『能狂言』上 脇狂言05 かくれがさ
▲主「罷り出でたる者は、この辺りに隠れもない大果報の者でござる。
《この名乗り、素袍にてお前掛かりの節は、この通りにて良し。常は「これはこの辺り」と名乗る。下、皆同断》
《この名乗り、素袍にてお前掛かりの節は、この通りにて良し。常は「これはこの辺り」と名乗る。下、皆同断》
天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたのお宝くらべは夥しい事でござる。それにつき、今度は目の前に奇特のある宝物を比べさせられうとの御事でござるが、某が道具の内に、まの前に奇特のある宝があるか、太郎冠者を呼び出し、承らうと存ずる。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「居るか居るか。
▲シテ「はあ。
▲主「居たか。
▲シテ「お前に。
▲主「念なう早かつた。そちを呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたのお道具くらべは、何と夥しい事ではないか。
▲シテ「御意の通り、夥しい事でござりまする。
▲主「それよそれよ。それにつき、今度は目の前に奇特のある宝を比べさせられうとの御事ぢやが、身共が道具の内に、目の前に奇特のある宝物があるか。
▲シテ「御道具は悉く存じて居りまするが、まの前に奇特のある宝と申す物は、つひに見た事もござりませぬ。
▲主「汝が知らずばあるまい。何としたものであらうぞ。
▲シテ「何となされて良うござらうぞ。
▲主「いゑ。都にはあらうか。
▲シテ「何が扨、都にないと申す事がござらうか。都にはござりませう。
▲主「その儀ならば、汝は太儀ながら今から都へ上つて、目の前に奇特のある宝物を求めて来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「早う戻れ。
▲シテ「心得ました。
▲主「ゑい。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せ付けらるゝお方はござらぬ。今から都へ上つて、目の前に奇特のある宝物を求めて来いと仰せ付けられた。まづ急いで参らう。誠に、某も内々都を見物致したいと存ずる処に、この度は良いついでゞござる。こゝかしこを走り廻つて、ゆるりと見物致さうと存ずる。都近うなつたと見えて、殊の外賑やかになつた。いや。何かと云ふ内に、これは早都へ上り着いた。又田舎とは違うて、家建ちまでも格別な。あれからつゝとあれまで、仲良さゝうに軒と軒とをひつしりと建て並べた程にの。これはいかな事。某は不念な事を致いた。目の前に奇特のある宝はどの様な物で、又どこ元にあるをも存ぜぬ。遥々と問ひには戻られまいが。これはまづ何としたものであらうぞ。はあ。さすがは都ぢや。知れぬ事を呼ばゝつて歩けば知るゝと見えた。さらば某もこの辺りから呼ばゝつて参らう。宝買はう。宝買ひす。なうなう。そこ元に目の前に奇特のある宝はござらぬか。ぢやあ。こゝ元にはないと見えた。宝買はう。宝買ひす。これこれ。それに目の前に奇特のある宝はござらぬか。ぢやあ。こゝ元にもないさうな。もそつと上京へ参らう。宝買はう。宝買ひす。なうなう。そこ元に目の前に奇特のある宝はござらぬか。
▲売り手「なうなう。しゝ申し。
▲シテ「やあやあ。こちの事でござるか。何事でござる。
▲売手「いかにも和御料の事ぢや。この広い洛中を、何をわつぱと云うてお歩きやるぞ。
▲シテ「私は田舎者で何をも存ぜぬ。真つ平御免あれ。
▲売手「いや。これこれ。聊爾仰しやると云うて咎むるではおりない。今仰しやつたは何事ぞと申す不審でおりやる。
▲シテ「只今申した事の。
▲売手「中々。
▲シテ「私は田舎者でござるが、頼うだ者が、まの前に奇特のある宝を求めて来いと申し付けましたによつて、それを呼ばゝつて歩きまする。
▲売手「扨、その宝を知つてお尋にやるか。但し知らいでおたづにやるか。
▲シテ「これは都人の仰せとも覚えませぬ。存ずればそれを買はうと申せども、存ぜぬによつて呼ばゝつてありきまする。
▲売手「これは身共が誤つた。扨和御料は仕合せな人ぢや。
▲シテ「いや。仕合せと申して、見えた向きの者でござる。
▲売手「いやいや。身に付いた仕合せではおりない。洛中に人多いといへども、まの前に奇特のある宝を商売する者は、某ならではないによつて、身共にお逢やつたが仕合せぢやと云ふ事ぢや。
▲シテ「すれば私の仕合せでござる。扨、その宝が見たうござるが、見せて下されうか。
▲売手「なんどきなりとも見せておまさう。まづそれにお待ちやれ。
▲シテ「心得ました。
▲売手「さればこそ、田舎者で何をも存ぜぬ。こゝに古い笠がござる。これを宝ぢやと申して売り付け、代物を取らうと存ずる。
