鼻取相撲(はなとりずまふ) 大蔵流本
《名乗りその他、万事「文相撲」と変る事なし。後に相撲を取る時、「文相撲」の目隠しを打つ処を、取り手、「やつやつ」と云うて手を出す。シテ、気を失ふ。太郎冠者、「申し。頼うだ人」と云うて呼びて》
▲シテ「誰ぢや。
▲冠者「私でござる。
▲シ「太郎冠者か。
▲冠「中々。私でござるが、まづ何となされました。
▲シ「扨々、きやつが相撲は早い相撲ぢや。やつと云ひ、おつ開く。何やら目の前へによろりによろりと出ると思うたれば、目がくるくると舞うた。今のは何といふ手ぢや。問うて来い。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「えい。
▲冠「はあ。なうなう。今のは何といふ手ぢやと仰せらるゝ。
▲取り手「あれは私の国元で流行る、鼻取り相撲と申す手でござつて、弱い鼻は根から引き抜きまする。又強い鼻は耳せゝまで引き歪めて置きますると仰せられい。
▲冠「あの、そなたがの。
▲取「中々。
▲冠「扨々、強い事を云ふ人ぢや。《その通り云ふ》
▲シ「あの、きやつが。
▲冠「中々。
▲シ「扨々、強い事を云ふ奴ぢや。何と某が鼻は歪みはせぬか。見てくれい。
▲冠「いや。お仕合せに歪みは致しませぬ。
▲シ「それは一段と良いが。扨、今のは身共が負けか。
▲冠「いづれお勝ちと見えませぬ。
▲シ「きやつに負くるといふは、近頃口惜しい事ぢやなあ。
▲冠「私までも残念にござる。
▲シ「何とぞして勝ちたいものぢやが。
▲冠「何とぞ致いてお勝ちに致したい事でござるが。いや。鼻に要害を致いては何とでござらう。
▲シ「これは一段と良からう。急いで要害をしてくれい。
▲冠「畏つてござる。これへ寄らせられい。
▲シ「心得た。
▲冠{*1}「これをお鼻{*2}へ当てませう。
▲シ「これは一段と良い調儀ぢや。何と良いか。
▲冠「一段と良うござる。
▲シ「それならば、きやつにこれへ出いと云へ。
▲冠「畏つてござる。なうなう。今一番取らうと仰せらるゝ。あれへ御出やれ。
▲取「心得ました。新参の者。出ましてござる。
▲シ「今度は心得て行司をせい。
▲冠「畏つてござる。いや。お手。
《「文相撲」同様、跳び違へて拳にて張り込み悦ぶ。この後、諸事「文相撲」と同断。三番目の相撲に、シテ、負けて起き上がり、「文相撲」ならば書を引き裂き捨つる処を、鼻に当てし土器を取り、打ち付くる。後、同断》
校訂者注
1:底本、ここに「▲冠「」はない。
2:底本は、「鼻へ」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の四 二 鼻取相撲」(国立国会図書館D.C.)
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