『能狂言』上 脇狂言01 すゑひろがり

▲シテ「罷り出でたる者は、この辺りに隠れもない大果報の者でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの御参会は夥しい事でござる。それにつき某も、近日一族衆を申し入れうと存ずる。又、上座にござる御宿老へ、末広がりを進上申さうと存ずるが、某が道具の内に末広がりがあるか、太郎冠者を呼び出し{*1}承らうと存ずる。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「居るか居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「汝を呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたの御参会は、何と夥しい事ではないか。
▲冠者「御意の通リ、あなたこなたの御参会は、夥しい事でござる。
▲シテ「それよそれよ。それにつき、某も近日一族衆を申し入れうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、じやうざにござる御宿老へ末広がりを進上申さうと思ふが、某が道具の内に末広がりがあるか。
▲冠者「はあ。お道具は悉く存じて居りまするが、末広がりと申す物は、つひに見た事もござらぬ。
▲シテ「汝が知らずばあるまい。何としたものであらうぞ。
▲冠者「されば、何となされて良うござらうぞ。
▲シテ「いゑ。都にはあらうか。
▲冠者「何が扨、都にないと申す事がござらうか。都にはござりませう。
▲シテ「それならば汝は大儀ながら、今から都へ上つて末広がりを求めて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「それにちと好みがある。
▲冠者「いかやうなお好みでござる。
▲シテ「まづ地紙良う、骨に磨きを当て、要元しつとゝして、ざれ絵ざつとしたを求めて来い。
▲冠者「これは難しいお好みでござれども、穿鑿致いて求めて参りませう。
▲シテ「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せ付けらるゝお方はござらぬ。今から都へ上つて末広がりを求めて来いと仰せ付けられた。さりながら、なんどき物を仰せ付けらるゝとあつても、只今の如くわつさりと仰せ付けらるゝによつて、御奉公が致しよい。まづ急いで参らう。誠に、某もかねがね都を見物致したい致したいと存ずる処に、この度は良いついでゝござるによつて、こゝかしこを走り廻り、ゆるりと見物を致さうと存ずる。何かと申す内に都近うなつたと見えて、殊の外賑やかになつた。いや。これは早、都へ上り着いた。又田舎とは違うて、家建ちまでも格別な。あれからつゝとあれまで、仲良さゝうに軒と軒とを建て並べた程にの。これはいかな事。身共は不念な事を致いた。末広がりはどの様な物で、又どこ元にあるをも存ぜぬ。遥々の所を問ひには戻られまいが。これはまづ何としたものであらうぞ。はゝあ。さすが都ぢや。かう見るに、知れぬ事を呼ばゝつて歩けば知るゝと見えた。さらば某もこの辺りから呼ばゝつて参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。なうなう。そこ元に末広がりはござらぬか。ぢやあ。こゝ元にはないさうな。さらば他へ参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。いや、これこれ。その辺りに末広がりはござらぬか。ぢやあ。こゝ元にもないさうな。これからちと上京へ参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。なうなう。それに末広がりはござらぬか。
▲売り手「これは洛中を走り廻る、心もすぐにない者でござる。あれへ田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと当たつて見ようと存ずる。なうなう。しゝ申し。
▲冠者「こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲売手「いかにも和御料の事ぢや。この広い洛中を、何をわつぱと云うておありきやるぞ。
▲冠者「私は田舎者で、別に聊爾は申さぬ。真つ平御免やれ。
▲売手「いや、これこれ。聊爾仰しやると云うて咎むるではおりない。今そなたの仰しやつたは何事ぞと申す不審でおりやる。
