鐘の音(かねのね) 大蔵流本
▲主「これは、この辺りに住居致す者でござる。某、伜を一人持つてござるが、段々成人致いてござるによつて、近々差し初め{*1}を致させうと存ずる。とてもの事に、金の熨斗付けにして遣はさうと存ずるによつて、まづ太郎冠者を呼び出し、申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。伜も段々成人したによつて、近々差し初め{*2}をさせうと思ふが、何とあらうぞ。
▲シテ「御意なくば申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲主「それならば、とてもの事に黄金の熨斗付けにして差させうと思ふ程に、汝は大儀ながら、今から鎌倉へ行て、付け金のねを聞いて来い。
▲シ「畏つてござる。
▲主「やがて戻れ。
▲シ「心得ました。
▲主「えい。
▲シ「はあ。扨も扨も、めでたい事でござる。若子様の御差し初めを、いつかいつかと存じてござれば、近々には御差し初めをなされうとの御事でござる。それにつき鎌倉へ行て、撞き鐘のねを聞いて来いと仰せ付けられたが、めでたい御差し初めに、撞き鐘の音が何の御用に立つ事ぢや知らぬ。さりながら、仰せ付けられた事ぢやによつて、参らずばなるまい。まづ急いで参らう。誠に某も、久々鎌倉へ参らぬによつて、この度は良いついでぢや。こゝかしこをゆるりと見物致さうと存ずる。いや。何かと申す内に、これは早鎌倉へ参つた。扨も扨も、久しうて鎌倉へ参つたが、いつ参つても賑やかな事でござる。扨、これはどの寺から参らうぞ。それそれ。五台堂が入り口ぢや。五台堂から参らう。かう参つても、何とぞ五台堂の鐘の音が良ければ良うござるが。心元ない事ぢや。いや。参る程に、これが五台堂ぢや。はあ。鐘楼はどの辺りにあつたか知らぬ。さればこそこれにある。さらば撞いて見よう。えいえい。やつとな。くわん。えいえい。やつとな。くわん。これはいかな事。これはわれ鐘ぢや。めでたい御差し初めに、破れ鐘は御用に立つまい。これは余の寺へ参らう。扨、これからはどの寺へ行たものであらうぞ。それそれ。寿福寺が近い。寿福寺へ参らう。誠に、この度は若子様の御差し初めの事ぢやによつて、身共も随分と精を出いて、良い鐘の音を承らうと存ずる。いや。参る程に、これが寿福寺ぢや。久しう参らぬ内に、これはよう修復が出来た。はあ。この鐘楼はどこ元ぢや知らぬ。いや。これに、これは人に撞かせぬ鐘かして、撞木が結ひ付けてあるが。何として音を承らうぞ。いや。飛礫を打つて承らう。幸ひ良いころの石がある。さらばこれを飛礫に打たう。ゑい。やつとな。ちん。ゑい。やつとな。ちん。これはいかな事。これは又小さい音でござる。この様な小さい音も、御用には立つまい。扨、これからはどの寺へ参らうぞ。やあやあ。何と云ふ。これからは極楽寺が順道ぢや。それぞそれぞ。さうであつた。さらば極楽寺へ参らう。誠に、鎌倉は寺々もあまたござるによつて、方々を走り廻つたならば、良い鐘の音のないと申す事はござるまい。いや。参る程に、これが極楽寺ぢや。これは今までの寺々と違うて、殊の外の大寺でござる。扨、この寺の鐘楼は、どこ元にある事{*3}ぢや知らぬ。はゝあ。あの山の頂上にある。あれへどれから上る事ぢや知らぬ。誰ぞ問ひたいものぢや。はあ。あれへ人が出た。もし、あれは鐘を撞くのではないか知らぬ。や。段々鐘楼の方へ行く。や。はあ。まんまと鐘楼へ上つた。さればこそ橦木へ手を掛くる。扨も扨も、これは良い処へ参つた。さらばこれで承らう。こんこん。これはいかな事。扨々、響きのない堅い音ぢや。この様な響きのない堅い音も、御用には立つまい。扨、某が存じた寺々は大方参つた。これはまづ何としたものであらうぞ。おう。それそれ。まだ鎌倉一の建長寺へ参らぬ。さらば建長寺へ参らう。誠にこの建長寺は、鎌倉一の大寺でござるによつて、定めて鐘の音も良いでござらう。いや。参る程に建長寺ぢや。扨も扨も、総じて{*4}尊い寺は門から見ゆると申すが、この大門の掛かりなどは、誠に今までの寺々とは格別なものでござる。誠に世話にも、建長寺の庭{*5}を鳥箒で掃いた様なと申すが、隅から隅に塵が一つござらぬ。いや。何かと申す内に、これに鐘楼がある。扨も扨も、結構な鐘楼かな。鐘も殊の外見事な。これでは音も良いであらう。さらば撞いて見よう。じやあんもんもんもんもん。扨も扨も、音と申し、響きと云ひ、この様な鐘の音はござるまい。これこれ。今度の御差し初めは、建長寺に決めさせらるゝが良うござる。急いで罷り帰らう。頼うだお方も、定めて今か今かとお待ち兼ねなさるゝであらう。この建長寺の鐘の音の良い事を聞かせられたならば、殊ない御機嫌であらうと存ずる。いや。何かと申す内に戻り着いた。急いで戻つた通りを申し上げう。《常の如く、主も同断》
