解説
能狂言は、いつ出来たか、誰が作つたか、何番あるかといふことは、この本を手にする人が必ず知らうとされることと思ふから、この本に就いて解説するに当たつて、まづこれらの要点を明らかにしておきたい。それが演劇史や辞典の類ですぐわかるものなら、こんな蛇足をそへることはないのだが、まだ簡単にわかる書物はないやうだし、実は、この本を汎く一般の研究者乃至鑑賞者のための定本としたいといふ事情に関連するところが多いことだから、それらに就いてのわたくしの見解を知つておいて戴きたいのである。
わたくしの解するところでは、わが国の演劇は猿楽といふ底流の上に、中世以降、延年の能といふ演戯としてあらはれたり、田楽の能や猿楽の能といふ能芸として現出したり、また歌舞伎や浄瑠璃劇として浮き上がつたりしてゐるやうに見える。後のものは前のものを受け継いで出来たので、前のものは後のものを培養することになり、後のものは前のものを継承してゐるのだから、原始の形式も存続してゆくわけである。しかし世人の智能が進むに伴つて人々の娯楽も改まらなければならず、民衆に支持されてゐる演劇も時代の型に随つて、原始の形式は変化することも、また転生することもあるわけだが、いづれの時代の演劇にも原始の形式はなほ厳然としてゐるやうである。
その原始の形式といふのは、滑稽なものと真面目なものとの両面を持つ物真似を主体としたらしい猿楽をいふのである。これが上世の民衆の要望によつて、或る時は其の滑稽なわざが強調されたこともあつたし、また或る時は其の真面目なわざが強調されたこともあつた。それらは宗教的な方便として成長を促されもしたが、いづれの世、いづれの処に於いても、人々はさうした戯れを要請するのであつて、宗教的な支援によつて成長したといふよりは、寧ろ民衆の渇望にこたへて成長せずには居られなかつたのである。そしてこの二つのわざが漸く成長して演劇と認められるやうなものになつた。まづ延年の能の時代があつた。その後、田楽の能の時代が続いた。そのいづれの演戯にも真面目なものと、滑稽なものとは存してゐた。それらが猿楽の能に発展した。猿楽の真面目なものと、滑稽なものとの二つの形式が明確にされてきた。われわれの謂ふところの能と狂言とがそれである。
近世、狂言にたづさはる門閥といはれる家々では、家伝由緒書の類を子孫のために書き残してゐるが、天鈿女命を祖神とし、その庶流猿女の芸の伝統に立つものと牢く信じてゐる。実際は、その家族や門閥が由緒をつける為に語り伝へられ記録されたもので、他人は之を認めぬかといふに、天照大神が岩屋戸に御籠りなされた時、天鈿女命が桶の上で拍子をふみをかしい身振りをして神々を笑はせたといふ神話や、彦火火出見尊が潮満瓊で御兄火闌降命を溺らしめ給うた時、御兄の命は御助けを乞ひ、これより永く俳優になつて仕へようと仰せられて、顔を赤く染め水に溺れ 苦しむ滑稽な真似をされたといふ説話に、喜劇の起原を承認してゐる。それほど遠い過去の歴史に遡らなくても、乏しい記録の時代にも、その間に狂言の姿を容易に見出すことは出来るのである。堀河天皇の御時、内侍所に御神楽があつた夜、陪従家綱、行綱の兄弟が庭火に細脛をあらはしをかしい態をして、比類ない猿楽だとほめられたといふ話や、俊寛の鹿が谷の山荘で平家を亡ぼす密議をした夜の酒宴に、藤原成親があやまつて瓶子を倒したので平氏が倒れたと喜び、猿楽をしようといふので、平康頼が余りにへいじの多う候といへば、俊寛はそれをば如何仕候はむずるといふ、そこで西光が頚を取るにはしかじと瓶子のくびを取つて入つて行つたといふ話がある。たゞそれらと狂言とが相異するところは、その笑戯が演劇以前のものだといふことである。
しかし、この猿楽にも人間の空想と意識とが働くやうになつて、終には最少限の芸の要素をもつものにまで成長したのである。最初は即興的なことで何人をも面白く思はせる滑稽なわざを主としてゐたのであるが、また僅かながらも芸の要素をもつやうになると、笑戯そのものの発展といふよりは、多少の芸の力は、真面目な歌舞、物真似をも其の名のもとに見られるやうにさせた。かうして演劇的なものに接近し、必然的に演劇に成長するやうなものになつてゐたのである。わたくしは狂言の成立を室町時代の初頭に考へてゐるのであるが、いや、狂言のやうなものは鎌倉の初期にも見える、いや、さうしたものは平安時代にも見えると指摘されても、決してそれを狂言の源流でないと否定するものではない。たゞ滑稽なわざを以て人を歓ばせることは、真面目なわざを以て人を楽しませるよりは容易であるが、芸術と見られるものになるには、滑稽なものは真面目なものより困難である。狂言の姿を想はせる滑稽な劇的動作は遠い昔にありながら、それが芸化することは、遠い人世にはそれほど必要があつたわけではなく、その劇的な進化は、真面目な劇的動作が人々に興味を与へるために芸化するよりは、ずつと後れてゐたのである。
その滑稽な演劇への成長は、猿楽が延年の能としてひとまづ演劇的な段階をもつたものに於いても、まだ其の真面目な表芸のかげに蔽はれ、田楽の能として盛行した鎌倉時代の中頃に、その真面目な芸能に附随して漸く存在が明らかになつた。こゝにわれわれの謂ふところの狂言の形成を見るのである。そして室町時代の初頭、猿楽の能が社会に地歩を占めた時、狂言は能に対立するものとして完全に成立したのであつた。人の性情と之に働く世の力とは、笑戯をつひに芸化せずにはゐなかつたけれども、われわれが喜劇として許すところの狂言の形成も成立も、さう遥かな過去のことではなかつた。
かくして成立した狂言はどんなものであつたか。それと今日の狂言との関係はどうなつてゐるか。それに作者のことも関連してくるであらう。もし遠い時代の記録に散見する猿楽の笑戯に狂言の原の形を混同する者があるならば、その理由は単に笑ひの戯れであるといふことばかりではなく、両者が人々を笑はせる内容にも共通なものが多いからである。たゞ猿楽の笑ひは当座限りの少数のものを納得させれば足りたのに比して、狂言の笑ひはなるべく多数、出来るならば全部の承認を得ようとしてゐるのである。狂言は猿楽の笑戯が進化したものには相違ないけれども、これは自然の推移ではなくて、中世期の新しい社会の状勢に動かされたものであつた。わが国の演劇の歴史は、猿楽の原始的な雑戯や、外国から輸入された演芸が、一部の階級の者の娯楽として持続されること久しく、絢爛たる文化を誇る平安時代にも演劇の創造は遂に成就しえなかつた。その時代は余りに偏し、その文化は余りに狭かつたからであり、大衆の需要に誘導され支持されなければならない演劇が創造されるには、それ以前と全く社会状勢を異にした鎌倉時代の民衆の力が必要であつたのである。そして民衆の興起した室町時代に至つて、その進展が一段と顕著になつた。
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