およそ現在まで確実に伝へられてゐる狂言は三百五十五番である。但し、各流共に一部の伝書に収められてゐるところは、百番前後から二百番位のもので、その所収曲目は流派によつて相異し、また同じ流派のものでも、転写本でない限り、出入りが見られるのである。それらの伝書の内容は、大体、近世以前、狂言が定着したものの写本と、近世以後、狂言が固定したものの写本とで、近世以前の古く行はれた狂言を書いたものは稀であるが、近世以後の狂言が固定してから、それが写される当時に行はれてゐる狂言を書き留めたものは比較的多く、同じ流派のものでも、その写される時期によつて曲目に出入りがある。狂言が固定してからは、常に上演されるものは各流共に百五十番前後であつて、その曲目は流派によつて、大蔵流にない曲が鷺流にあり、鷺流にない曲が大蔵流にあるといつた 多少の異同があり、また同じ流派に於いても、将軍の代替りのような時期とか家元の代が替つた場合等に、稀に、或る曲を廃し或る曲を加へるといつた多少の出入りがあつたやうである。なほ時に有力者の所望によつて、常には観られない所謂遠い狂言が演ぜられることがあつて、当時としては珍しい古い狂言が書き残されるといふやうなこともあつた。
 また曲名は同じ狂言でも、その行はれてゐた時期によつて必ずしも一致してゐなかつた。元来、曲名は無雑作に考へられ、随時に名づけられてもゐたらしく思はれる。狂言の芸が確立する以前には、名を聴いただけで内容が察せられるやうなことは、未熟な喜劇のために有効なことではなかつたからで、永く定着しなかつたやうに考へられるのである。しかし狂言が固定しては自然曲名も固定して、同じ流派に於いては、およそ一致してゐたけれども、流派を異にしては、同曲でもかなり異名があり、同名でも読み方を異にしたものもあつた。
 こゝに表示した以外の異名を中世の諸記録から挙げてみると、「渋柿」(合柿)、「伊文字関」(伊文字)、「金光(きんみつ)」(右流左止)、「猿引」(靭猿)、「駄賃座頭・座頭牛に乗所」(牛座頭)、「高札聟」(蛭子毘沙門)、「鳥指」(餌差)、「糸縒」(お茶の水)、「蟹化物」(蟹山伏)、「柿喰山伏」(柿山伏)、「焙り狐」(狐塚)、「松の山鏡」(鏡男)、「三人百姓」(昆布柿)、「傘の秀句」(秀句傘)、「打身」(鱸庖丁)、「鬼の豆」(節分)、「唐の皇のすまい」(唐相撲)、「奪太刀」(太刀奪)、「宝買」(宝の槌)、「地蔵坊」(地蔵舞)、「浜千鳥」(千鳥)、「栂尾茶買」(茶壺)、「苞詞」(苞山伏)、「二人おさめ物」(筑紫奥)、「女楽阿弥」(鈍太郎)、「縄綯盗人」(縄綯)、「餅喰」(業平餅)、「鬼の抜殻」(抜殻)、「漆刷毛」(塗師)、「鉢棒」(鉢叩)、「十夜帰り」(花子)、「馬借座頭」(伯養)、「大名萩花一見所」(萩大名)、「髭垣立・おまきよせ」(鬚櫓)、「舟越舅」(船渡聟)、「袴裂き」(二人袴)、「深草」(深草祭)、「附子砂糖」(附子)、「石橋山の合戦」(文蔵)、「おいはぎ仕損令口論さしちがふる所」(文山賊)、「恋の祖父」(枕物狂)、「養老の洗ひ爺」(薬水)、「罪人」(八尾)、「米借り」(米市)、「若菜摘」(若菜)等がある。たゞ「座頭市に乗所」「大名萩花一見所」「おいはぎ仕損令口論さしちがふる所」等は果たして曲名とされたものかどうか。時には曲名を掲げずに演ぜられたこともあつて、その内容による勝手な思ひつきが記録されたやうにも考へられる。
 いづれにしても、近世以前、狂言が定着した頃の写本は、わたくしが博捜した限りでは唯一本しか見られないのだが、近世以後、狂言が固定してからの写本は、由緒の正しい伝書、精確な古正本と見られるものを厳選しても二十数本に上るのである。これによつて考へられることは、狂言が定着するまでの久しい伝承の遺風は、狂言が定着してからも演者の記憶に託して、容易に文字に移されなかつたといふことである。彼らは文書に依頼しようとはせずして、口頭伝承の任務を果たそうとしてゐたらしいのである。しかし狂言が固定するやうになると、近世の保守的な精神は一字一句をもゆるがせにさせなくなり、これを牢記することが困難に感じられると共に、書冊文化の進出に伴ひ記憶の特技に対する観念が淡くなつて、伝承の風習は要求されながらも、漸次これを記録に移譲するやうになつた。そして書かれない狂言の保存を不可能にしたのである。
