『能狂言』上 脇狂言03 あさう
▲シテ「信濃の国の住人、麻生の何某でござる。永々在京致す処に訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を頂き新地を過分に拝領致し、その上国元への御暇までを下されてござる。この様なありがたい事はござらぬ。まづ藤六下六を呼び出し悦ばせうと存ずる。やいやい。藤六下六。あるかやい。
▲両人「はあ。
▲シテ「居るか。
▲両人「はあ
▲シテ「居たか。
▲藤六「両人ともに。
▲両人「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。両人ともにまづ立て。
▲両人「畏つてござる。
▲シテ「汝らを呼び出す事、別なる事でもない。永々在京する処に訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を頂き新地を過分に拝領したは、何とありがたい事ではないか。
▲藤六「かやうのお仕合せを待ち受けまする処に、近頃。
▲両人「めでたう存じまする。
▲シテ「それよそれよ。又汝らが悦ぶ事があるいやい。
▲藤六「それは。
▲両人「いかやうな事でござる。
▲シテ「国元への御暇までを下された。
▲藤六「これは重ね重ね思し召す儘な。
▲両人「お仕合せでござる。
▲シテ「その通りぢや。扨それにつき、明日は元朝ぢや。御暇は下されたれども、めでたう明日の出仕を仕舞うて、その上で国元へ下らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲藤六「これは一段と。
▲両人「良うござりませう。
▲シテ「さりながら、明日はいづれも烏帽子上下で出仕をなさるゝであらう。某はこの烏帽子かみしもがあるまい。
▲藤六「かやうの事がござらうと存じて、お小袖お上下は、私が用意仕りましてござる。
▲シテ「何ぢや。小袖上下は汝が用意した。
▲藤六「中々。
▲下六「御烏帽子は私が用意仕りましてござる。
▲シテ「扨々、汝らは云ひ付けもせぬ事を、よく用意したなあ。
▲両人「はあ。
▲シテ「扨、小袖上下は今なりとも着らるゝか。
▲藤六「なんどきなりとも召されまする
▲シテ「烏帽子は。
▲下六「まだ烏帽子屋にござる。
▲シテ「こゝな者は。烏帽子屋にある物が、明日の用に立つものか。
▲下六「今日出来る筈でござる。行て取つて参りませう。
▲シテ「早う取つて来い。
▲下六「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲下六「はあ。
▲藤六「下六。早う取つて渡さしめ。
▲下六「心得ておりやる。
▲シテ「藤六。それへ出い。
▲藤六「畏つてござる。
▲シテ「国元を出る時は、我も我もと供をしたれども、永々の在京なれば、悉く国元へ下つてあるに、汝ら両人はよう奉公をしたによつて、国元へ下つたならば、くわつと取り立てゝとらしようぞ。
▲藤六「それは忝うござる。
▲シテ「馬に乗せう。
▲藤六「尚々でござる。
▲シテ「が、乗り付けぬ馬に乗れば、必ず落つるものぢやによつて、馬に乗るまでは牛に乗せう。
▲藤六「それはともかくも御意次第でござる。
▲シテ「《笑うて》これは戯れ言。馬に乗る程に取り立てゝとらせうぞ。
▲藤六「それは忝うござる。
▲シテ「扨、某は前、烏帽子髪を結うた事があるが、殊の外難しいものぢやと覚えた。この烏帽子髪の結ひ手があるまい。
▲藤六「それも私の内々結ひ習うて置きましてござる。
▲シテ「何ぢや。これもそちが結ひ習うて置いた。
▲藤六「中々。
▲シテ「扨々、云ひ付けもせぬ事を、よう結ひ習うて置いたなあ。
▲藤六「はあ。
▲シテ「扨、今も云ふ通り、つゝと難しいものぢやと覚えたによつて、明日の用意に今から結うて置かうと思ふが、何とあらうぞ。
▲藤六「一段と良うござりませう。
▲シテ「その儀ならば鬢道具を持て。
▲藤六「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲藤六「はあ。
▲シテ「何とするぞ。
▲藤六「これは、膠鯉煎{*1}でござる。
▲シテ「何ぢや。きやうせんぢや。
▲藤六「いや。けうりせん{*2}と申して、これを五体付けの下へ塗りませねば、五体付けが付きませぬ様にござる。
▲シテ「何ぢや。けうりせん{*3}と云うて、五体付けの下へ塗らねば、五体付けが付かぬと云ふか。
▲藤六「左様でござる。
▲シテ「それならばそれと、疾う云はいで。良い頃の手木を持つて来て、つぶりの上へ当てがふによつて、良い肝を潰いた。塗らいで叶はぬものならば、早う塗つてくれい。
▲藤六「畏つてござる。私の初めにお断りを申しませぬが不調法にござる。
