千鳥(ちどり) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今晩俄かに客がござるによつて、太郎冠者を呼び出し、いつもの酒屋へ酒を取りに遣はさうと存ずる。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今晩俄かに客がある程に、いつもの酒屋へ行て、酒を一樽取つて来い。
▲シテ「畏つてはござりまするが、内々の通ひの表が済みませぬによつて、参つたりと、おこしは致しますまい。
▲主「その通ひの表も、近々には算用せうず。又、汝は酒屋の亭主と合ひ口ぢやと云ふによつて、面白可笑しう云うて、一樽取つて来い。
▲シ「仰せらるゝ通り、亭主と合ひ口ではござれども、いつ取つて参つても、太郎冠者一つ呑めとも仰せられぬ。これは御免なされて下されい。
▲主「皆まで云ふな。今度取つて来たらば、汝に口切りをさせうぞ。
▲シ「やあやあ。何と仰せらるゝ。今度取つて参つたならば、私に口切りをさせうと仰せらるゝか。
▲主「中々。
▲シ「それならば畏つてござる。
▲主「内も忙しい。やがて戻れ。
▲シ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シ「はあ。《主引つ込む》
扨も扨も、こちの頼うだ人の様な、むざとしたお方はない。内々の通ひの表も済まさいで、又しても酒を取つて来いと仰せらるゝ。さりながら、参らずばなるまい。まづ急いで参らう。かう参つても、酒をおこせば良うござるが。もしおこさぬ時は、参つた詮もない事ぢや。さりながら、面白可笑しう申したならば、おこさぬ事はござるまい。いや。参る程にこれぢや。《常の如く案内を乞ふ》
▲亭「いゑ。和御料の参るを待つて居た。
▲シ「それはいかやうの事でござる。
▲亭「内々の通ひの表は何とするぞ。
▲シ「はあ。これも近々には算用致しまする。今二三日待たせられて下されい。
▲亭「そなたの二三日二三日もほうど聞き飽いた。きつと算用さしめ。
▲シ「何が扨、きつと算用致しませう。それに付き{*1}、只今参るも別なる事でもござらぬ。今晩俄かに客がござるによつて、いつもの良い酒を一樽おこいて下されい、と申し越しましてござる。
▲亭「これはいかな事。内々の通ひの表も済まさいで、ようもようもその様な事が云うておこさるゝ事ぢや。
▲シ「こなたの左様に仰せられうと存じ、当座の代はりは持つて参つた。
▲亭「何ぢや。当座の代はりを持つて来た。
▲シ「中々。
▲亭「いや。それならば、どこへやるも同じ事ぢや。今出いておまさう程に、まづそれにお待ちやれ{*2}。
▲シ「心得ました。
▲亭「なうなう。これはよそへやると云うて、念の入れて詰めて置いたれども、当座の代はりを持つて来たと仰しやるによつて、出いてやる。これを持つて行かしめ。
▲シ「これは忝うござる。すれば、きいて見るには及びませぬか。
▲亭「いやいや。きいて見るには及ばぬ事ぢや。
▲シ「それならば、かう持つて参らう。
▲亭「これこれ。代はりをおこさしめ。
▲シ「代はりとは。
▲亭「この樽の代はりをおこさしめ。
▲シ「はあ。代はりの。
▲亭「中々。
▲シ「只今進じませう。はて、合点の行かぬ。何とした知らぬ。申し。それに何ぞ落ちてはござらぬか。
▲亭「いやいや。この辺りに何も落ちてはない。
▲シ「おう。それそれ。頼うだ人より受け取る事は受け取つてござるが、余りの忙しさに、棚の端へちよつと上げて参つた。持つて行て、只今代はりを持つて参らう。
▲亭「いやいや。その代はりを持つて来て、その上でこの樽を持つて行たが良い。