なうなう。田舎の。おりやるか。
▲シテ「これに居りまする。
▲売手「そなたは手は綺麗なか。
▲シテ「今朝手水を使うた儘でござる。
▲売手「それはちとむさけれども、まづ戴かしめ。
▲シテ「はあ。これが目の前に奇特のある宝でござるか。
▲売手「不審、尤な。仔細を云うて聞かさう。これへおこさしめ。
▲シテ「心得ました。
▲売手「昔鎮西八郎為朝といふ弓取りがあつたが、定めて和御料も聞き及うだであらう。
▲シテ「承り及うだ弓取りでござる。
▲売手「その為朝の鬼が島へ渡られた時、鬼どもは取つて服せうと云ひ、為朝は、聊爾には服せられまい。何ぞ勝負をして、負けたならば服せられうず。又勝つた事ならば、この島の宝物を取つて帰らうとお約束をなされて、色々勝負をなされたれども、悉く為朝のお勝ちなされ、その時蓬莱の島の隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌、この三つの宝を取つて帰らせられた。程久しい事なれば、蓑と槌とは退転致す。この隠れ笠は、都の重宝にとあつて残し置かれたれども、そなたの余り欲しさうに仰しやるによつて、代物によつて売つてもおまさうかと云ふ事でおりやる。
▲シテ「すれば、承り及うだ隠れ笠は、これでござるか。
▲売手「中々。これでおりやる。
▲シテ「それならば、ちと戴きませう。これへ下されい。
▲売手「それが良からう。
▲シテ「南無宝南無宝。扨、求めたうござるが、代物はいか程でござる。
▲売手「万疋でおりやる。
▲シテ「これはちとかうぢきにはござれども、万疋に求めませう。扨、目の前に奇特と申すは、いかやうな事でござる。
▲売手「その笠を着れば余人の目に見えぬが、奇特でおりやる。
▲シテ「これは奇特な事でござる。その儀ならば、私も奇特が見たうござる程に、こなた着て見せさせられい。
▲売手「さればその事ぢや。それは主を思ふ宝で、そのぬしが着れば見えず、又余の者が着ては見ゆる。もはや和御料へ売つたによつて、そなたが主ぢや程に、和御料着さしめ。身共が見ておまさう。
▲シテ「それはいよいよ重宝でござる。それならば私が着ませう程に、こなた見て下されい。
▲売手「心得た。早う着さしめ。
▲シテ「心得ました。《笠を着て》何と見えまするか。
▲売手「田舎の、田舎の。どれにおりやるぞ。
▲シテ「これに居りまする。
▲売手「これはいかな事。声はすれども少しも見えぬ。田舎の、田舎の。
▲シテ「申し申し。これに居りまする。
▲売手「声は聞こゆれども、いかないかな、少しも見えぬ。
▲シテ「扨々、奇特な宝でござる。ちと取つて見よう。
▲売手「田舎の、田舎の。いゑ。田舎の。
▲シテ「何と見えませぬか。
▲売手「扨々、奇特な事ぢや。そなたの声はすれども、中々見えぬ事でおりやる。
▲シテ「扨々、近頃奇特な宝でござる。扨、私はもはやかう参りませう。
▲売手「もはやおりやるか。
▲シテ「さらばさらば。
▲売手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
なうなう。嬉しや嬉しや。まんまと目の前に奇特のある宝を求めてござる。まづ急いで罷り帰らう。頼うだ人も定めて、さぞお待ち兼ねなさるゝであらう。これを持つて戻り、お目に掛けたならば、殊ない御機嫌でござらうと存ずる。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。まづこれをこゝ元に置いて、戻つた通りを申し上げう。
申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者が戻りました。
▲主「いゑ。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲シテ「ござりまするかござりまするか。
▲主「ゑい。戻つたか。
▲シテ「只今戻りました。
▲主「やれやれ。大儀や。扨、云ひ付けた、まの前に奇特のある宝を求めて来たか。
▲シテ「まんまと求めて参りました。
▲主「出かいた出かいた。早う見せい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やれやれ。才覚な者を使へば、なんどき物を申し付けても、その儘調へて参る。
▲シテ「申し申し。こなたはお手は綺麗にござるか。
▲主「今手水を使うて随分綺麗な。
▲シテ「それならば、ちと戴かせられい。
▲主「汝は都で雨にでも遇うたと見えた。ざれ事をせずと、早う宝物を見せい。
▲シテ「あゝ。勿体ない。南無宝南無宝。
▲主「そちは殊の外信仰するが、それには仔細でもあるか。
▲シテ「中々。仔細がござる。云うて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「《都にて教へたる通り云ふ》都の重宝にとあつて残し置かれたを、私の才覚を以て求めて参りました。
