犬山伏(いぬやまぶし) 大蔵流本
▲アト「これはこの辺りに住居致す出家でござる。今朝さる方へ斎に参つて、只今罷り帰る。まづそろりそろりと参らう。誠にあの人はつゝと念の入つた人でござつて、いつ参つても色々ご馳走を召され、御酒などを強ひられまするによつて、今日もちとたべ酔うて、殊の外咽が乾く。いや。いつもこゝ元に茶屋が居らるゝが、今日は未だ出られぬか知らぬ。さればこそこれに居らるゝ{*1}。申し申し。茶屋殿。又今日も出させられたの。
▲茶屋「いえ。お寺様。出させられてござるか。
▲ア「愚僧も、今朝さる方へ斎に参つて、只今戻りがけでござるが、お茶を所望に参りました。
▲茶「易い事。まづあれへ掛けさせられい。
▲ア「心得ました。何と御家内にも変らせらるゝ事もござらぬか。
▲茶「中々。変りまする事もござりませぬ。
▲ア「それは一段の事でござる。
▲茶「さらば参れ。
▲ア「これへ下されい。扨々結構なお茶でござる。今一服たべませう。
▲茶「何程なりとも参りませい。
▲ア「いつもいつもお茶を荒らしまする。
▲茶「少しも苦しうない事でござる。
▲ア「ちと寺へもござれ。
▲茶「参りませう。又進じませう。
▲ア「これへ下されい。お蔭で咽の渇きを已めましてござる。とてもの事に、今少し休んで参りませう。
▲茶「ゆるりと休ませられい。
《次第にて山伏出る。「祢宜山伏」同断。茶を飲む処、出家を引きおろす処も同断》
▲シテ「なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと咽の渇きを已めてござる。まづ急いで参らうか。今の坊主が憎い奴でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。《この間の茶屋出家の言葉、「祢宜山伏」同断》
やい。わ坊主。この肩箱を晩の泊まりまで持て。
▲ア「これは迷惑にござる。取りさへて下されい。
▲茶「申し申し。これは何とした事でござるぞ。
▲シ「この肩箱を晩の泊まりまで持たせねばならぬ。
▲茶「持たせて良い事ならば、私が持たせませう。まづこれを私へ預けさせられい。
▲シ「それならば汝に預くる程に、早う持たせい。
▲茶「畏つてござる。いや。申し申し。扨、あの肩箱をあの御出家に持たせらるゝには、何ぞ仔細ばしござるか。
▲シ「おのれは知るまいが。《この後の言葉、「祢宜山伏」同断。但し「祢宜」を「坊主」と云ふばかりなり》
▲茶「その通り申しませう。まづそれに待たせられい。申し申し。今のを聞かせられたか。
▲ア「中々。これで承つてござる。扨々無体な事を云はれまする。あのお山伏が天下の御祈祷を専らとなさるれば、愚僧も朝夕の勤行に天下安全の祈念を致しまする。これ、以て同じ事でござる。扨々、往還で高腰を掛けて茶をたぶるは、高いも低いも往還の習ひでござる。その上、山伏は山伏、坊主は坊主で立派がござつて、お山伏に限つて一礼を致さう様はござらぬ。持つ事はならぬと仰せられて下されい。
▲茶「これは御尤{*2}でござる。その通り申しませう。申し申し。
▲シ「聞いた聞いた。《この言葉も同断》
それにあの坊主めが方々を歩いて旦那衆を誑すさへ腹が立つた。所詮おのれが分ではなるまい。某が持たせう。
▲茶「いやいや。私が持たせませう。
▲シ「それならば早う持たせい。
▲茶「申し申し。今のを聞かせられてござるか。
▲ア「いよいよ無理な事を云はれまする。いや。とかく私がこれに居りまするによつて悪しうござる。何とぞ愚僧を裏道から外させて下されい。
▲茶「申し申し。こなたがござらいでは、私が迷惑致しまする。とかくこれでは済みませぬ。あの山伏も云ひ掛かつた事でござるによつて、何ぞ勝負をなされて、その勝負によつて肩箱を持たせらるゝとも、その傘を持たするとも致しませうが、何とでござらう。
▲ア「これは良うござりませうが、その勝負には何を致しまするぞ。
