腰いのり(こしいのり) 大蔵流本
▲山伏「《次第》大峯掛けて葛城や、大峯掛けて葛城や、我が本山に帰らん。
これは出羽の羽黒山より出でたる駈け出の山伏です。この度大峯葛城を仕舞ひ、只今本国へ罷り下る。さりながら某、都に祖父を一人持つてござるが、久しう見舞ひませぬによつて、よいついでゞござる程に、見舞うて羽黒へ戻らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に、行は万行あるとは申せども、取り分け山伏の行は、役の行者の跡を継ぎ、雨露を厭はず、明け暮れ山野を家として取り行ふ事なれば、難行苦行は申すも愚かな事でござる。その奇特には、空を翔くる翅をも目の前へ祈り落とすが山伏の行力です。いや。何かと申す内に都近うなつたやら、殊の外賑やかになつた。さればこそ、これは早都へ上り着いた。誠に、久々で上つたれば殊の外賑やかで、家作りなども結構な事でござる。扨、久しい事でござるによつて、祖父御のお宿をしかと覚えぬが、確かこの辺りぢやと思うた。まづ案内を乞うて見よう。《常の如く》
▲冠者「誰そ。どなたでござる。
▲山「これは卿の殿{*1}でおりやる。
▲冠「やあやあ。卿の殿でござるか。
▲山「中々。
▲冠「扨も扨も、久しう見ませぬ内に、いかめなお山伏にならせられてござるの。
▲山「扨、汝は太郎冠者か。
▲冠「左様でござる。
▲山「誠に久しうて逢うたによつて、身共も見忘れた。何と祖父御には変らせらるゝ事もおりないか。
▲冠「随分御息災にござるが、常にこなたのお噂ばかりを仰せられてござりまする。
▲山「さうであらう。扨、某が来た通りを申し上げてくれい。
▲冠「畏つてござる。まづこなた、座敷へ通らせられい。
▲山「心得た。《脇座へ着く》
▲冠「申し申し。祖父御様。卿の殿の御出なされてござる。
▲シテ{*2}「何ぢや。今日は良い天気ぢやと云ふか。
▲冠「いやいや。左様ではござらぬ。卿の殿の御出なされてござる。
▲シ「やあやあ。卿の殿がわせた。
▲冠「中々。
▲シ「やれやれ。懐かしや懐かしや。それはどれに居らるゝぞ。早う逢はせてくれい。
▲冠「表へ通らせられてござる程に、早うあれへ出させられい。
▲シ「心得た。やれやれ。祖父は年が寄つて腰が痛い。早う床机をくれい。
▲冠「畏つてござる。はあ。御床机でござる。
▲シ「やいやい。太郎冠者。
▲冠「はあ。
▲シ「卿の殿はどれに居るぞ。
▲冠「あれにござりまする。
▲山「申し申し。これに居りまする。
▲シ「むゝ。あれが卿の殿か。
▲冠「左様でござる。
▲シ「扨も扨も、久しう見ぬ内に、恐ろしい山伏におなりやつたなう。
▲山「はあ。扨、私も駈け出には師匠の供を致しまする。その上難行苦行に暇がござらいで、久々御無沙汰を致いてござるが、祖父御にも、御息災でめでたうござる。
▲シ「この祖父は、卿の殿には見捨てらるゝ。聞けばこの頃、御大名衆に人をあまた抱へさせらるゝと云ふによつて、この祖父は年は寄つたれども、弓の者になりとも鉄砲の者になりとも、出うと思ふですわ。
▲山「御腹立ちは御尤でござれども、只今も申しまする通り、行法に暇がなうて御無沙汰致いてござる。
▲シ「それはその様な事もあらう。さりながら、余り久しう来なんだ程に、腹が立つて、逢ふまいかと思うたれども、逢うたれば嬉しうて、腹が癒た。やい。太郎よ。
▲冠「はあ。
▲シ「あの卿の殿は、ゑのころが好きぢやによつて、来たならば取らせうと思うて、ゑのころを飼うて置いたが、久しう来ぬ内に大きうなつた。あれなりと欲しがらば取らせてくれい。
▲冠「畏つてござる。
▲山「やいやい。太郎。むざとした事を仰せらるゝ。
▲冠「左様でござる。
▲シ「や。や。太郎よ。
▲冠「はあ。
