『能狂言』上 脇狂言07 よろひ
《名乗り。「隠れ笠」同断。「この度は持ち料の鎧を比べさせられうとの御事でござる」と云うて、太郎冠者を呼び出し、「隠れ笠」同様に云うて、「都へ上り、求めて来い」と云ひ付くる。但し、「ざつくと着てをどす物をも求めて来い」と云ふなり。太郎冠者道行。都へ上り着いて、鎧を呼うでありく処も同断。売り手、常の如く出て、言葉を掛くる。色々云うて、「こゝに鎧の書いた物がある程に、これを鎧ぢやと申して売り付け、代物を取らう」と云ふ》
▲売り手「これが鎧でおりやる。
▲シテ「これが鎧でござるか。
▲売手「中々。鎧でおりやる。ちと戴かしめ。
▲シテ「それには何ぞ仔細でもござるか。
▲売手「夥しい仔細がある。云うて聞かさう。これへおこさしめ。
▲シテ「心得ましてござる。
▲売手「只今は天下治まりめでたい御代なれば、左様の事はなけれども、自然、人の御語らひ勢などに御出なさるゝ時、千騎万騎召し連れられうより、御馬の先にて床机に掛かり、敵の方へ向かひ、この鎧を高らかに読み上ぐれば、いかなる満々たる敵も、夏の蚊や蠅を大団扇で逐ふ如く、又は雪霜に水を掛くる如く、片端よりめつきめつきと滅却致し、その上いかなる悪魔々縁までも、引きしりぞくによつての御重宝でおりやる。
▲シテ「仔細を承れば尤でござる。それならば戴きませう。
▲売手「それが良うおりやる。
▲シテ「南無鎧南無鎧。はゝあ。小桜縅、卯の花縅。
▲売手「そなたは物を書くの。
▲シテ「書くと申す程の事ではござらねども、これ程の事は読めまする。
▲売手「それは一段の事ぢや。
▲シテ「扨、この奥に、秘すべし秘すべし。口伝にあり、とござるが、これはいかやうの事でござるぞ。
▲売手「それは大事の事なれども、教へておまさう。これへおこさしめ。
▲シテ「心得ました。
▲売手「まづ、これをかう頭へ当つれば兜。手へ当つれば籠手。胴へ当つれば胴丸。膝へ当つればすね当て。又これをかう致いて、はらりはらりと巻けば腹巻でおりやる。
▲シテ「尚々重宝でござる。その儀ならば求めませうが、代物はいか程でござる。
▲売手「万疋でおりやる。
▲シテ「余りかうぢきにはござれども、この度は急ぎまするによつて、万疋に求めませう。扨又、頼うだ者が、ざつくと着てをどす物をも求めて来いと申し付けましたによつて、それをも出いて下されい。
▲売手「扨々、和御料は念の入つた買ひ手ぢや。その儀ならば今出いてやらう程に、それに待たしめ。
▲シテ「心得ました。
▲売手「これをやつては夥しい添へなれども、余り気味の良い買ひ手ぢやによつて添へてやる。さりながら、途中で必ずその内を見さしますな。
▲シテ「心得ました。近頃忝うござる。扨、私はもうかう参りまする。
▲売手「もはやおりやるか。
▲シテ「重ねて上つてこのお礼はきつと申しませう。
▲売手「お尋ねに預からう。
▲シテ「さらば、さらば。
▲売手「ようおりやつた。
▲シテ「はあ。
《これより「隠れ笠」同様。戻つてからも同断。「早う見せい」と云うて、シテ柱の元に置いたる鎧の書ばかりを持つて行て》
《これより「隠れ笠」同様。戻つてからも同断。「早う見せい」と云うて、シテ柱の元に置いたる鎧の書ばかりを持つて行て》
申し。こなたは御手は綺麗にござるか。
▲主「今手水を使うて随分綺麗な。
▲シテ「それならば、ちと戴かせられい。
▲主「これへおこせ。
▲シテ「心得ました。
▲主「はあ。汝は子供の方への土産にせうと思うて、手本を求めて来た。ざれ事をせずと、早う鎧を見せい。
▲シテ「あゝ。勿体ない。南無鎧南無鎧。
▲主「そちは殊の外信仰するが、それには仔細でもあるか。
