二人「又明年参つて、お目に掛かりませう。
▲奏「又明年逢はうぞ。
▲二人「もうかう参りまする。
▲奏「もう行くか。
▲二人「さらばさらば。
▲奏「よう来た。
▲二人「はあ。
▲ア「なうなう。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「御年貢は納むる。万雑公事は御免なさるゝ。その上、お通りまでを下された。国元への良い土産ではないか。
▲シ「仰しやる通り、良い土産でおりやる。
▲ア「急いで和歌を上げさしめ。
▲シ「心得た。
▲ア「《謡》松の酒屋と梅壺の、柳の酒こそ勝れたれ。
▲シ「年々に、つき重ねたる舞の袖。返す袂やねつすらん。
《三段の舞》
▲二人「やらんめでた。そもそも酒は百薬の長として寿命を延ぶ。その上酒に十の徳あり。旅行に慈悲あり、寒気に衣あり、推参に便りあり。扨又、餅は万民に用ゐられ、白金黄金所領もち、白金黄金所領の上に、栄ゆる御代こそめでたけれ。
やあ。えいや。やあ。

校訂者注
 1:底本は、「など」。
 2:底本は、「同前」。
 3:底本は、「参るぞ。《名乗の通りいふて》▲ア「」。
 4:底本は、「よませい」。
 5:底本は、「御年貢にそへて」。
 6:底本は、「下るゝ」。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の四 一 餅酒」(国立国会図書館D.C.

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