人馬(ひとうま) 大蔵流本

《初め名乗りより、太郎冠者呼び出し、「新参の者を抱へて来い」と云ふ。太郎冠者{*1}、上下の街道へ出で、待ち合はする。新参の者、「文相撲」などの如く名乗り、道行する。太郎冠者、言葉を掛け、抱へて同道して戻る事、「文相撲」同断。但し、国を問ふばかりにて、芸能の事は問はぬなり。戻り着いて、過を云ひ目を使ふまでは、諸事「文相撲」の通りなり》
▲シテ「出かし居つたなあ。
▲冠者「でかしましてござる。
▲シ「扨、きやつが国はいづ方ぢやと云ふ。
▲冠「遥か遠国ぢやと申しまする。
▲シ「遠国と聞けば国がゆかしい。扨、何ぞ芸があるか問うて来い。
▲冠「畏つてござる。いや。なうなう。
▲東国者「何事でござる。
▲冠「殊ない御機嫌ぢや。扨、何ぞ芸があるかと仰せらるゝ。
▲東「いや。何も申し立てに致す芸はござりませぬ。
▲冠「何もない。
▲東「中々。
▲冠「それならば、その通りを申し上げう。承つてござるが、何も芸はござらぬと申しまする。
▲シ「何ぢや。芸はない。
▲冠「中々。
▲シ「芸のない者が役に立つものか。早う往ないてやれ。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「えい。
▲冠「はあ。いや。なうなう。
▲東「何事でござる。
▲冠「頼うだ人の仰せらるゝは、芸のない者は御用にないと仰せらるゝ程に、気の毒ながら戻つてくれさしめ。
▲東「扨々、それは残念な事でござる。私も長う御奉公を致さうと存じてござるが。是非に及びませぬ。それならばかう戻りませう。
▲冠「それならば戻らしめ。
▲東「さらばさらば。《と云うて、少し行て立ち戻り》
いや。申し申し。
▲冠「何事ぢや。
▲東「只今思ひ出いてござる。私は人を馬になす事を覚えて居りまするが、これも芸の内でござらうかと仰せられて下されい。
▲冠「扨々これは珍しい芸ぢや。その通り申し上げう。それに待たしめ。
▲東「心得ました。
▲冠「はあ。きやつが申しまするは、人を馬になす事を覚えて居りまするが、これも芸の内でござらうかと申しまする。
▲シ「何ぢや。人を馬にする事を覚えて居る。
▲冠「中々。
▲シ「それは一段と珍しい芸ぢや。急いで人を馬にないて見せいと云へ。
▲冠「畏つてござる。いや。なうなう。その通り申し上げたれば、急いで人を馬にないて見せいと仰せらるゝ。
▲東「それならば、馬になる人を出させられいと仰せられて下されい。
▲冠「心得た。きやつが申しまするは、馬になる人を出させられいと申しまする。
▲シ「人を出せと云ふか。
▲冠「中々。
▲シ「誰彼と云うて、他に人もないによつて、汝、馬になれ。
▲冠「いや。申し。私も幼少より召し使はれ、只今まで苦労致いて、やうやくこの度新参の者を抱へさせられたならば、休息をも致さうと存ずる処に、取り立てゝは下されいで馬になれとは、余りお情けない事でござる。
▲シ「汝が云ふ処は近頃尤なれども、某もふと云ひ掛かつて、今更人がないと云うては、きやつが思ふ処も恥づかしい。他に人もない処で、そちが馬にならねば身共が馬にならうより他はない処で、迷惑にはあらうずれども、随分いたはつて使ふ程に、何とぞ馬になつてくれい。
▲冠「いかに主命なればとて、畜生になれとは。迷惑にはござれども、それ程にまで仰せらるゝ事でござるによつて、主のために命をも捨つる習ひなれば、是非に及びませぬ。馬になりませう。
▲シ「それは近頃満足した。それならば、早うきやつを呼び出いて、馬になして見せいと云へ。