▲主「すれば、聞き及うだ隠れ笠といふは、それか。
▲シテ「中々。
▲主「それならば戴かう。これへおこせ。
▲シテ「心得ました。
▲主「南無宝南無宝。
▲シテ「をゝ。それでこそ良うござる。
▲主「扨、目の前に奇特といふは、いかやうな事ぢや。
▲シテ「その事でござる。この笠を着ますると、余人の目に見えぬが奇特でござる。
▲主「それは一段と奇特ぢや。その儀ならば、汝着て見せい。
▲シテ「いや。それは主を思ふ宝で、そのぬしが着れば見えず、又余の者が着ては見えまする。これはこなたの物でござるによつて、こなた着て見せさせられい。
▲主「それはいよいよ重宝ぢや。その儀ならば身共が着る程に、そち見てくれい。
▲シテ「畏つてござる。早う着させられい。
▲主「心得た。やいやい。太郎冠者。何と見えぬか。
▲シテ「これはいかな事。頼うだ人の着させられたれば、ありありと見ゆる。身共は抜かれたさうな。何と致さう。
▲主「やい。太郎冠者。笠を着たが、何と見ゆるか。
▲シテ「申し。頼うだ人。どれにござるぞ。
▲主「これに居る。
▲シテ「お声は致しまするが、すきと見えませぬ。
▲主「太郎冠者。これに居るが、何と見えぬか。
▲シテ「いやいや。いかやうに致いても見えませぬ。
▲主「扨も扨も、奇特な宝でござる。さらば取つて見よう。
▲シテ「申し。頼うだ人。頼うだお方。
▲主「これに居る。
▲シテ「いゑ。頼うだ人。
▲主「何と見えぬか。
▲シテ「扨々、奇特な宝でござる。お声は致せども、少しも見えませぬ。
▲主「近頃奇特な宝ぢや。何とぞ某も奇特を見たい事ぢや。
▲シテ「御尤ではござれども、この様な御重宝は、早うお蔵へ納めて置きませう。
▲主「いや。まづ待て。身共も奇特が見たい程に、これを汝に貸して遣らうによつて、着て見せい。
▲シテ「貸して下されたと申しても、元がこなたの物でござる処で、見ゆるは必定でござる。
▲主「それならば、そちに遣つた分にせう程に、着て見せい。
▲シテ「遣つた分と申しても同じ事でござる。これはとかくお蔵へ納めて置きませう。
▲主「まづ待て待て。いかに重宝ぢやと云うて、奇特を見ねば宝ではない。是非に及ばぬ。そちに取らする程に、着て見せい。
▲シテ「はあ。これを私へ下さるゝ。
▲主「中々。
▲シテ「近頃忝うはござれども、よう思し召しても見させられい。折角私の遥々都へ上つて、才覚を以て求めて参つた物を、私へ下さるゝと申す事があるものでござるぞ。とかくどうあつても、めでたうお蔵へ納めて置きませう。
▲主「これこれ。今も云ふ通り、何程の宝でも奇特を見ねば役に立たぬによつて、汝に取らする。是非とも着て見せい。
▲シテ「すれば、どうあつても着まするか。
▲主「中々。早う着て見せい。
▲シテ「只今こそ下されたれ、私が着て見えずば、定めて取り返させられう処で、これはお蔵へ納めませう。
▲主「これこれ。見えぬと云うて、一旦遣つた物を何しに取り返すものぢや。気遣ひなしに着て見せい。
▲シテ「すれば、是非とも着まするか。
▲主「中々。
▲シテ「後で欲しがらせらるゝな。
▲主「いかないかな。取り戻す事ではないぞ。
▲シテ「それならば是非に及びませぬ。着ませう。
▲主「早う着て見せい。
▲シテ「心得ました。着まする内、必ずこちを見させらるゝな。
▲主「見る事ではない。
▲シテ「只今着まする。《迷惑がりて、シテ柱の元にて笠を着る》
▲主「そりや、見ゆるわ。
▲シテ「これはいかな事。扨々せはしない。まだ紐も締めぬ内に見させらるゝ。こちから左右を致すまでは、必ず見させらるゝな。
▲主「見る事ではない。早う着て見せい。
▲シテ「心得ました。必ず見させらるゝな。
▲主「何と着たか。
▲シテ「追つ付け着まする。こちを見させらるゝな。
▲主「見はせぬ程に、早う着よ。
▲シテ「只今着まする。《と云うて笠を着て、主の後ろへ行き、屈みて》
申し。笠を着ましてござる。
▲主「太郎冠者。どれに居るぞ。
▲シテ「いや。これに居りまする。《と云うて、屈みて主の後ろを付いて廻る》
▲主「太郎冠者、太郎冠者。
▲シテ「これに居りまする。{*1}
▲主「《主、見付けて》そりや、見ゆるわ。
▲シテ「見えは致すまい。《と云うて、笠で隠す様にする》
▲主「そりや、見ゆるわ。
▲シテ「あゝ。許させられい許させられい。
▲主「おのれ、都でたらされて来た。あの横着者。どれへ行くぞ。やるまいぞやるまいぞ。
校訂者注
1:底本は、「居まする。《主見付けて、》▲主「」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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