▲茶「こゝに人喰ひ犬がござる。これを祈らせまして、どちなりとも懐いた方を勝ちに致さうと存じまするが、何とござらう。
▲ア「これはなりますまい。
▲茶「それはなぜにでござる。
▲ア「あのお山伏は、祈り加持を専らとせらるゝ者でござる。その上最前、空飛ぶ鳥をも目の前へ祈り落とすと申されまするによつて、愚僧が負くるは必定でござる。
▲茶「いやいや。左様に仰せらるゝな。正直の頭に神宿ると申す事がござる。最前からあの山伏の云はるゝは、皆無理でござるによつて、行力ぢやと申しても左様にもござるまい。扨又、何ぞ経文に虎と申す事はござらぬか。
▲ア「中々。ござりまする。
▲茶「それは一段の事でござる。則ち、かの犬の名を虎と申しまする。虎とさへ申せば、その儘懐きまする程に、平に私次第に祈らせられい。
▲ア「それならばこなた次第に致しませう程に、その通りをお山伏へ云うて下されい。
▲茶「心得ました。《この内にシテ、一二度も催促する。「祢宜山伏」同断。茶屋の言葉、「祢宜山伏」同断。山伏も同断。「大黒」の処、「犬」と云ふばかりの違ひなり》
▲シ「良い良い。祈らう程に、その犬を引き出せ。
▲茶「畏つてござる。申し申し。祈らうと云はれまする程に、犬を連れて参りませう。
▲ア「早う連れてござれ。《茶屋、犬を連れに楽屋へ入る。出家、「もはや茶屋殿は見えさうなものぢや」と云うて居る》
▲シ「憎い奴の。《出家、かゞみて元の所へ帰る》
▲茶「やいやい。行け行け。申し申し。この犬でござる。
▲ア「扨々、逞しい犬でござる。まづお山伏から祈らせられいと仰せられて下されい。
▲茶「心得ました。申し。まづこなたから祈らせられいと申されまする。
▲シ「坊主めから祈れと云へ。
▲茶「心得ました。まづこなたから祈らせられいと云はれまする。
▲ア「それならば私から祈りませうか。
▲茶「それが良うござらう。
▲ア「申し。それへ。祈らせられぬか。
▲シ「おのれから祈れと云ふに。
▲ア「はあ。
南無。きやらたんのう。とらやとらやとらやとらや。《犬、懐きて出家の方へ寄る》
▲茶「申し申し。こなたの勝ちでござる。
▲ア「傘を持たせませう。
▲茶「それが良うござらう。
▲ア「申し申し。私の勝ちでござる。この傘を持たしめ。
▲シ「早い勝ちの。未だ身共が祈りもせぬに。
▲茶「これは御尤でござる。
▲シ「《祈る。「祢宜山伏」同断》ぼろおんぼろおんぼろおんぼろおん。《「橋の下の菖蒲」も云ふ。犬吠え掛かる》
▲茶「申し申し。とかくこなたのお勝ちでござる。さあさあ。この傘を持たせられい。
▲シ「今度は相祈りにせう。
▲ア「相祈りには及ばぬ事でござる。
▲シ「はて、相祈りにせうと云ふに。《小さ刀に手を掛くる》
▲ア「はゝ。それならばともかくもでござる。
▲茶「それならば相祈りになされい。
▲ア「心得ました。《出家は珠数に手を掛け念じて居る。山伏は「祢宜山伏」の如くして》
▲シ「いかに悪心深き犬なりとも、いろはの文にて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおんぼろおん。いろはにほへと。ぼろおんぼろおん。ちりぬるをわか。ぼろおんぼろおん。
▲ア「とらやとらや。《犬、出家の方へ懐く。山伏、犬の傍へ寄り祈る。犬、しきりに吠え、噛み付く様にする。山伏、逃げながら祈る。「祢宜山伏」同断。一の松にて祈る。犬、舞台の内より吠ゆる。山伏逃げ、犬もアト二人とゝもに{*3}追ひ入る》
▲ア「とかく私の勝ちでござる。
▲茶「こなたのお勝ちでござる。この傘を持たせませう。
▲ア「これはいかな事。それへ行く山伏を誰ぞ捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「居ららるゝ」。
2:底本は、「尤」。
3:底本は、「アト二人共に」。
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