▲冠者「只今私の申した事の。
▲売手「中々。
▲冠者「私の頼うだ者が末広がりを求めて来いと申し付けましたによつて、それを呼ばつて歩きまする。
▲売手「扨、その末広がりを見知つてお尋ねやるか。但し知らいでお尋ねやるか。
▲冠者「これは都人のお言葉とも覚えませぬ。存じて居れば、それを買はうと申せども、存ぜぬによつて呼ばゝつてありきまする。
▲売手「これは身共が誤つた。すれば和御料は仕合せな者ぢや。
▲冠者「仕合せと申して、見えた向きの者でござる。
▲売手「身に付いた仕合せではない。洛中に人多いといへども、末広がりを商ふ者は某ならではないによつて、身共にお逢ひやつたが仕合せなと云ふ事ぢや。
▲冠者「すれば私の仕合せでござる。扨その末広がりが見たうござるが、見せて下されうか。
▲売手「なんどきなりとも見せておまさう。まづそれにお待ちやれ。
▲冠者「心得ました。
▲売手「さればこそ田舎者で、何をも存ぜぬ。こゝに傘がござるによつて、これを末広がりぢやと申して売り付け、代物を取らうと存ずる。
なうなう。田舎の。おりやるか。
▲冠者「これに居りまする。
▲売手「これが末広がりでおりやる。
▲冠者「はあ。これが末広がりでござるか。
▲売手「中々。不審、尤ぢや。末広がりにないて見せう。これへおこさしめ。
▲冠者「心得ました。
▲売手「何と末広がりになつたではおりないか。
▲冠者「中々。末広がりになりました。それにちと好みがござる。
▲売手「それはいかやうなお好みでおりやる。
▲冠者「まづ地紙良う、骨に磨きを当て、要元しつとゝして、戯れ絵ざつとしたを求めたうござる。
▲売手「これは難しいお好みなれども、さりながら、お好みも悉く合うた。まづ地紙良うとはこの紙の事。良い紙を以て良い天気に張つたによつて、この如く弾けばこんこん致す。骨に磨きを当てゝといふもこの骨の事。物の上手が木賊椋の葉を以て七日七夜磨いたにより、撫づればこの如くすべすべ致す。要元しつとゝしてと云ふもこの要。これをかう致いて、いづ方へ持つて参つてもゆつすりともせぬ。戯れ絵と云ふは、そなたの仰しやり様が悪しい。いづ方へ進上物になさるゝとあつても、この柄でざれて遣はさるゝによつての戯れ柄。構へて画の事ではおりないぞ。
▲冠者「扨は絵の事ではござらぬか。
▲売手「中々。
▲冠者「それならば求めたうござるが、代物はいか程でござる。
▲売手「五百疋でおりやる。
▲冠者「これはちと高直にはござりまするが、この度はさし急ぎまするによつて、五百疋に求めませう。扨私はもうかう参りまする。
▲売手「もはやおりやるか。
▲冠者「さらばさらば。
▲売手「ちとお待ちやれ。
▲冠者「何事でござる。
▲売手「そなたはあまり快い買ひ手ぢやによつて、土産をおまさう。
▲冠者「それは忝うござる。これへ下されい。
▲売手「いやいや。手へおまする物ではおりない。そなたは最前主持ちとは仰しやらぬか。
▲冠者「中々。主持ちでござる。
▲売手「総じて主といふ者は、機嫌の良い時もあり、又機嫌の悪しい時もあるものぢや。
▲冠者「誠にその通りでござる。
▲売手「その御機嫌のあしい時、御機嫌を直す囃子物を教へておまさうかと云ふ事ぢや。
▲冠者「習うてなる事ならば、教へて下されい。
▲売手「別に難しい事でもおりない。傘をさすなる春日山、傘をさすなる春日山。これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。げにもさあり、やようかりもさうよの。と云ふ分の事でおりやる。
▲冠者「大方覚えました。このお礼は重ねて都へ上つてお尋ね申して、きつと申しませう。
▲売手「お尋ねに預からうとも。
▲冠者「もはやかう参りまする。
▲売手「もうおりやるか。
▲冠者「さらばさらば。
▲売手「ようおりやつた。
▲冠者「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。手間を取らうかと存じたれば早速求めて、この様な満足な事はござらぬ。まづ急いで罷り帰らう。定めて頼うだお方は、今か今かとお待ち兼ねなさるゝでござらう。これを持つて参つてお目に掛けたならば、殊ないお悦びでござらうと存ずる。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。これはまづ、こゝ元に置いて。戻つた通り申し上げう。
申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲シテ「いゑ。太郎冠者が戻つたさうで、声が致す。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲冠者「ござりまするかござりまするか。