▲主「扨、云ひ付けた付け金の値を聞いて来たか。
▲シ「さればその事でござる。私も、今度は若子様の御差し初めの事でござるによつて、少しも良い鐘の音を承つて参らうと存じて、まづ五台堂へ参つてござれば、これは破れ鐘で御用に立ちませぬ。それより。
▲主「これはいかな事。太郎冠者は鎌倉へ参つて撞き鐘の音を聞いて参つたと見えた。何事を申す。承らう。
▲シ「寿福寺極楽寺へも参つてござるが、これは小さい音や響きのない堅い音で、御用に立ちませず、扨それより建長寺へ参つてござるが、音と申し響きと云ひ、建長寺に上越す良い鐘の音はござらぬによつて、この度の御差し初めは、建長寺に決めさせられたならば良うござらう。
▲主「やいやいやい。おのれは、すれば鎌倉へ行て、撞き鐘の音を聞いて来たか。
▲シ「中々。撞き鐘の音を聞いて参つた。
▲主「おのれは憎い奴の。差し初めに撞き鐘の音が、何の役に立つものぢや。黄金の熨斗付けにして差さするによつて、付け金の値を聞いて来いと云うたに、撞き鐘の音を聞いて来るといふ事があるものか。
▲シ「付け金ならば付け金と、初めから仰せられいで。只かねのねとばかり仰せられたによつての事でござる。
▲主「又そのつれな事を云ふ。あちへ失せう。
▲シ「あゝ。
▲主「あゝとは。おのれ憎い奴の。あちへ失せう失せう失せう。
▲シ「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲済人「申し申し。これはまづ、何とした事でござるぞ。
▲主「まづこなたも聞いて下されい。伜も段々成人致いてござるによつて、近日差し初めを致させまする。とてもの事に、熨斗付けに致いて遣はさうと存じ、鎌倉へ行て付け金の値を聞いて参れと申し付けてござれば、寺々を走り廻りて撞き鐘の音を承つて参つた。あの様な者は、散々打擲致いてやりませう。
▲シ「あゝ。取りさへて下されい。
▲済「まづ待たせられい。私がきつと叱りませう。
▲主「それならば、きつと叱つて下されい。
▲済「心得ました。やい。太郎冠者。
▲シ「面目もござらぬ。
▲済「面目もないと云うて、付け金の値を聞いて来いと云はれたを、撞き鐘の音を聞いて来るといふ事があるものか。
▲シ「さればその事でござる。付け金と申さるゝものを、何しに鎌倉中を走り廻つて寺々の鐘の音を承るものでござるぞ。只かねのねとばかり申されましたによつての事でござる。さりながら、こゝは主と下人の事でござるによつて、幾重にも私の不調法でござる。又、撞き鐘と申すものも、遠音のさいてめでたいものでござるによつて、若子の差し初めの四方へくわつと響き渡る様に、私が鎌倉へ参つて方々を走り廻つて鐘の音を承つた様子を、仕形で学うでお目に掛けませう程に、頼うだ人の機嫌を直さるゝ様に、仰せられて下されい。
▲済「その通り云はう。それに待て。申し申し。きつと叱つてござれば、私の不調法でござるによつて、堪忍をなされて下されい。こなたの機嫌を直させられたならば、きやつが鎌倉へ行て、寺々を走り廻つて鐘の音を承つた様子を、仕形で学うでお目に掛けうと申しまする。
▲主「それならば、これへ出て学うで見せいと仰せられい。
▲済「心得ました。なうなう。太郎冠者。機嫌を直さうと仰しやる程に、あれへ出て学うでお目に掛けい。
▲シ「畏つてござる。
まづ鎌倉に、つゝと入相の鐘これなり。東門に当たりては、五台堂の鐘これなり。諸行無常と響くなり。南門にあたりては、寿福寺の鐘これなり。是生滅法と響くなり。扨西門は極楽寺、これ又生滅々已の心。北門は建長寺、寂滅為楽と響き渡れば、いづれも鐘の音聞き済まし、急いで上る心もなく、さもあらけなき主殿に、素首を取つて撞き鐘の、そくびを取つて撞き鐘の、響きには猶ぞ直りける。
これも鐘の威徳でござる。
▲主「何でもない事。しさり居れ。
▲シ「はあ。
▲主「えい。
▲シ「はあ。
校訂者注
1・2:底本は、「初」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
3:底本は、「あるぢや」。
4:底本は、「物ぞ」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
5:底本は、「建長寺庭」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 三 鐘の音」(国立国会図書館D.C.)
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