この本は、雁皮紙を用ゐ記録表紙をつけた縦五寸七分横四寸一分の袋綴じで七冊ある。表紙の左上の隅に短褐色の題簽を貼り、それぞれ「脇狂言之類」「大名之類」「小名の類」「聟女之類」「出家座頭之類」「集狂言之類」と外題を墨書してゐる。
この集狂言之類の奥書によれば、寛政四年十一月大蔵虎寛が奈良に赴く際、古くから伝へられた本が大形で旅行に不便なので、五月頃から筆を起こして漸く十月二十五日に書き畢つたものだとある。この筆者の虎寛は、宝暦八年八月十五日江戸に生まれ、幼名を貞吉といふ。享和元年二月十九日、父大蔵虎里が隠居を仰せ付けられたので家督を相続し、大蔵の通称弥右衛門と改め、法名を道頂と称した。明和九年に初めて幕府の御用を勤め、勧進狂言を願つて興行したこともあつたが、文化二年十一月三日、四十八歳で没した。大蔵流の元祖と考へられる金春四郎次郎から十二代に当たつてゐる。然るに脇狂言之類の巻末には、「十九代狂言太夫大蔵弥右衛門虎寛」とある。この世代は、玄恵法印を初代とし日吉氏六代を加へて大蔵家で数えてゐたところのものである。その署名の下に捺した朱印は、白文で「秦忌寸」、朱文で「虎寛」とある方印である。また集狂言之類の奥書には、「寛政四年十月二十五日秦忌寸虎寛」と記されてゐるが、この下に捺した朱印は、朱文で「秦氏」、白文で「鹿貌」とある方印である。この本は、明治年間大蔵家の衰運により、その伝書全部を山本東次郎氏が保管したうちにあつたのであるが、近頃大蔵家の芸事が再興されることになつて、もとの大蔵家に帰してゐる。
各冊開巻に、それぞれ「脇狂言之類」「大名之類」「小名の類」「聟女之類」「出家座頭之類」「集狂言之類」の内題があり、所収の曲目を二段に排列した目録がある。そして「脇狂言」の「末広がり」から「集狂言」の「釣狐」までを「通計百六十番」とし、次に「右之外書上珍敷狂言五番」として「松𣜿」「財宝」「饅頭」「樋酒」「花盗人」を挙げてゐる。この珍しい狂言といふのは、この百六十番ばかりの狂言が固定した頃、久しく廃曲となつてゐたのを再興したもので、幕府に書き上げてもゐたのである。享保六年七月、大蔵虎純が幕府へ差し出した書上が残つてゐるが、この目録もその通りの曲目である。すべて百六十五番の狂言を其の主題によつて分類したもので、この分類は今日まで実際にも言はれてゐるのである。これには狂言の代表的なものが網羅され、本文がよく整備され、各曲の終りに、その曲で用ゐられる装束、小道具、作り物も附記されてゐる。
この奥書に見える大形の古本といふのは、現在伝ふるところを知らない。大蔵虎明が書いた室町時代の古い狂言が見られる本も大本であるが、それとは本文の相異したもので、近世初期、虎明本が書写されてから間もなく、大蔵流の狂言に近世的な刪定が加へられ、整理されたものを書き留めたのがこの大本であつたらしく思はれる。なほこの他に、大蔵流の門人、茂山千五郎正虎が、文政の頃、江戸の大蔵家に在つて之と同じものを写した本がある。その底本は、正虎の識語によると枕本であつたとあるが、それは虎寛の書いた中本を指すのであろうか。わたくしは、別に中本型の横 本のものがあつたやうに思はれる。少なくとも虎寛本が書写された前後には、大蔵家に同じ本文を伝へる、大本、中本及び枕本の三部のものがあつたやうであり、また享保六年の幕府へ書き上げた目録も之と同じ曲目であつたこと等を思ひ合せてみると、この本文は大蔵流が近世を通して台本としてゐたものと考へられるのである。
すなはち虎寛本は、寛政四年に書き写されたものであるが、その本文は古くから伝へられた本によつたものであり、虎寛は其の狂言を少なくも先代大蔵虎里から受けたことは確かである。虎里は、元文五年十二月に大蔵の家職を相続したのであるが、その狂言は、享保二十年十二月に大蔵虎純の後を嗣いだ大蔵虎教から承けたものに相違ない。しかも享保六年の書上が全くこの曲目と一致してゐるのは、当時既に大蔵流の狂言がこの本文に固定してゐたことを考へさせるに十分なものであつて、その書上を差し出してゐる虎純は、その狂言を先代大蔵縁虎から伝へられたものであろう。縁虎は、実に虎明の後を襲た大蔵栄虎が延宝四年六月十八日に没した後を継いだものである。かやうに辿つて尋ねると、虎寛本は虎明本に次ぐもので、虎明本以後この本文に固定したことが知られ、そして永く之によつて大蔵流の狂言が演ぜられてゐたことがわかるのである。