▲シ「やあら。こなたは聞こえぬ事を仰せらるゝ。只今初めて取る酒ではなし、一度ばかり代はりなしにやらせられても、苦しうござるまいがの。
▲亭「いや。そちにこそ聞こえぬ事がある。
▲シ「何が聞こえませぬぞ。
▲亭「代はりのある時はよそで取つて、代はりのない時ばかり某が方へ取りに来る。その様な沙汰の限りな事があるものか。
▲シ「それには証拠ばしござるか。
▲亭「証拠のない事を云はうか。そちの家に酒のいらぬ日はあるまい。
▲シ「中々。いらぬ日はござらぬ。
▲亭「それに、この間取りに来ぬが証拠ぢや。
▲シ「この間取りに来ぬこそ道理なれ。頼うだ人の、尾張の津島祭を見物に行かれて、私もその供に参つたによつて。はて、留守に酒のいらう様がござらぬ。
▲亭「やあやあ。津島祭を見物に行た。
▲シ「中々。
▲亭「これは面白い祭ぢやと聞いたが、何とでおりやるぞ。
▲シ「こなたの話好きでござるによつて、話いて聞かせませうと存じて、よう覚えて参つた。
▲亭「これは面白からう。一つ話さしめ。
▲シ「それならば、一つ話しませうか。
▲亭「それが良からう。
▲シ「まづ、これから伊勢路へかゝつて参れば、浜辺で千鳥を伏する所がござるが、これが面白い事でござる。
▲亭「誠にこれは珍しい。面白い事であらう。
▲シ「とてもの事に、仕方を致し学うでお目に掛けませう。
▲亭「それは尚々でおりやる。
▲シ「さりながら、相手がいりまする。
▲亭「はあ。相手には誰が良からうぞ。
▲シ「こなた、ならせられい。
▲亭「身共でも済む事か。
▲シ「中々。こなたは、浜千鳥の友呼ぶ声は、と仰せられい。私の、ちりちりや、ちりちり、と申して、千鳥を伏する処を致しませう。
▲亭「これは一段と良からう。
▲シ「これには千鳥がいりまする。
▲亭「千鳥には何が良からうぞ。
▲シ「この樽が良うござらう。
▲亭「千鳥にはちと大きからう。
▲シ「大きうはござれども、こなたさへ千鳥ぢやと思し召せば済む事でござる。
▲亭「誠に、某さへ千鳥ぢやと思へば済む事ぢや。
▲シ「それならば、急いで囃させられい。
▲亭「心得た。浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シ「いや。申し。その様にして居らせられては、千鳥が立ちまする。扇子をかざいて、いかにも千鳥に忍ぶ体で囃させられい。
▲亭「それでは面白い処が知れまい。
▲シ「面白い時分には、こちから左右を致しませう程に、必ず見させらるゝな。
▲亭「それならば、必ず左右を待つぞや。
▲シ「又々囃させられい。
▲亭「浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シ「ちりちりや、ちりちり。ちりちりや、ちりちりと、ちり飛んだり。
▲亭「浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シ「ちりちりや、ちりちりちり。なぜにこちを見させられた。
▲亭「余り面白さうにあつたによつて、それ故見た。
▲シ「これはいかな事。面白い時分は左右を致しまする。それまでは必ずこちを見させらるゝな。千鳥が立ちまする。
▲亭「それならば、左右を待つぞや。
▲シ「急いで囃させられい。
▲亭「浜千鳥の友呼ぶ声は。
▲シ「ちりちりや、ちりちり。ちりちりと、ちり飛んだり。
▲亭「あゝ。これこれ。その樽をどれへ持つておりやる。
▲シ「これは千鳥を伏する処でござる。
▲亭「いやいや。この話は面白うない。他の話を承らう。
▲シ「それならば、この度は祭に山鉾を曳く体がござつたが、これが面白い事でござる。これを話しませうか。
▲亭「これは面白からう。
▲シ「又これにも相手がいりまする。