▲シ「卿の殿は飴が好きぢや。違ひ棚にあらう。早う取らせい。
▲冠「心得ました。
▲山「これはいかな事。皆某が幼少の時分の事を仰せらるゝ。
▲冠「左様でござる。
▲山「扨、祖父御には随分御息災さうなが、殊の外御腰がかゞませられた。定めて御窮屈にあらう。
▲冠「殊の外御窮屈にござりまする。
▲山「何と、某が行力で祈り直いて上げうが、何とあらうぞ。
▲冠「これは一段と良うござりませう。その通り申し上げて見ませう。
▲山「それならば伺うてくれい。
▲冠「心得ました。申し申し。祖父御様。卿の殿の仰せらるゝは、そのかゞませられた御腰を、卿の殿の行力で祈り直いて上げませうかと仰せられまする。
▲シ「何ぢや。この祖父が腰を祈り直いてくれう。
▲冠「中々。
▲シ「なう。物狂や物狂や。何と、この百年に余る祖父が腰が、いかに行力が強いと云うて、直るものぢや。少しも苦しうないと云へ。
▲冠「さりながら、折角仰せらるゝ事でござるによつて、祈り直いて貰はせられたらば良うござらう。
▲シ「それならば、ともかくも良い様にしてくれいと云へ。
▲冠「畏つてござる。申し申し。祈り直いてくれいと仰せられまする。
▲山「心得た。ひと祈りして祈り直いて上げう。《常の如く祈る。段々祈るに従つて、腰伸び、仰向く》
▲シ「やいやい。太郎太郎。
▲冠「はあ。
▲シ「扨も扨も奇特な事ぢや。この様に腰が伸びて、久しうて日天子を拝む事ぢや。
▲冠「申し申し。殊ないお悦びでござる。
▲山「それは近頃満足する。
▲シ「やいやい。太郎太郎。
▲冠「はあ。
▲シ「扨、これはいつまでこの様にして居る事ぢやと云うて、問うてくれい。
▲冠「畏つてござる。申し申し。いつまであの様にして御出なさるゝ事ぢやと仰せられまする。
▲山「御一生の間その通りぢやと云うてくれい。
▲冠「御一生の間その通りぢやと仰せられまする。
▲シ「何ぢや。一生この体ぢや。
▲冠「中々。
▲山「なう。物狂や物狂や。何と一生この様にして居らるゝものぢや。早う元の様にして返せと云へ。
▲冠「申し申し。元の様にして返せと仰せられまする。
▲山「これはいかな事。それならば、又祈り直いて上げう。今度は後ろから祈らう。
いかに悪心深き祖父御の腰なりとも、明王の索にかけて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき。ぼろおんぼろおんぼろおん。《「橋の下の菖蒲」を云ふ。今度は前へ祈り倒す》
▲シ「あゝ。痛々々。やい。太郎。あの卿の殿は、この年寄つた祖父をなぶりに来たか。早う元の様にして返せと云へ。腹立ちや腹立ちや。
▲冠「申し申し。殊の外の御立腹でござる。何とぞ元の様に祈り直いて上げさせられい。
▲山「某が行力が余り強いによつてぢや。又、今度は前から祈り起こさう程に、汝は良い時分に後ろから突つ張りをかへ。
▲冠「畏つてござる。
▲山「いかにあちらこちらくなりくなりとする祖父御の腰なりとも、いろはの文にて今ひと祈り祈るならば、などか奇特のなかるべき{*3}。ぼろおんぼろおん。いろはにほへと。ぼろおんぼろおん。ちりぬるをわか。ぼろおんぼろおん。突つ張りをかへ。ぼろおんぼろおんぼろおん。《「突つ張りをかへ」と云ふ時分、太郎、後ろから橦木杖を腰へ当てる。シヤギリになり留める》
校訂者注
1:底本は「郷の殿」。底本は全て「郷の殿」であるのを、この校訂版では「卿の殿」とした。
2:底本は、「▲オホヂ「」。
3:底本は、「奇特なかるべき」。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 四 腰いのり」(国立国会図書館D.C.)
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