かうした経過からも判断されるように、古くからあつた 笑戯が進化した狂言は、個人が創造したといふよりは、寧ろ団体が作り上げたといふべきものである。狂言は、演者の協定によつて即興的に筋が選ばれ、或る様態のうちに自由な対話と動作とをもつて演ぜられた。それが繰り返し行はれてゐる間に、また演者によつて刪定され、やがて定着したと解されるのである。狂言の多くの本文は、かうして出来たもので、たまたま少しばかりの戯曲の作者は知られることがあつても、この成立に関して戯曲を与へた作者を考へることは出来ないのである。然るに、近世、狂言の門閥たる大蔵家の記録では、玄恵法印、金春四郎次郎、宇治弥太郎を狂言の作者に擬してゐる。
 玄恵法印は、後醍醐天皇の御代、叡山の名僧として御進講申し上げたこともあり、足利尊氏兄弟にも尊重されてゐた台禅儒の三学に亙つた学僧で、太平記や建武式目の述作にも与かつたといはれ、庭訓往来も其の作のやうに伝へられてゐる。金春四郎次郎は、後花園天皇の御時、金春流の能太夫として名声のあつた金春禅竹の末子であるが、大蔵家の養子となつたといひ、これより大蔵家が金春の姓の秦を襲つたと伝へられてゐる。この芸統は、金春万五郎から宇治源右衛門に、それから鷺家に及んでゐるといはれる。宇治弥太郎は、伊賀国名張郡阿保の城主島岡弾正の子で、大蔵家に入り宇治に住んで斯く名乗つたが、後に大蔵弥右衛門と改めた。大和多武峯で狂言太夫に輔任されたとある。
 この玄恵の作と伝へる狂言は五六十番、金春四郎次郎、宇治弥太郎二代の内の作と伝へる狂言は八九十番で、それらは現在まで演ぜられてゐる代表的な狂言である。これは大蔵家の者が古くから家に言ひ伝へられたところを記録したもので、徳川幕府にもかういふ申し伝へがあることを書き上げ、門党も大切に信じて之を書物に載録などしてゐるが、同じく狂言の門閥たる鷺家や和泉家の所伝には見当たらないやうである。
 この所伝は、どういふところから起こつてゐるのであらうか。狂言の本文が、個人の手に成つたものではないといふ疑ひを解かない限り、この人々が狂言の作者であるといふことは明らかにされないのである。しかし、この疑ひは玄恵その他に作者が擬された所伝によつて起こるところのもので、なほ狂言の性格や機構のうへから考へれば、その所伝は、戯曲を書き下ろした作者の意味としてならば、除去さるべきであらう。狂言は古い猿楽から進化し、そして 喜劇へと高まつたのであるが、その段階の境目といふものは、誰にもはつきりわかるものではなかつた。能が観阿弥、世阿弥の天才によつて大成されたといふやうなものではなく、猿楽が進化し洗練されて、漸く喜劇に到達したと解されるものである。
 そうした過程に於いて、狂言は常に流動してゐた。をかし味、機智、諷刺等の主な様態は動かないものであつても、それを生かすところの言葉も、それを行ふところの動作も、またそれに効果を与へる情景も流動して来たのである。それが真に現実的なものとして全部の観衆の笑ひを要求するためには、常に流動しなければならなかつたのである。即ち軽妙な洒落、鋭い警句、意味の深い機智、刺すやうな皮肉が喜劇の様態を創造するのであるが、それにはまづ当世語の自由な駆使が必要である。事実、狂言が近世に至つて固定するまでは、その言葉はいつも当世的に流動してゐたやうであるから、これが記録される暇さへ殆んどなかつたらうと思はれる。まして玄恵法印、金春四郎次郎、宇治弥太郎といつた一時期に生存した人々を、狂言の代表的な戯曲の作者と考へることは出来ない。たゞ其の本文、或いは狂言の様態にある刪定を与へた、これが永く規範となつたといふやうなことから、彼等が作者と伝へられたものではないかと思はれるのである。あたかも徳川時代に、謡曲の作者に就いての所伝が記録されたり、出版されたりしたが、近来、世阿弥が書き残しておいたものが現れてみると、謡曲のやうなものでも、その作者は世阿弥の頃でさへ必ずしも明らかではなく、何曲は誰が古い能を改作したといふとか、何曲は誰が新たに節附けをしたといふとかいつた伝へになつてゐて、厳密には一人の作者の創作であると定められないものが多かつたのと同じやうに考へられるのである。
 狂言は、個人の作者といふやうなものに指示されたものではなくて、多くの演者の管掌にあつて他人の勧説を待たず、おのづからなる変化成長が行はれつゝ室町時代の現実に立脚したものとなつてほぼ定着したのであつた。
