布施無経(ふせないきやう) 大蔵流本
▲シテ「これはこの辺りに小庵を結んで居る貧僧でござる。こゝに誰殿と申して、毎月今日は定斎に参るお方がござるが、さりがたいお方より今朝御斎を下されうとあつて、再三の御使ひでござるによつて、その方へ参り、斎をも食べ、充満致いてはござれども、定斎の方では定めて待つて居られませう程に、参つて勤めばかりなりとも致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠に貧僧の重斎とは、よう申したものでござる。定斎の方でも、定まつて十疋の布施を下さるゝによつて、断りも申しにくうござる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲アト「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲シ「愚僧でござる。
▲ア「いえ。御寺様。こなたを今朝から待つて居ましたが、何として遅う御出なされたぞ。
▲シ「さればその事でござる。今朝さりがたいお方より御斎を下されうとあつて、再三の御使ひでござつたによつてその方へ参り、斎をも食べ、充満致いてはござれども、この方は定斎の事でござるによつて、勤めばかりなりとも致さうと存じて参りましてござる。
▲ア「やれやれ。それはようこそ御出なされてござる。もはや斎は仕舞ひましてござる程に、かうお通りなされて、お勤めばかりなされて下されい。
▲シ「心得ました。扨、かやうの時分に人を持ちませぬによつて、御断りをも申さいで気の毒にござる。
▲ア「いや。少しも苦しうござらぬ。左様の時分には、随分と御出なさるゝが良うござる。
▲シ「はあ。これはまだ持仏を仕舞はずに置かせられてござるの。
▲ア「こなたの御出なされうと存じて、まだ仕舞はずに置きましてござる。
▲シ「扨も扨も、こなたは綺麗好きぢや。いつ参つても、持仏堂の隅から隅に塵が一つござらぬ。寺恥づかしい事でござる。
▲ア「いやいや。在家と申すものは、つゝとむさいものでござる。
▲シ「さらば勤めを始めませう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「にやもにやもにやも。《経を読みかけて》
いや。御家内皆々、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲ア「中々。変る事もござりませぬ。
▲シ「《経を読む》誠に、いつぞやは見事な菊の花を下されて、忝うござる。
▲ア「庭前の菊で、不出来にはござれども、進じましてござる。
▲シ「扨々、あれは見事な菊でござる。幸ひ客がござつて、馳走に活けましてござる。
▲ア「それは満足致しまする。
▲シ「《経を読む》いや。申し。あの菊が御庭前のでござらば、春になつてちと苗を下されい。愚僧が眠蔵の庭へ伏せませう。
▲ア「易い事。進じませう。
▲シ「《経を読みて》南無きやらたんのとらやとらや。はあ。勤めを仕舞ひましてござる。
▲ア「これは忝うござる。
▲シ「もはやお暇申しませう。
▲ア「お茶でも上がりませぬか。
▲シ「いやいや。茶も望みにござらぬ。これから寺へ戻つて伏せりませう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「ようござりました。
▲シ「あゝ。これはいかな事。いつも定まつて十疋の布施を下さるゝが、今日は何としてくれられぬ事ぢや知らぬ。いやいや。一度ばかり申し受けぬと云うて、苦しうない事でござる。急いで戻らう。いやいや。今日申し受けぬ分は苦しうないが、人といふものは我勝手に、良い事は例にしたがるものでござる。これが例になつては迷惑な。何としたものであらうぞ。いや。思ひ出いた。致し様がござる。申し。ござるか。ござりまするか。
▲ア「誰ぢや。
▲シ「愚僧でござる。
▲ア「こなたはまだ戻らせられぬ。
▲シ「さればその事でござる。戻らうと存じてござるが、こなたはかねて、教化が聞きたいと仰せられてござる。今日は愚僧も暇でござるによつて、こなたさへお暇でござらば教化致さうと存じて、立ち戻つてござる。
▲ア「やれやれ。それは忝うござる。幸ひ私も暇でござる程に、何とぞ教化なされて下されい。
▲シ「それならば通りませうか。
▲ア「つゝと通らせられい。