 ただ筆に伝へられることの恐らくなかつたであろう狂言の定着した頃のものが、たまたま、寛永十九年大蔵虎明によつて忠実に書物に記録され、その退転されさうな災厄が防止されたのであつた。これの写されたのは近世初期であるが、その内容のまさしく近世狂言が固定する以前のものが、唯一本でも残されたのは幸ひであつた。われわれは之に室町時代の狂言の真の姿を見るのであるが、さうした書物に成りさうもなかつたものが文書に移管された動機には、その退転をおそれたといふことの半面に、他にも隠れた理由がなくてはならぬ。それは近世の変り目に際して、古来の狂言が近世的な変更を余儀なくされてゐたことが、これを文字に著して残さうとした念慮ではなかつたか。
 当時斯道で最も見識があり、責任のある地位にゐた虎明が、この伝統芸術の難関に立つて、世間の狂言が歌舞伎風になるのを嘆き、わらんべ草といふ著述のうちで子孫に深く戒めてゐるのが思ひ合はされるのである。虎明のいふ世間の狂言とは、流派として認められることが最もおそく、むしろ大蔵流の芸風に随つてゐたらしい和泉流を問題にしたのではなくて、恐らく鷺 流を対象として言つてゐるやうである。虎明によれば、当時は能もくだけて狂言に近くなり、世間の狂言は歌舞伎風になつた。そして大蔵の狂言は能に近いと見られる。しかし大蔵流は古来の風体を守つてゐるだけだが、能も世間の狂言もそんなわけだから、我が狂言が能に近いやうに見られるのだといつてゐる。それでも世間の好みに従ひ、昔よりは少し派手にしてゐるといつて、多少の変更の已むを得なかつたことを述べてゐるのである。歌舞伎の発生するやうな時勢にあつて、狂言の特性であつたところの流動性は、鷺流、和泉流に於いては、当世風な変化をもたらしつゝ固定したらしいのである。たゞ大蔵流に於いては、その本文に就いてみても、近世的な僅かな変更に止まつてゐる。それは 室町時代に定着して行はれて来た狂言の用語が近世通じ難くなつたものを改めたのと、筋が甚だしく当時に許容されないものを整理した位のもので固定したのであつた。
 わたくしが、こゝに底本とすべきものを大蔵流から採らうとした理由は、もう改めて言ふ迄もないと思ふが、鷺流は、その伝統が大蔵流よりも新しく、今日既に廃滅してゐるといふばかりではなく、中世にも遡り現在にも及んで見られる正本が全く考へられないものだからである。また和泉流は、今日なほ流風を樹ててゐるが、その伝統は鷺流などよりも新しく、近世中期に於ける其の本文の改変は、意識的な甚だしいものがあつて芸統を複雑にしたきらひがあり、今日の流伝が如何なるものによるか明らかでないので、中世から現在までの狂言を通じて考へられる正本を選ぶことがむつかしいからである。なほ近世初期から続刊された狂言記は、当時一般の読みものとして、狂言の対話の形をかりて作られたと思はれる以外には正体のわからないもので、今日の学問からは斥けられなくてはならないものであり、また今日の演戯を観る上にも大して参考にもならないものである。
 そこで、わたくしは中世以来現在に至るまで正しい 伝統を持ち伝へた、狂言の主流ともいふべき大蔵流に於いて、おほよそ中世から今日までの狂言を考へることが出来ると認められる大蔵虎寛自筆の正本を選定したのである。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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