▲シテ「中々。仔細のある事でござる。云うて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲主「心得た。
▲シテ「只今は天下治まりめでたい御代なれば。《後{*1}、都にて云うた通りを云ふなり》
▲主「すれば、いづれもの御重宝なされいで叶はぬ物ぢや。
▲シテ「左様でござる。
▲主「とてもの事に、鎧が聞きたい。床机をくれい。
▲シテ「畏つてござる。は。御床机でござる。
▲主「これへ出い。
▲シテ「心得ました。さあさあ。こなた読ませられい。
▲主「汝読め。
▲シテ「いや。これは床机に掛かつた者の読む事でござる。
▲主「それならば是非に及ばぬ。汝、床机に掛かつて読め。
▲シテ「これは近頃慮外にござるが、さりながら、私の腰を掛くるではござらぬ。鎧の腰を掛けさせらるゝと思し召せ。
▲主「尤ぢや。急いで読め。
▲シテ「下にござれ。
▲主「何とするぞ。
▲シテ「鎧への恐れでござる。
▲主「悉皆、汝が内の者を見る様な。
▲シテ「《語》《書を開きて見ながら語る》初春の、良き緋縅の着背長は、小桜縅となりぬべし。扨又夏は卯の花や、垣根の水に洗ひ革。秋になりてのその色は、いつも軍にかつ色の、紅葉に紛ふ錦革。冬は雪気の空晴れて、兜の星も菊の座も、華やかにこそ縅毛の、思ふ敵を討ち糸や。長く我が名を総角の、いわゐのいへの塵取りて、大筒しゆかい据ゑ並べ、謡酒盛舞ひ遊び、扨物の具はから櫃の、弓は袋を出さずして、釼を箱に納むれば、国も豊かに民栄え、治まる御代となりにけり。秘すべし秘すべし口伝にあり。
▲主「近頃めでたい事ぢや。扨、後の、秘すべし秘すべし口伝にあり、とはいかやうな事ぢや。
▲シテ「これにも習ひがござる。まづこれをかうかしらへ当つれば兜。手へ当つれば籠手。胴へ当つれば胴丸。すねへ当つれば脛当て。又、かやうにはらりはらりと巻けば腹巻になる事でござる。
▲主「仔細を聞けば尤な事ぢや。扨、ざつくと着てをどす物をも求めて来たか。
▲シテ「中々。求めて参りました。
▲主「早う見せい。
▲シテ「畏つてござる。
《と云うて、シテ柱の元へ行き、腰桶の蓋を取り、見て肝を潰し、迷惑して居る{*1}》
《と云うて、シテ柱の元へ行き、腰桶の蓋を取り、見て肝を潰し、迷惑して居る{*1}》
扨々、これは苦々しい事ぢやが、何と致さうぞ。{*2}
▲主「《待ち兼ねて》やいやい。太郎冠者。何をして居るぞ。早う見せい。
▲シテ「畏つてはござりまするが、あれを見させられたならば、定めて怖ぢさせられう程に、これは御無用でござる。
▲主「こゝな者は。何として身共が怖づるものぢや。早う見せい。
▲シテ「必ず怖ぢさせらるゝな。
▲主「いかないかな。怖づる事ではないぞ。
▲シテ「それならば、只今お目に掛けませう。
《と云うて引つ込み、腰桶の内より武悪の面を取り出し、着て、袖にて顔を覆ひて》
《と云うて引つ込み、腰桶の内より武悪の面を取り出し、着て、袖にて顔を覆ひて》
頼うだ人。必ず怖ぢさせらるゝな。
▲主「怖づる事ではない。
▲シテ「いで。喰らはう喰らはう。
▲主「あゝ。許いてくれい許いてくれい。
《一遍廻りもする。逃げながら、太郎冠者の面を主取りて、顔へ当て》
《一遍廻りもする。逃げながら、太郎冠者の面を主取りて、顔へ当て》
いで。喰らはう。
▲シテ「あゝ。《下に居て、片膝突き、手を両方とも上げて》
校訂者注
1:底本は、「迷惑して居る。主待兼て。》▲シテ「扨々是は」。
2:底本は、「何と致うぞ。▲主「ヤイ(二字以上の繰り返し記号)」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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