▲冠「畏つてござる。いや。なうなう。扨々、和御料はむざとした人ぢや。芸こそあらうずれ、人を馬になす芸を覚えて居るといふ事があるものか。由ない事を仰しやつたによつて、身共が馬にならねばならぬ。
▲東「何ぢや。こなたの、馬にならせらるゝ。
▲冠「中々。
▲東「やれやれ。それは気の毒な事でござる。私も、折角参つて戻るが迷惑さに、むざとした事を申し上げて、近頃気の毒にござる。
▲冠「是非に及ばぬ。あれへ出て、馬にないてお目に掛けさしめ。
▲東「心得ました。
▲冠「つゝと御出やれ。
▲東「畏つてござる。はあ。新参の者。出ましてござる。
▲シ「やいやい。
▲東「はあ。
▲シ「そちは珍しい芸を覚えて居るなあ。
▲東「はあ。
▲シ「早う太郎冠者を馬にないて見せい。
▲東「畏つてござる。
▲冠「いや。申し。只今ちと申し置く事がござる。今少し待たせられて下されい。
▲シ「心得た。
▲冠「いや。なうなう。身共が馬になつたならば、定めて口取りは和御料であらう。
▲東「左様でござらう。
▲冠「某は第一綺麗好きぢやによつて、朝夕掃除をもよくして、裾などをも度々してくれさしめ。
▲東「心得ました。
▲冠「扨、身共はちかゞつゑぢや程に、飼ひをも度々付けておくれやらうぞ。その上、御酒を一つ呑む程に、夏ならば冷やし済まし、冬ならば燗をし済まいて、馬に相応する程に呑ませてくれさしめ。
▲東「いかにも呑ませませう。
▲冠「扨又、某はかねがね不達者でおりやる程に、余り遠いへは乗らせられぬ様にしてくれさしめ。又、身共は蚊が嫌ひぢや程に、夏は蚊帳をも吊つてくれさしめ。
▲東「何が扨、心得ましてござる。
▲冠「まだ云ひたい事もあれども、頼うだ人がお待ち遠にあらう程に、後はそなた、よう心を付けていたはつておくれやれ。
▲東「その分は{*2}、お気遣ひなさるゝな。私が心を付けて、随分いたはつて進じませう。
▲冠「それならば、追つ付け馬にないてくれさしめ。
▲シ「さあさあ、早う馬にないて見せい。
▲東「畏つてござる。《太郎冠者を這はせて、新参者、挽き茶を出し》
いでいで馬になさんとて、まづやまもゝの皮を顔に摺り塗れば、顔より馬にぞなりたりける。《太郎冠者、「ひんひん」といばゆる》
▲シ「はゝあ。さればこそ馬になりかゝつた。総じて、地獄の馬は顔ばかりが人ぢやと云ふが、これはそれとは違うて、顔から馬になつた。
▲東「左様でござる。
▲シ「尚々、馬にないて見せい。
▲東「畏つてござる。追つ付け馬になしまする程に、こなたはぬからず乗り留めさせられい。
▲シ「ぬかる事ではない。早う馬にせい。
▲東「畏つてござる。尚々馬になさんとて、陳皮乾薑色々の、加薬を取り替へ取り替へ摺り塗りたれど、中々馬にはならざりけり。《と云うて、太郎冠者を真ん中へ突き出し、新参の者{*3}は逃げ込むなり》
▲シ「どうどうどう。《と云うて、シテ、太郎冠者に乗る》
▲冠「いや。申し。これは私でござる。
▲シ「まだ馬にならぬか。
▲冠「中々。
▲シ「すれば、すつぱであらう。早う捕らへい。
▲冠「心得ました。
▲二人「どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「太郎」。
 2:底本は、「その分な」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)は、「その分は(ナ)」。
 3:底本は、「新参」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の四 七 人馬」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