八尾(やを) 大蔵流本

▲アト「地獄へ落つる罪人を、地獄へ落つる罪人を、誰かは寄つて堰かうよ。
これは河内の国、八尾の里の者でござる。我、思はずも無常の風に誘はれ、只今冥途へ赴きまする。まづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に只今など、身罷らうとは存ぜなんだ。これと存じたならば後生をも願はうものを、近頃残念な事を致いた。さりながら、八尾のお地蔵より閻魔王への御文を持つて参るによつて、定めて極楽へ参るでござらう。いや。来る程に、道あまたある所へ参つた。定めて娑婆で承り及うだ六道の辻であらう。これはどの道を行たものであらうぞ。まづ暫くこゝに休らひ、見はからうて参らうと存ずる。《座り着く。シテ出づ》
▲シテ「《次第》地獄の主閻魔王。地獄の主閻魔王。邏斎にいざや出ようよ。
これは地獄の主、閻魔大王です。当代は人間が利根になり、八宗九宗に宗体を分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくによつて、地獄の飢ゑ死に以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身六道の辻に出で、良からう罪人も通らば地獄へ責め落とさばやと存ずる。《打ち切り。や{*1}》
住み馴れし地獄の里を立ち出でゝ、地獄の里を立ち出でゝ、足に任せて行く程に、六道の辻に着きにけり。
急ぐ間、六道の辻に着いた。いや。罪人が来たと見えて人臭うなつた。どこ元ぢや知らぬ。
▲ア「いや。この道が良さゝうな。さらばこの道を参らう。《互に行き会ひ、シテ、杖突き睨む。罪人はかゞみて震へて居る》
▲シ「いや。これへ良い罪人が参つた。急いで地獄へ責め落とさう。いかに罪人、急げとこそ。《一段責めて、杖にて突く時、罪人、文を差し付くる。シテ嫌がり、後へすさる。罪人も元の所へ行く。シテ、又杖にて突く。罪人、又文を差し出す{*2}。シテ、後へ下がりて》
やいやい。某が鼻の先へにろりにろりと差し出すは{*3}、何ぢや。
▲ア「これは八尾のお地蔵より閻王への御文でござる。
▲シ「何ぢや。八尾の地蔵よりの文ぢや。
▲ア「左様でござる。
▲シ「おう。その古へは、八尾の地蔵の文をも用ゐたれども、当代人間の利根になり、八宗九宗に宗体を分け、極楽へぞろりぞろりとぞろめくにより、地獄の飢ゑ死に以ての外な。さるによつて、今日は閻魔王自身六道の辻に出で、良からう罪人も通らば地獄へ責め落とさうと思ふ処へおのれが来たつた。今ひと責め責めて、地獄へ責め落とすぞ。
▲ア「これは迷惑にござる。
▲シ「何の迷惑。それ地獄遠きにあらず、極楽遥かなり。いかに罪人、急げとこそ。《又一段責めて追ひ廻る。アト、初めの如く文を出す》
やいやい。余りせはしう差し出す程に、見て取らせう。床机を持て。
▲ア「畏つてござる。はあ。御床机でござる。
▲シ「これへ出い。
▲ア「心得ました。はあ。御文でござる。
▲シ「これへおこせ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「閻もじ参る。はゝあ。昔を思ひ出いて書かれた。汝は、八尾の地蔵よりこの閻魔王へ文をおこさるゝ仔細を知つて居るか。
▲ア「いゝや。何とも存じませぬ。
▲シ「あの八尾の地蔵は、古へは美僧であつたによつて、この閻魔王もちと知音をしたいやい。
▲ア「さう見えまして、今において美しうござりまする。
▲シ「さらば読うで参らせう。
そもそも南瞻部洲河内の国、八尾の地蔵のためには旦那、その名を又五郎と申せし者のためには、この罪人は小舅なり。
されば汝は、又五郎がためには小舅か。
▲ア「左様でござる。
▲シ「へ。又五郎が女房も、知れた悪女であらう。
▲ア「それはなぜでござる。
▲シ「はて、おのれが面に似たならば、見目が悪からう。
▲ア「私には似ませいで、殊の外美人でござる。
▲シ「その様な事もあらう。これからともどもに読まう。これへ寄れ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「小舅なり。
▲二人「我を信じて月詣。仏供を供へ歩みを運べば、我がため一の旦那なり。しかるべくは閻魔王、この罪人を九品の浄土へ送りて給べ。それをそむかば地獄の釜も蹴割るべき。あら高家張つたる罪人かな、高家張つたる罪人かな。《打ち切り。やあ》
▲シ「この上は力なし。《打ち切り。やあ》この上は力なしとて、罪人の手を取つて、閻魔王の案内者にて、九品の浄土へ送り届け、それより地獄に帰りしが、又立ち帰りさるにても、あら名残惜しの罪人や、あら名残惜しの罪人やとて、鬼は地獄に帰りけり。

校訂者注
 1:底本は、「打切也。」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
 2:底本は、「持出す」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
 3:底本は、「差し出す。」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。

底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 六 八尾地蔵」(国立国会図書館D.C.

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