▲亭「身共でも済む事か。
▲シ「中々。済む事でござる。こなたは、ちやうさや、ようさ、と云うて囃させられい。私の、ゑいともゑいともゑいともな、と申して、山鉾を曳く体を話しませう。
▲亭「これは面白からう。
▲シ「又これには山がいりまする。
▲亭「何ぢや。山がいるか。
▲シ「中々。
▲亭「山には何が良からうぞ。
▲シ「何ぞ山になるものがあるか、問うて見させられい。
▲亭「心得た。やいやい。何ぞ山になる物はないか。ぢやあ。あゝ。これこれ。その樽をどれへ持つて行くぞ。
▲シ「これが山にならうかと存じての事でござる。
▲亭「それは山にはちと小さからう。
▲シ「小さうはござれども、こなたさへ山ぢやと思し召せば済む事でござる。幸ひこれに良い縄が付いてござる。これをかう致いて、山鉾を曳く体を話しませう。急いで囃させられい。
▲亭「心得た。ちやうさや、ようさようさ。
▲シ「ゑいともゑいとも、ゑいともなゑいともな。
▲亭「ちやうさや、ようさようさ。
▲シ「ゑいともゑいとも、ゑいともなゑいともな。
▲亭「ちやうさや、ようさようさ。
▲シ「ゑいやあ。ゑいやあゑいやあゑいやあ。
▲亭「これこれ。その樽をどちへ曳いて行くぞ。
▲シ「これは山を速むる処でござる。
▲亭「いやいや。この話も面白うない。
▲シ「扨々こなたは、話にやうがましい人でござる。
▲亭「やうがましいではなけれども、やゝともすればこの樽を取りたがるによつて、話が身に沁まいで面白うおりない。
▲シ「話したうはござれども、内も忙しうござる。行て代はりを取つて参らう。
▲亭「あゝ。これこれ。和御料は人に物を思はする様な。今一つばかり話いたと云うて、手間の取るゝ事ではない。今一つ話いて持たしめ{*3}。
▲シ「話したうはござれども、話いたりとも樽はやらせられず。行て代はり{*4}を取つて参りませう。
▲亭「あゝ。これこれ。今度話が出来たならば、代はりなしにあの樽をやるまいものでもおりない。
▲シ「何と仰せらるゝ。話が出来たならば。代はりなしにあの樽をやるまいものでもないと仰せらるゝか。
▲亭「中々。その通りぢや。
▲シ「いゑ。それならば今一つ話しませう。
▲亭「それが良からう。
▲シ「とかくこなたは、樽のいる事は嫌ひでござるの。
▲亭「中々。樽のいらぬ話が良うおりやる。
▲シ「それならば流鏑馬の体を話しませう。
▲亭「これは面白からう。
▲シ「又相手がいりまする。こなた、ならせられい。
▲亭「某でも済む事か。
▲シ「中々。こなたは扇子を広げて、馬場のけ馬場のけと云うて、馬場先の人を払はせられい。私の、お馬が参るお馬が参る、と申して、色々の曲乗りを致しませう。
▲亭「これは一段と面白からう。
▲シ「幸ひこれに良い竹杖がござる。これをかう竹馬に致しまする程に、急いで馬場先の人を払はせられい。
▲亭「心得た。馬場のけ馬場のけ。
▲シ「お馬が参る。
▲亭「馬場のけ馬場のけ。
▲シ「お馬が参るお馬が参る。
▲亭「やいやいやい。
▲シ「やあやあ。
▲亭「それをどちへ持つて行く。
▲シ「これかこれか
▲亭「中々。
▲シ「頼うだ人へ、お馬が参るお馬が参る。
▲亭「あの横着者。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、「夫には」。
 2:底本は、「お待たれ」。
 3:底本は、「待たしめ」。
 4:底本は、「伐り」。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 一 津島祭」(国立国会図書館D.C.

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