『能狂言』上 脇狂言08 ふくのかみ
▲一のアド「一日一日と送る程に、はや年の夜になつてござる。毎年福天のお前へ参つて年を取りまする。それにつき、今一人同道致す人がござる。これへ誘うて参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。かう参つても、宿に居らるれば良うござるが。毎年の事でござるによつて、定めて待つて居られうと存ずる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲二のアド「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲一ア「私でござる。
▲二ア「いゑ。こなたの御出を待つて居りました。
▲一ア「定めて左様でござらうと存じました。その儀ならば追つ付けて参りませう。
▲二ア「それが良うござらう。
▲一ア「まづこなたからござれ。
▲二ア「先次第にござれ。
▲一ア「先と仰せらるゝによつて、私から参りませう。
▲二ア「それが良うござる。
▲一ア「さあさあ。ござれござれ。
▲二ア「参りまする。
▲一ア「扨、何と思し召すぞ。毎年福の神のお前で年を取りますれば、次第次第に富貴になる様にござる。
▲二ア「仰せらるゝ通り、福天を信仰致いてより、段々楽しうなる様にござる。
▲一ア「いや。何かと申す内に、これは早お前でござる。
▲二ア「誠にお前でござる。
▲一ア「これへ寄つて拝ませられい。
▲二ア「心得ました。
▲一ア「扨、いつ参つても森々と致いて、殊勝なお前ではござらぬか。
▲二ア「誠に殊勝なお前でござる。
▲一ア「やうやう豆を囃す時分でござるが、こなたには御用意なされてござるか。
▲二ア「私は用意致しませぬ。
▲一ア「その儀ならば、私が用意致いてござるによつて、囃しませう程に、これへ寄つてござれ。
▲二ア「心得ました。
▲両人「福は内へ、福は内へ、福は内へ。《扇開きて打つ真似する》
鬼は外へ、鬼は外へ。福は内へ、福は内へ、福は内へ。
▲シテ「《笑ひながら、一の松まで出る》
▲一ア「いや。これへ御機嫌良う出で立たせられたは、いかやうなお方でござるぞ。
▲シテ「汝らはえ知らぬか。
▲両人「何とも存じませぬ。
▲シテ「毎年毎年奇特に歩みを運ぶによつて、楽しうなして取らせうと思ひ、福の神、これまで現れ出でゝあるぞとよ。
▲一ア「これはありがたうござる。まづかう御来臨。
▲両人「なされて下されい。
▲シテ「心得た。床机をくれい。
▲一ア「畏つてござる。お床机を上げさせられい。
▲二ア「心得ました。はあ。お床机でござる。
▲シテ「両人ともにこれへ出い。
▲両人「畏つてござる。
▲一ア「汝らは、毎年毎年奇特に歩みを運ぶなあ。
▲両人「はあ。
▲シテ「扨、いつも福の神に神酒をくるゝが、今日はなぜにくれぬぞ。
▲一ア「はつたと忘れましてござる。
▲二ア「急いで上げさせられい。
▲一ア「心得ました。はあ。神酒でござる。
▲シテ「これへ注げ。
▲一ア「畏つてござる。
▲シテ「恰度ある。
▲一ア「恰度ござる。
▲シテ「とてもの事に、余の神々へも進上申して取らせう。
▲一ア「それは。
▲両人「ありがたうござる。
▲シテ「南無、日本国中の大神小神、別しては松の尾の大明神、松の尾の大明神。この神酒の余りは福の神が賜らう。
▲一ア「ちと福天へ申し上げたい事がござる。
▲シテ「それはいかやうな事ぢや。
▲一ア「諸天多き中に、別して松の尾の大明神と御賞翫なさるゝは、いかやうな事でござるぞ。
▲シテ「汝はこの仔細を知らぬか。
▲一ア「何とも存じませぬ。
▲シテ「そちも知らぬか。
▲二ア「私も存じませぬ。
▲シテ「神をも信仰する者が、この仔細を知らぬといふ事があるものか。松の尾の大明神は、神々の酒奉行ぢやによつて、これへ進上申さねば、余の神々の受け取らせぬいやい。
▲一ア「はあ。かやうの仔細を。
▲両人「初めて承つてござる。
▲シテ「してして、楽しうなりたいか。
▲一ア「楽しう。
▲両人「なりたうござる。
▲シテ「楽しうなるには元手がいるいやい。
▲二ア「これは福天の仰せとも覚えませぬ。その元手が欲しさに、かやうに。
▲両人「歩みを運ぶ事でござる。
▲シテ「これに福の神、ほうど詰まつた。さりながら、汝らは元手と云へば、金銀米銭の事ぢやと思ふであらうが、常々の心の持ち様ぢや。とてもの事に、楽しうなる様を謡うて聞かさう。よう聞け。
▲一ア「畏つてござる。
▲シテ「汝もよう聞け。
▲二ア「畏つてござる。
▲シテ「《謡》いでいで、このついでに。
▲地「《謡》いでいで、このついでに、楽しうなる様語りて聞かせん。朝起き疾うして慈悲あるべし。人の来るをも厭ふべからず。女夫の中にて腹立つべからず、扨その後に、我らが様なる福天に、いかにもお福を結構して、扨中酒には古酒を、嫌といふ程盛るならば、嫌といふ程盛るならば、嫌といふ程盛るならば、楽しうなさでは叶ふまい。《笑ひて留める》
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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