▲シテ「ゑい。戻つたか。
▲冠者「只今戻りました。
▲シテ「やれやれ。大儀や。してして、云ひ付けた末広がりを求めて来たか。
▲冠者「まんまと求めて参りました。
▲シテ「出かいた出かいた。早う見せい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨も扨も、才覚な者を使へば、なんどき物を申し付けても、その儘調へて参る程にの。
▲冠者「これが末広がりでござる。
▲シテ「むゝ。汝は路次で雨に遇うたと見えた。戯れ事をせずと、末広がりを見せい。
▲冠者「はあ。扨はこなたにも御存じないと見えました。
▲シテ「何と御存じないとは。
▲冠者「追つ付け末広がりにないてお目にかけませう。何と末広がりになつたではござらぬか。
▲シテ「これはいかな事。太郎冠者は都で抜かれて参つたと見えた。何事を申す。承らう。
▲冠者「お好みも大方合ひましてござる。まづ地紙良うとはこの紙の事。良い紙を以て良い天気に張つたによつて、この如く弾けばこんこん致す。骨に磨きを当てゝと申すもこの骨。物の上手が木賊椋の葉を以て七日七夜磨きました処で、撫づればすべすべ致しまする。要元しつとゝしてと申すもこの要。これをかう致いて、いづ方へ持つて参つてもゆつすりとも致しませぬ。追つ付け戯れ柄を致いてお目に掛けませう。
▲シテ「いよいよ抜かれて参つたさうな。
▲冠者「やつとな。
▲シテ「何とする。
▲冠者「やつとな。
▲シテ「何とするぞ。
▲冠者「いづ方へ進上物になさるゝとあつても、只今の如くこの柄で戯れて遣はさるゝによつてのざれ柄。絵の事ではないと申して、都の者が笑ひましてござる。
▲シテ「むゝ。すれば汝はそれを真実、末広がりぢやと思うて求めて来たか。
▲冠者「はて。末広がりぢやによつて、求めて参つた。
▲シテ「抜かれ居つた。
▲冠者「抜かれは致さぬ。
▲シテ「まだ云ひ居る。重ねてのためぢやによつて云うて聞かする。末広がりといふは、自体、扇の事ぢやいやい。
▲冠者「扇なら扇と、初めから仰せられたが良うござる。
▲シテ「まだそのつれな事を云ひ居る。これは常の扇。末広がりといふは、末でくわつと開いたを末広がりと云ふ。その上地紙良うといふはこの紙の事。骨に磨きを当てゝといふもこの骨。要しつとゝしてといふもこの要の事。ざれ絵といふは、或いは児若衆かなどをざつと書いたこそは戯れ画なれ。それは台所に何本もある傘ぢや。それを求めて来るといふ事があるものか。
▲冠者「でも都の者が末広がりぢやと申したによつて、求めて参つた。
▲シテ「いかに都の者が云へばとて、それを求めて来るといふ事があるものか。あちへうしよ。
▲冠者「あゝ。
▲シテ「あゝとは。おのれ憎い奴の。あちへ失しよ失しよ失しよ失しよ。
▲冠者「これはいかな事。都の者が末広がりと申した時は、誠の末広がりぢやと存じてござるが、只今頼うだお方の仰せらるゝを聞けば、これはお台所に何本もある傘ぢや。これはまづ何とせうぞ。あゝそれそれ。さすが都の者ぢや。抜かば只も抜かいで、御機嫌を直す囃子物を教へた。さらばこれを囃いて御機嫌を直さうと存ずる。
《囃子物》傘をさすなる春日山、傘をさすなる春日山。これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。げにもさあり、やようかりもさうよの、やようかりもさうよの。《何遍も返して云ふ》
▲シテ「扨も扨も、めでたい事でござる。太郎冠者が、某が機嫌を直さうと存じ、囃子物を致す。めでたい事でござるによつて、急いで内へ呼び入れうと存ずる。
《囃子物》いかにやいかに、太郎冠者。誑されたは憎けれど、囃子物が面白い。内へいつて鰌の鮨をほを頬張つて、諸白を呑めやれ。
▲冠者「《囃子物》これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。
▲シテ「《囃子物》何かの事はいるまい、内へいつてさしかけい。
▲冠者「《囃子物》げにもさあり{*2}、やようかりもさうよの、やようかりもさうよの。

校訂者注
 1:底本は、「太郎くはじや呼出し」。
 2:底本は、「げにもさありか」。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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