『能狂言』上 脇狂言09 れんがびしやもん
▲一のアド「罷り出でたる者は、この辺りに住居致す者でござる。今日は初寅でござるによつて、鞍馬へ参詣致さうと存ずる。それに付き、毎年申し合はせて参る人がござる。これへ誘うて参らうと存ずる。かう参つても、内に居らるれば良うござるが。例年の事でござる程に、定めて忘れは致されまいと存ずる。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。《これより「福の神」同断。誘うて鞍馬へ参り、拝をするまで同じ事なり》
いつ参つても森々と致いて、殊勝なお前ではござらぬか。
▲二のアド「中々。殊勝なお前でござる。
▲一ア「さらば通夜を致しませう。
▲二ア「一段と良うござらう。《両人とも寝る》
▲一ア「はあ。あらありがたや。多聞天よりお福を下された。申し申し。
▲二ア「何事でござる。
▲一ア「只今多聞天より福ありの実を下されてござる。
▲二ア「それはめでたい事でござる。さらば私へも配分なされて下されい。
▲一ア「いや。私へ下されたお福でござるによつて、配分致す事はなりませぬ。
▲二ア「これはいかな事。私も例年申し合はいて歩みを運ぶ事でござるによつて、私へも下されぬ事はござるまい。是非とも配分なされて下されい。
▲一ア「その儀ならば連歌を致いて、その上でいかやうとも致しませう。
▲二ア「それが良うござらう。
▲一ア「まづこなたから発句をなされい。
▲二ア「まづこなたからなされい。
▲一ア「その儀ならば出合ひに致しませう。
▲二ア「それが良うござらう。
▲一ア「何とでござらうぞ。
▲二ア「何とが良うござらうぞ。
▲一ア「かうもござりませうか。
▲二ア「はや出ましたか。
▲一ア「毘沙門の。
▲二ア「毘沙門の。
▲一ア「福ありの実と聞くからに、と致しませう。
▲二ア「その儀ならば、鞍馬ぎれにて百足喰ひけり、と付けませう。
▲一ア「これは一段と良うござる。ちと吟じて見ませう。
▲二ア「良うござらう。
▲一ア「《謡》毘沙門の福ありの実と聞くからに。
▲両人「《謡》くらまぎれにてむかで喰ひけり。
▲一ア「いや。御殿の内が震動致し、異香薫じ、只ならぬ体でござる。これへ寄つてござれ。
▲二ア「心得ました。
▲シテ「《一セイ》《謡》毘沙門の光を放つて所から、くらまぎれより顕はれけり。
▲一ア「これへきらびやかに出で立たせられたは、いかやうな。
▲両人「お方でござるぞ。
▲シテ「汝らはえ知らぬか。
▲両人「何とも存じませぬ。
▲シテ「これは毘沙門天なるが、毎年毎年奇特に歩みを運ぶによつて、楽しうなしてとらせうと思ひ、福ありの実を与へたれば、我取らう彼取らうと争ひ、連歌をしたが優しさに、配分をして取らせうと思ひ、多門天、これまで顕はれ出でゝあるぞとよ。
▲一ア「これはありがたうござる。まづかう御来臨。
▲両人「なされて下されい。
▲シテ「心得た。床机をくれい。
▲一ア「畏つてござる。急いでお床机を上げさせられい。
▲二ア「心得ました。はあ。お床机でござる。
▲シテ「両人ともにこれへ出い。
▲両人「畏つてござる。
▲シテ「扨、汝らは毎年毎年、奇特に歩みを運ぶなあ。
▲両人「はあ。
▲シテ「さらば、最前のありの実を配分をして取らせう。これへおこせい。
▲一ア「いや。私の方にはござりませぬ。
▲シテ「それならばそちにあらう。これへ出せ。
▲二ア「いや。私のかたではござらぬ。
▲シテ「身共が前でさへその如く争ふ。確かに汝に渡いた程に、これへおこせい。
▲一ア「その儀ならば上げませう。はあ。ありの実でござる。
▲シテ「これへおこせい。
▲一ア「畏つてござる。
▲シテ「扨も扨も、見れば見る程見事なありの実ぢや程に、やる事はならぬ。
▲一ア「これはいかな事。折角下された物を取り返させらるゝと申す事があるものでござるか。何とぞ配分をなされて下されい。
▲シテ「これは戯れ事。配分をして取らせうが、何ぞ刃物があるか。
▲一ア「いや。何もござりませぬ。
▲シテ「汝は持たぬか。
▲二ア「私も持ちませぬ。
▲シテ「扨々、汝らは不嗜みな者ぢや。それならば是非に及ばぬ。この鉾で割つて取らせうが、鉾で割つたならば定めて錆びるであらうが、その時分に研ぎ賃は出すか。
▲一ア「研ぎ賃程の事は出しませう。
▲シテ「これもざれ事。これは南蛮の鉾と云うて、錆びる鉾ではないやい。
▲両人「はあ。
▲シテ「いでいで。ありの実を割らんとて、なんばの鉾を取り直し、真ん中よりざつくり。はゝあ。二つになつた。まづ汝取れ。
▲一ア「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。そちも取れ。
▲二ア「畏つてござる。
▲シテ「余り見事なありの実で、酢がたまつた。これは毘沙門が{*1}徳分に致さう。扨、最前の連歌はいかにいかに。
▲両人「《謡》毘沙門の、毘沙門の、福ありの実と聞くからに、くらまぎれにてむかで喰ひけり。
▲シテ「《謡》毘沙門、連歌の面白さに。《舞。働き》毘沙門、連歌の面白さに。
▲地「《謡》悪魔降伏打ち払ふ、鉾を汝に取らせけり。
▲二ア「《謡》{*2}あらあらけなりやけなりやな、我にも福をたび給へ。
▲シテ「《謡》欲しがる事こそ尤なれ。
▲地「《謡》欲しがる事こそ尤なれとて、兜を脱いで汝に取らせ、これまでなりとて毘沙門天は、これまでなりとて毘沙門天は、この所にこそ納まりけれ。
校訂者注
1:底本は、「毘沙が」。
2:底本、ここに「《謡》」はない。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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