また虎寛本の本文が茂山正虎の写本で残つてゐることは、大蔵流が近世末期までこの本文によつて狂言を演じてゐたことが知られるのである。即ち正虎の写本は、虎寛の後を継いで天保五年一月八日に四十二歳で没するまで大蔵の家職を冒してゐた虎文が、文政八年七月これを一覧し相違ないといふ極めをつけた自筆の奥書があり、この本を収めた帙の裏に、明治十九年に七十七歳で没するまでこの職分に在つた正虎が、大蔵 虎文に就いて修行中これを書写し、師家の口伝等も書き入れたといふ識語がある。これによつて、虎文の後を継いだ大蔵虎武に伝へられ、なほ次いで嘉永二年十一月三日、最後の大蔵狂言太夫となつた虎長もこの家芸を踏襲したであらうと思はれる。かやうに虎寛以後も永く虎寛本の本文によつて、大蔵流の狂言が演ぜられてゐたことが証明されるのである。
かくも大蔵流が大切に伝統を守り育てて来たことは、他流に於いては見られないことであつた。世の風潮に誘致されては、鷺、和泉の二流は、その狂言に次々の改訂を行つたやうである。殊に明和の改正は、能楽界にも所謂明和本なるものを出版せしめたが、狂言にも和泉流の所謂雲形本なるものを改訂させたのであつた。さうして本来の狂言とは異なつたものとなり 行く傾向をあらはし、遂には流伝に混雑を来たし統制を欠くやうにもなつて、古来の面貌を窺ふ手がゝりを失ふやうなことにもなつたのである。現在、和泉流がその家々の芸を受け継いでゐるとしても、近世後期、さうした状勢のもとに派閥に分立した結果は、今日、和泉流の狂言を一本に帰一して見ることを困難にさせたやうである。独り大蔵流が伝統に楯籠つてゐてくれたことは嬉しいことであつた。
然らば現在の大蔵流は、如何なる台本のものが演ぜられてゐるか。大蔵流に限らず他の二流に於いてもさうであつたが、徳川幕府の崩壊は、幕府の狂言太夫としての或いは大名の御抱へ役者として禄仕し、社会と没交渉に民衆と関渉を持たない演劇にたづさはつてゐた狂言の門閥門党にとつて、大きな異変であつたのである。中世には其の民衆によろこばれ支持されてゐた 狂言が、近世の転変期に際して、在来の技芸を以てしては到底時勢について行くことは出来ないものであつたにも拘らず、その人々は、時の権勢者に生活を保証され安心して、その伝統を継続し其の芸に専念して行くことが出来たのと同日には考へられない。こゝに斯道は衰退の非運を辿るばかりであつた。しかも其の門閥の家々には斯芸の人として成り立つものがなく、各流の所謂家元は斯道を廃するに至つたのである。たゞ大蔵、和泉の門党によつて斯道が存続され、やがて明治聖代の恩恵がめぐり来て、古典芸術として尊重され 今日に到つてゐるのである。
この転回に当たつた門党のうち、今日まで之に携つてゐるものは、大蔵流としては京阪の茂山二氏と東京の山本氏とが代表され、和泉流としては、東京の野村二氏と名古屋の門人達とが代表されるものである。そして現在の大蔵流に於ける茂山二氏は、共に大蔵虎文から芸統を引く、茂山千五郎正虎、茂山忠三郎義直に出で、また山本氏は、近世後期の大蔵の門流、倉谷武右衛門、宮野孫左衛門の流れを汲む山本東に発してゐる。今日の大蔵流は、その人々の家に伝へられたところのもので、義直の伝本は存してゐないが、正虎にも東にも伝本があり、共に虎寛本と殆んど異同の認め難いものである。即ち虎寛本は、現在の大蔵流が行つてゐる狂言の親本ともいはるべきものである。
そこで徳川時代を通して行はれた大蔵虎寛本は、僅かな近世的な刪定の痕を考慮することによつて、遠く室町時代に行はれた狂言の姿を想定されるものであり、また殆んど其のまゝ現在の狂言を展望されうるものであつたのである。われわれは、これによつて今日の狂言を鑑賞し、また流伝の正確な今日の演戯に助成されて、古来の狂言の真相に肉迫することが出来るであろう。なほこの番数は、前に表示した三百数十番の狂言の半分にも足りないが、狂言の代表的なものはこの百六十五番に尽くされてゐるのであつて、一般の研究にも鑑賞にも決して少ないものではないのである。たまたま、その多くを求めて流伝も本文も顧みない蕪雑に混同されたものに迷はされてはならない。
わたくしが、こゝに虎寛本を採つたのは、上述のやうに、この流派、本文、番数等に諸条件を具備し、この一書において古くから今に至るまで通じて見られるといふ便宜があつて、汎く一般の研究者及び鑑賞者のための定本といはれるやうなものを求むるならば、これを措いては他にありえないと思はれる理由があつたからである。(於北京奉哉室)
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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