蛸(たこ) 大蔵流本

▲ワキ「《次第》茶替りもなき往来の、茶替りもなき往来の、行く末何となるらん。《詞》
これは筑紫方より出でたる僧にて候ふ。我未だ都を見ず候ふ程に、この度思ひ立ち、都一見と志し候ふ。《道行》
筑紫人、空言云ふとや思ふらん。《打ち切り》空言云ふとや思ふらん。我は誠の修行にて、清水の浦に着きにけり。《詞》
急ぎ候ふ程に、清水の浦に着いて候ふ。心静かに浦の景色を眺めばやと存じ候ふ。
▲シテ「なうなう。あれなる御僧に申すべき事の候ふ。
▲ワ「こなたの事にて候ふか。何事にて候ふぞ。
▲シ「これは、去年の春身罷りたる蛸の幽霊なり。構ひてよくよく御弔ひあれと。
▲地{*1}「かき消す様に失せにけり、かき消す様に失せにけり。
▲ワ「扨も扨も不思議なる事かな。いかさま、謂はれのなき事は候ふまじ。所の人に尋ねばやと存ずる。所の人の渡り候ふか。
▲間「所の者と御尋ねは、いかやうなる御用にて候ふぞ。
▲ワ「これは、この所初めて一見の者にて候ふが、この浦において去年の春、大きなる蛸の上がりたる事はなく候ふか。
▲間「さん候ふ。去年の春、大きなる蛸の上がりて候ふを、所の者ども打ち殺し、賞翫仕つて候へば、悉く祟りをなし申して候ふ間、則ち土中に突つ込み、後を懇ろに弔ひ申し候ふ。御僧も、逆縁ながら弔うて御通りあれかしと存じ候ふ。
▲ワ「懇ろに御教へ、祝着申して候ふ。さあらば、逆縁ながら弔うて通らうずるにて候ふ。
▲間「御用の事候はゞ、重ねて仰せ候へ。
▲ワ「頼み申し候ふ。
▲間「心得て候ふ。
▲ワ「扨も幽霊蛸の尉か。仏事は様々多けれども、心経を以て弔ひけり。
阿耨蛸三百三銭にて買うて、仏にこそは手向けゝれ、仏にこそは手向けゝれ。なま蛸なま蛸なつま蛸。
▲シ「《一セイ》あら拙なの蛸の生涯やな。あらありがたや候ふ。
▲ワ「不思議やな。人家も見ゆる昼中に、人かと思へば人間にてもなし。いかなる者ぞ、名を名乗れ。
▲シ「これは最前、御僧に言葉を交はしつる蛸の幽霊なるが、御弔ひのありがたさにこれまで顕はれ出でゝ候ふ。
▲ワ「扨は蛸の尉が幽霊なるかや。最期のありさま語り候へ。後を訪うて得さすべし。
▲シ「さあらば、最期のありさま語り候ふべし。後を訪うて給はり候へ。扨も、我この浦に年久しく住んで{*2}、漁師の網をあなたこなたと逃れしに、去年の春は大網を、沖の方より置き廻し、逃れもやらず引き上げられて、渋皮も剥けよ剥けよと洗はれて、削り立つたる俎板の上に、引き据ゑられて後ろより。《打ち切り》
▲地{*3}「引き据ゑられて後ろより、庖丁をおろし当てらるれば、眼もくらみ息詰まつて、うつ伏せに押し伏せられて、つばを吐いてぞ伏したりける、つばを吐いてぞ伏したりける。
▲シ{*4}「しかうして起き上がれば。
▲地{*5}「しかうして起き上がれば、或ひは四方へ張り蛸の照る日に晒され、足手を削られ塩にさゝれて、暇もなき苦しみなるを、妙なる御法の庭に出でゝ、仏果に至るありがたさよ。只一声ぞ南無阿弥陀仏、只一声ぞなま蛸とて、かき消す様にぞ失せにける。

校訂者注
 1・3・5:底本、ここに「▲地「」はない。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い補った。
 2:底本は、「往んで」。
 4:底本は、ここに「▲シ「」はない。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い補った。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 二 蛸」(国立国会図書館D.C.

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