▲シ「心得ました。とてもの事に、許させられい。ろくに居ませう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「扨、教化と申して別なる事でもござらぬ。とかく後生を願へといふ事でござる。こなた程、果報なお方はござるまい。まづお子達はあまたある。家屋は広う住まはせらるゝ{*1}。財宝は思し召す儘にある。もはやこの世の願ひはないといふものでござる。これからは後生が大事でござる程に、随分後生を願はせらるゝが良うござる。
▲ア「何が扨、畏つてござる。私もまづ、かれこれ致いて渡世を送ると申すばかりでござる。
▲シ「いやいや。さうでござらぬ。人間の身の上の願ひと申すものは、限りのないものでござる。名利名聞に溺れ、欲に欲を重ね、後世をも願はず、只うかうかと暮らすと申すは、浅ましい事でござる。生者必滅と申して、生まるゝ者は必ず滅するといふ事を、皆、人ごとに常に口には云へども、正しく我が身の上にある事を知らぬが、人間の情でござる。又、人間の命のはかないと申す事は、風の前の灯火、水の上の沫、電光、朝露{*2}、石の火よりもまだはかないは、人間の命でござる。朝開暮落などゝ申して、朝顔の花にも譬へ置かれてござる。まづ、朝顔の花と申すものは、早朝に開き、日の出づるに随つて凋み、夕べには{*3}ほろりと落ちまする。人間もまづその如く、つゝとはかないものでござるによつて、これからは随分、後生を願はせられい。
▲ア「心得ましてござる。
▲シ「こゝに殊勝な文がござる。これを申して聞かせませう。
▲ア「承りませう。
▲シ「身命財を擲つて伝法せんと欲せば、供仏施僧捨身を専らとせよ。雲となり雨となり不晴不晴の時。今朝もの言はず別離の家、と申しては、御合点が参りますまい。これをちとやはらげて聞かせませう。
▲ア「それは忝うござる。
▲シ「身命財を擲つてとは、しんはみ、みやうはいのち、ざいはたからと書いた字でござる。仏のためには身をも命をも財をもなげうつて後生を願へ、と申す事でござる。伝法せんと欲せばとは、この法を伝ふるを由とす。供仏施僧と申すは、或いは堂塔伽藍を建立し、仏に香花を手向け、又は我ら如きの貧僧に物を施す事を申す。施すでござるぞや。捨身を専らとせよとは、捨身は身を捨つると書いた字でござる。身を捨つると云うて、淵川へ身を捨つるではござらぬ。只世を厭ひ、厭はず{*4}後世を願へといふ事でござる。雲となり雨となりとは、定まり定まらぬ事。不晴不晴の時、この不晴不晴の時と申すが、中にも肝文でござる。篤と聞かせられい。
▲ア「心得ました。
▲シ「不晴不晴の時と申すは、晴れやらず晴れやらざる時と書いた字でござる。晴れやらぬは悪うござる。晴れやつたが良うござる。総じて人といふものは、定めてよそから取る事がある。又、定めて遣る事があるものでござる。遣るべきものならば、何の二念もなうその儘遣つたが良うござる。又さきの者も、今日はくるゝ筈ぢやが何としてくれぬぞ、と思ふ処が夥しい罪業でござる。それぢやによつて、遣るべきものならば、早う遣らせらるゝが良うござる。この不晴不晴の時が、御合点が参りましたか。
▲ア「中々。合点致いてござる。
▲シ「いや。こなたは合点した合点したとは仰せらるゝが、すきと御合点の参らぬ様子でござるぞや。
▲ア「いや。すきと合点致しましてござる。
▲シ「これさへ御合点が参れば、別に申す事もござらぬ。下手の長談義高座の妨げ、と申す事がござる。まづ今日はこれまでに致しませう。
▲ア「これは近頃忝うござる。
▲シ「又重ねて参つて、ゆるりと教化致いて聞かせませう。
▲ア「それならば、又重ねて御教化なされて下されい。
▲シ「もはやお暇申しませう。
▲ア「早御出なされまするか。
▲シ「ちと寺へもござれ。渋茶を貰うて置きました。あれなりと進じませう。
▲ア「それは何よりでござる。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うござりました。
