例言

一 本書は、汎く能狂言の典拠として、また今の演戯の台本として定本ともいはれうる大蔵弥右衛門虎寛本を底本とした。
一 この底本は、狂言の大蔵・鷺・和泉の三流のうち、その主流ともいふべき大蔵流から撰んだ。そして大蔵流の諸伝本のうち、最も永い間行はれ現在の台本の親本ともいふべき、確実な詞章を伝へてゐると考へられる大蔵弥右衛門虎寛の自筆本を採つた。この本の定本といはれうる所以に就いては、解説のうちに之を明らかにしておいた。
一 底本は、狂言の主題によって七類七冊に分かつてゐるが、本書に於いては、これを便宜上、脇狂言之類、大名之類を上巻に、小名之類、聟女之類、鬼山伏之類を中巻に、出家座頭之類、集狂言之類を下巻に収めて、上・中・下三巻に排印した。
一 本書は、底本を忠実にうつすにつとめたが、大蔵流山本東次郎師の口伝を参照して、濁点・半濁点を附し、句読点を施し、脱字を〔 〕の中に補ひ、衍字を< >でくゝり、特殊な読み方、役人、囃子、謡物等を( )の中に注記した。但し、元来濁点のあるものには(マゝ)と附記して、新たに施したところのものと識別した。即ち、それ以外の濁点・半濁点、句読点及び〔 〕< > ( )等の括弧のものを除けば、底本に還元されうるのである。
一 本書に施した句読点は、実演上の詞の息つぎによるものであり、( )の中に記した特殊な読み方は、読み方の紛らはしい宛字、送り仮名が省略されて読みにくい漢字、今日の普通の読み方と異つてゐる言葉、他に読み方のある文字、注意すべき語句等で、実演上の言葉遣ひによるものである。また実演上の発音が文字のそれと異なるものは、特に片仮名で記した。それらを今日の実演上のものに拠つたのは、大蔵流の演戯が現在なほ古い伝統を正確に保持してゐると認められるからである。但し、一曲のうちに重出する同様な文字及び語句の振り仮名を要するものは、その初出のものに限ることにした。なほ括弧のない振り仮名は、元来あつたところのものである。
一 本書下巻の末に、底本に於ける漢字、仮名遣ひ、送り仮名の正誤表と、固有名詞、事項及び国語学上注意すべき語の索引とを、それぞれ五十音順に排列して読者の利便に備えた。
一 本書の排印について、文学士春日順治氏の労力に負ふところ多きを特記する。

昭和十七年三月三十日
笹野堅

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.