は。良うござる。ふつふつ。
▲シテ「それは何ぢや。
▲藤六「これは相しほと申して、これも五体付けの下へ付けませねば、五体付けが付きませぬ。
▲シテ「いかに相しほでも、それはちとむさいなあ。
▲藤六「いづれ綺麗にはござりませぬ。
▲シテ「付けいで叶はずば、早う付けてくれい。
▲藤六「畏つてござる。
は。良うござる。
▲シテ「何と良いか。
▲藤六「中々。
▲シテ「さあ。結うてくれい。
▲藤六「いや。申し。烏帽子髪の難しいは、こゝでござる。前から結ひまする。
▲シテ「何ぢや。前から結ふ。
▲藤六「中々。
▲シテ「それは窮屈さうな事ぢや。
▲藤六「御窮屈にはござりませうが、少しの内の事でござる程に、御堪忍をなされて結はせられたらば良うござらう。
▲シテ「その儀ならば結うてくれい。
▲藤六「畏つてござる。
▲シテ「これは窮屈な事ぢや。
▲藤六「申し。その様に動かせられては結はれませぬ。
▲シテ「小袖上下の模様は。
▲藤六「下には紅梅の御小袖、上には段々の御熨斗目、御上下は浅黄に若松を散らしましたが。はあ。映い合ひが良うござる。
▲シテ「誠に浅黄に若松を散らいたならば、さぞ映い合ひが良からう。
▲藤六「扨、又結ひませう。
▲シテ「又結ふか。
▲藤六「中々。
▲シテ「扨々、これは思うたよりは窮屈な事ぢや。
▲藤六「いや。申し。こなたの様に動かせられては、中々結はるゝ事ではござらぬ。
▲シテ「明日の祝ひ次第を覚えて居るか。
▲藤六「まづ引き渡し燗酒、扨御雑煮でござりまする。
▲シテ「寒い時分ぢやによつて、雑煮の上で五つも七つも呑うで出ずばなるまい。
▲藤六「何が扨、御祝ひさへ済みましたならば、いか程なりとも上げませう。扨、又結ひませう。
▲シテ「はあ。又結ふか。
▲藤六「中々。
▲シテ「扨々、これは手間の取るゝものぢや。
▲藤六「私もゆくゆくはいかやうにも結うて上げませうが、結ひ習ひでござるによつて、ちと手間が取れまする。
▲シテ「これは窮屈な窮屈な。
▲藤六「いや。申し。その様に動かせられて、何と結はるゝものでござるぞ。ちと御堪忍をなされい。
▲シテ「やい。そこな者。
▲藤六「何事でござる。
▲シテ「髪の結ひ様こそあらうずれ、今の様につぶりを取つて押し付くるといふ事があるものか。
▲藤六「私も初めてゞござるによつて、ちと強う当たつた事もござらうわ扨。
▲シテ「いかに初めてぢやと云うて。
▲藤六「いや。申し申し。よう思し召しても御らうぜられい。かねがね私の結ひ習うて置きましたればこそ、明日の御用に立つと申すものでござる。これは御機嫌の悪しうならるゝ処ではござるまい。御機嫌を直いて結はせられたらば良うござらう。
▲シテ「むゝ。汝が云ふ通り、かねてそちが結ひ習うて置いたればこそ、明日の用に立つと云ふものぢや。機嫌の悪しうする処ではあるまい。機嫌を直いて結はうか。
▲藤六「それが良うござらう。最前も申しまする通り、ゆくゆくは良う結ひ習うて、手間の取れぬ様に結うて上げませう。
▲シテ「明日はつゝと晴れな事ぢやによつて、手間の取る分は苦しうない程に、随分念を入れて結うてくれい。
▲藤六「私も随分と念を入るゝ事でござる。
▲シテ「扨、国元ではこの様な事は知らいで、今日か明日かと待ち兼ねて居るであらう。
▲藤六「さぞお待ち兼ねなさるゝでござらう。
▲シテ「戻つてこの様子を話いたならば、さぞ悦ぶであらう。
▲藤六「殊ないお悦びでござりませう。
▲シテ「扨この下六は殊の外遅い事ぢや。
▲藤六「誠に殊の外遅うござる。
▲シテ「但し烏帽子が出来ぬか。
▲藤六「出来ぬと申す事はござるまい。追つ付け取つて戻るでござらう。
▲シテ「何と大方良さゝうなか。
▲藤六「大方良うござる。いゑ。一段と良うござる。
▲シテ「それならば汝は大儀ながら、今から下六が迎ひに行て来い。
▲藤六「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲藤六「はあ。
▲下六「やうやう御烏帽子の出来る時分でござる。取りに参らうと存ずる。まづ急いで参らう。
いゑ。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲烏帽子屋「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲下六「私でござる。何と烏帽子は出来ましてござるか。
▲烏帽「中々。出来てござる。追つ付け出いて進じませう。それに待たせられい。
▲下六「心得ました。
▲烏帽「申し。これでござる。
▲下六「これは良う出来てござる。扨この竹は何とした事でござる。
▲烏帽「それは漆が干ぬによつて、それ故付けてござる。戻らせらるゝ内には乾くでござらう程に、乾いたならば取らせられい。