 かやうに狂言が定着するまでには、多くの狂言の改変と興廃とがあつた。それまでの狂言が変化成長して、全く変貌したものもあつた。新しい筋立てが、演者の協定によつて成立もした。ある狂言が効果を収めると、それに類似したものが多く提出されもした。しかし観衆が興味をもたないもの、度々繰り返してゐるうちに、観衆に対する効果が薄らいだもの等は廃されもした。われわれは、応仁略記に見える「蟹が狂言」を、今日に伝はる「蟹山伏」によつて想定することは許されることがあつても、観応三年周防仁平寺の本堂供養に延年の能に行はれた「山臥説法」は、現在に伝はる「祢宜山伏」「犬山伏」によつて、その古型としては想到することを許されても、狂言の変化成長を認める限り、しかも狂言の定着する以前と以後とは事情を異にするが故に、その様態内容に就いては、全く想像にまかせられるものではないのである。
 かういふ改変や興廃のしばしば行はれる現象は、狂言が芸の洗練を経、劇術をもつやうになつても、狂言の負はなければならない運命であつた。そして幾つかのものは、常に繰り返し行はれて変化もし成長もして定着したのであるが、また常には顧みられなくなつたものでも、たまたま、取り出してみれば興味深く眺められるところから、定着しないまでも全く廃され忘れられてしまはなかつたものもあつたのである。その曲名は伝へられてゐながら、その内容が全く知られないものがある。その内容はわかつてゐながら、その演出が全く忘れられたものがある。また同じやうな類型のものが多く存してゐるが、そのうちには現在までも行はれてゐるものもあれば、全く演ぜられなくなつたものもある。
 それは、夙く或る土地なり団体なりで演じてゐるものでも、他の土地なり団体なりでは演じられなくなつたものもあつた。また或る土地なり団体なりでは、他の土地なり団体なりで見られない古い狂言の変貌したものや新たに作り上げられたものが、演ぜられてゐるといふこともあつた。これは単に狂言の曲目のことに止まらなくて、或る土地なり団体なりの演者と、他の土地なり団体なりの演者との間に、舞台に対する観念に相異した見解があらはれ、それが意識的に相異してゆく傾向さへ見られるやうになつた。
 さうなつて来ると、それらの相異は、勢ひ、相互の信條として固守されるやうになり、狂言の芸統として派閥を唱へ流派を称するやうになつたのである。それが明らかになつたのは、室町時代の末期、大蔵家と之に対峙した鷺家との進出からであつた。なほ其の他にも、京流、南都祢宜流等といふものもあつたらしいが、長く流派を樹立してゐたのは、大蔵流、鷺流及び近世、京流から出たと思はれる和泉流である。この三流は、時勢が変転して狂言が危うく退転しさうであつた徳川時代になつても、その幕府の庇護を受け封建的な支配のもとに、狂言を保守的に管理して現在まで持続してきたのである。たゞ鷺流は、明治一新後廃滅して今日は其の芸風を見ることは出来ないが、各流、芸風に多少の相異があり、上演の曲目に出入りはあつたけれども、その流伝には昔日の狂言を十分窺はせるものも保存されてゐるのである。
 そこで、かうした保管に委ねられて来た狂言にはどんなものがあるか。わたくしが、各流の伝書といはれる、厳格に古正本と認められるものを調査した結果を、五十音順に排列し表示しておく。これに採つた伝書は、大蔵流の古正本が十一本、鷺流の古正本が五本、和泉流の古正本が十一本である。なほ徳川時代に続刊された版本狂言記五種は、従来多く狂言の底本として複刊されてゐるので、参考のために其の曲目を附記する。
 この表の曲名欄で、曲名に〇を冠したものは代表的の名称と認められるもの、*を冠したのはその異名、異名の二つ以上あるものには**を冠して列挙した。
 「*内沙汰〇右近左近」の如きは、代表的の曲名「右近左近」の條にあることを示し、「△蝸牛(かたつむり)〇蝸牛(くわぎう)」の如きは、読み方による検索を考慮したもので、その代表的の曲名「蝸牛(くわぎう)」の條にあることを示す。
 また流派欄で、〇のあるのは、その流派のものが上段の 〇を冠した曲名で見えてゐることを示し、*のあるのは、上段の*を冠した曲名で見えてゐることを示す。従つて*〇とあるのは、両様の曲名で見えてゐることを示すものであり、その他は之に準じて承知されたい。
 なほ何の印もないのは、言ふ迄もなく其の流派の古正本には見えないといふ意味である。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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