▲シ「あゝ。これはいかな事。扨々、世には愚鈍な者があるものでござる。手を取つて引き廻し、箸を持つてくゝむる様に云うて聞かせても、合点した合点した、とばかり云うて居るが、あれは何を合点した事ぢや知らぬ。あゝ。愚僧は迷うた。肯がひぬればこんり致す。うけがはざれば長く生死に落つると。一銭一毛なきをこそ禅の眼とはしたれ。譬へば、その十疋の布施物を真ん中よりふつゝりと捩ぢ切つて、大海へさらりさらりと投げ捨てゝ、あるもなう無きもなうして、行くに行かれぬ事はあるまい。恐らくは往んで見せう。あゝ。後から引き戻さるゝ様で、中々行かれぬ。おう。それそれ。十疋の布施物を申し受くれば、半分にては塩味噌薪を整へ、半分にては座禅衾を繕ひ、それを引きかついで、来し方行く末の事を悟らうならば、何かござらう。その上、この十疋の布施物を申し受けねば、今日の亡者を奈落へ沈め、愚僧も目の前で損を致す事でござる。この上は、方便を以て取らう。総じて、布施無経には袈裟を落とす、と申す事がある。さらば愚僧も、袈裟を落といたと申して、布施物を取らうと存ずる。扨々、合点の行かぬ事ぢや。今まで掛けて居たと思うたが、どれへ落とした知らぬ。
▲ア「いや。お寺様の声がするが。まだ戻られぬと見えた。いや。申し。こなたはまだ戻らせられませぬか。
▲シ「さればその事でござる。途中へ出まして見ますれば、私の袈裟がござらぬが、何とその辺りに落ちてはござりませぬか。
▲ア「いやいや。この辺りに御袈裟は見えませぬ。
▲シ「こなたには子供衆が多うござるによつて、いたづらに隠させられた事もござらう。もし出ましたならば、届けて下されい。愚僧が袈裟には、紋印がござる。
▲ア「それはいかやうな印でござるぞ。
▲シ「それにつき、あの鼠と申すものは、いたづらなものでござる。この間、さる方へ斎に参つて、戻りまして、袈裟を棹に掛けて置きましたれば、いかさま、ものに譬へて申さば、十疋の布施物の、あちらこちらへするりするりと通る程に喰ひ抜いてござる。愚僧が事でござるによつて、それをも構はずに、その儘掛けて歩きましたれば、さる旦那衆の御内儀の見られまして、見苦しいと云うて、それをふゝ伏せ縫ひと申すものにしてくれられました。その伏せ縫ひが、愚僧が輪袈裟の印でござる。後で出ましたならば、お届けなされて下されい。
▲ア「何が扨、持たせて上げませう。
▲シ「扨、愚僧はもう、かう参りませう。
▲ア「いや。申し。ちと待たせられい。
▲シ「いや。何も御用はござるまいがの。
▲ア「いやいや。用の事がござる。ちと待たせられい。
▲シ「心得ました。やうやう思ひ出いたさうな。
▲ア「これはいかな事。再々小戻りを致さるゝが、何とも合点の行かぬ事ぢやと存じたれば、いつも十疋の布施物を進上致すを、はつたと失念致いた。それ故、小戻りを召さるゝと見えた。急いで進上致さうと存ずる。申し申し。近頃面目もない事がござる。
▲シ「それは又いかやうの事でござるぞ。
▲ア「いつも布施物を進上致すを、はつたと失念致いてござる。何とぞ持つて戻つて下されい。
▲シ「御用と仰せらるゝは、その事でござるか。
▲ア「中々。左様でござる。
▲シ「私は又、他に何ぞ御用があるかと存じてござる。その事ならば、かう参りませう。
▲ア「申し申し。その様な事があるものでござるか。平に持つて戻つて下されい。
▲シ「近頃忝うござれども、今日はちと申し受けにくい事がござる。
▲ア「それは又いかやうな事でござるぞ。
▲シ「最前から教化致さうの、袈裟を落といたのと申して、度々小戻りを致いたも、畢竟この御布施が欲しさの儘ぢやと思し召す処が迷惑にござる。
▲ア「私が何しに左様に存ずるものでござる。毎月進上致し付けたものでござるを、今日に限つて進上致さいでは、心掛かりにござる。平に取らせられて下されい。
▲シ「それならば、来月一緒に申し受けませう。
▲ア「来月は来月、今日は是非とも持つて戻つて下されい。
▲シ「いやいや。どうあつても今日は申し受けますまい。
▲ア「それならば、御懐へ入れませう。
▲シ「どうあつても今日は申し受けますまい。
▲ア「申し申し。これへ御袈裟が出ましてござる。
▲シ「誠に、御布施が出ましたれば、袈裟までが出ましてござる。
▲ア「あのやくたいなし。とつとゝござれ。
▲シ「面目もござらぬ。
校訂者注
1:底本は、「往まはせらるゝ」。
2:底本は、「朝霧」。
3:底本は、「夕は」。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い、補った。
4:底本は、「厭ひといはず」。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い改めた。
底本:『狂言全集 下巻』「巻の五 七 布施ない」(国立国会図書館D.C.)
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