▲下六「心得ました。扨私はもはやかう参りまする。
▲烏帽「もはやござるか。
▲下六「さらばさらば。
▲烏帽「ようござつた。
▲下六「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと御烏帽子が出来てござる。まづ急いで戻らう。定めて頼うだお方は今か今かとお待ち兼ねなさるゝであらう。持つて戻つてお目に掛けたならば、殊ない御機嫌であらうと存ずる。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。戻つた通り申し上げう。申し。頼うだお方。ござりまするか。下六が戻りましてござる。則ち御烏帽子も出来ましてござる。申し申し。これはいかな事。したゝかに叱つた。すれば御屋形ではないと見えた。扨々これは気の毒な事ぢや。身共は頼うだ人の御屋形を忘れた。これはまづ何としたものであらうぞ。
▲藤六「下六が殊の外遅うござる。迎ひに参らうと存ずる。何をしてこの様に手間を取る事ぢや知らぬ。いゑ。下六。
▲下六「いゑ。藤六。そなたはどれへ行くぞ。
▲藤六「そなたが余り遅いによつて、迎ひに参つた。
▲下六「それはようこそ出ておくりやつたれ。身共はそなたに逢うて面目もない事がある。
▲藤六「それは又いかやうな事ぢや。
▲下六「頼うだ人の御屋形を忘れた。
▲藤六「何ぢや。御屋形を忘れた。
▲下六「中々。
▲藤六「なう。こゝな者。忘るゝ事も事によれ。頼うだ人の御屋形を忘るゝといふ事があるものでおりやるか。
▲下六「近頃面目もおりない。
▲藤六「さあさあ。某に引つ添うておりやれ。
▲下六「心得た。
▲藤六「和御料は届かぬ人ぢや。身共に逢はずばどこ方領もなう尋ぬるであらう。
▲下六「誠に良い処へ来ておくりやつた。そなたに逢はずば方領もなう尋ぬるであらう。
▲藤六「これこれ。来る程にこれが頼うだ人の御屋形でおりやる。
▲下六「誠にこれであつた。
▲藤六「戻つた通り申し上げう。申し。頼うだ人。ござりまするか。藤六。
▲下六「下六。
▲両人「戻りましてござる。
▲下六「則ち御烏帽子も出来ましてござる。
▲両人「申し申し。そりやそりや。
▲藤六「したゝかに叱つたわ。
▲下六「それ。お見やれ。和御料も忘れたの。
▲藤六「面目もない。身共も忘れた。それにつき、そなたや某が出る時分までは、世上に注連飾りがなかつたが、お見やれ。はや門並みにひしと注連飾りをしたによつて、それ故頼うだ人の御屋形が紛らはしうなつて、知れぬ事でおりやる。
▲下六「誠にひしと注連飾りをした処で、紛らはしうなつた事でおりやる。
▲藤六「これはまづ何としたものであらうぞ。
▲下六「されば何として良からうぞ。
▲藤六「某が思ふは、やうやう松囃子の時分なり。その上、頼うだ人は競ふ仁ぢやによつて、この事を囃子物にして行たならば、出させられうと思ふが、何とあらうぞ。
▲下六「これは一段と良からうが、何と云うて囃すぞ。
▲藤六「ありやうに、頼うだ人は信濃の国の住人ぢやによつて、信濃の国の住人、麻生殿のみ内に、処でそなたと某が名を云うて、藤六と下六が主の宿を忘れて、囃子物をして行く。と云うて囃さう。
▲下六「その後へ、げにもさあり、やようかりもさうよの。と云うては何とであらう。
▲藤六「これは一段と良からう。さらばこれへ寄つて囃さしめ。
▲下六「心得た。
▲両人「《囃子物》信濃の国の住人、信濃の国の住人、麻生殿の御内に、藤六と下六が、しゆの宿を忘れて、囃子物をして行く。げにもさあり、やようかりもさうよの、やようかりもさうよの。《何遍も返して》
▲シテ「扨も扨もめでたい事でござる。藤六下六が、某が宿を忘れて、囃子物を致いて参る。めでたい事でござるによつて、急いで内へ呼び入れうと存ずる。
《囃子物》信濃の国の住人、信濃の国の住人、麻生おれが内の者に、藤六と下六が、けらが宿を忘れて、囃子物をして来る。前代のくせ事。
▲両人「《囃子物》藤六と下六が、主の宿を忘れて、囃子物をして行く。
▲シテ「《囃子物》出ばやとは思へども、もつといは取つたり。五体付けは付けたり。こゝなる窓からちよかと見て、入つゝ出つもだえた。
▲両人「《囃子物》主の宿を忘れて、囃子物をして行く。
▲シテ「《囃子物》何かの事はいるまい、内へいつて疾う着せい。
▲両人「《囃子物》げにもさあり、やようかりもさうよの、やようかりもさうよの。
校訂者注
1~3:底本は、「きやうりせん」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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