『能狂言』上 脇狂言12 まつやに

▲亭主「これは、この辺りに住居致す者でござる。毎年今日は松囃子を致す。それにつき、太郎冠者を呼び出し、申し付くる事がござる。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲亭主「居たか。
▲冠者「お前に。
▲亭主「念なう早かつた。汝を呼び出す事、別なる事でもない。例年の通り、今日は松囃子をせうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「一段と良うござりませう。
▲亭主「それならば、汝はいづれもへ使ひに行て来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲亭主「行て云はうは、例年の通り、今日は松囃子を致しまする程に、いづれも御出なされて下されい、と云うて呼びまして来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲亭主「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。
▲亭主「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、めでたい事でござる。今日は松囃子をなさるゝとの御事でござる。それにつき、いづれもへ使ひに行けと仰せ付けられたが、誰殿へ参らうぞ。いゑ。誰殿が近い程に、これから参らう。例年の事でござるによつて、定めてお宿にござらぬと申す事はござるまい。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申。案内申。
▲立頭「表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござる。
▲冠者「私でござる。
▲立頭「そちならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りはせぬぞ。
▲冠者「左様には存じてござれども、もしお客ばしござらうかと存じ、案内を乞ひましてござる。扨、只今参るも別なる事でもござらぬ。頼うだ者申しまする。今日は例年の通り松囃子を致しまする。いづれも御出なされて下されうならば、忝うござる、と申し越しましてござる。
▲立頭「それは御念の入つた事ぢや。例年の事ぢやによつて、いづれも某が所に寄り合うて、御左右が遅いとあつて待つてござる程に、追つ付け同道せうぞ。
▲冠者「すれば、いづれもへ参るには及びませぬか。
▲立頭「中々。行くには及ばぬ程に、先へ戻れ。
▲冠者「その儀ならば、お先へ参りまする。
なうなう。嬉しや嬉しや。足を助かつた。
申し申し。誰殿へ参りましてござれば、いづれも御左右が遅いとあつて、あれへ寄り合はせられて、追つ付けこれへ御出の筈でござる。
▲亭主「何ぢや。寄り合うてござつて、追つ付け御出の筈ぢや。
▲冠者「中々。早これへ御出でござる。
▲亭主「心得た。
▲立頭「申し。いづれもござるか。
▲立衆「これに居りまする。
▲立頭「誰殿より人が参りました。いざ追つ付けて参りませう。
▲立衆「それが良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲立衆「参りまする参りまする。
▲立頭「参る程にこれでござる。
▲立衆「左様でござる。
▲立頭「つゝと通りませう。いづれも通らせられい。
▲立衆「心得ました。
▲立頭「今日はめでたうござる。
▲亭主「これはいづれも揃うて御出下されて、近頃忝うござる。
▲立頭「相変らず召し寄せられて、忝うござる。
▲亭主「扨、私の存じまするは、松脂と申す物はめでたい物でござるによつて、当年は松やにを囃さうと存じまするが、何とでござらうぞ。
▲立頭「これは一段と。
▲立衆「良うござらう。
▲亭主「その儀ならば、これへ寄らせられい。
▲立衆「心得ました。
▲一同「《囃子物》松脂やにや、松脂やにや、松やに脂や、小松やに脂や。
▲シテ「やに脂やにや、松やに脂や。《何遍も返して、一の松まで出るを見て》
▲亭主「いや。あれへ何やら興がつた者が出ました。
▲立頭「誠に何やら出ました。
▲亭主「問うて見ませう。
▲立頭「それが良うござらう。
▲亭主「やいやい。それへ出たは何者ぢや。
▲シテ「これは、松脂の精にて候ふが、めでたい折柄には仙人も山より出で、賢人も出世すると申す処に、我らを御賞翫あつて囃子物になさるゝが嬉しさに、松やにの精、これまで顕はれ出でゝ候ふ。
▲亭主「それは、近頃めでたい事ぢや。まづそれに待ち候へ。
▲シテ「心得て候ふ。
▲亭主「いや。申し申し。松脂の精ぢやと申しまする。
▲立頭「中々。左様に申しまする。
▲亭主「松のめでたい仔細を尋ねませう。
▲立衆「良うござらう。
▲亭主「これこれ。松のめでたい仔細、語つて聞かさしめ。
▲シテ「心得て候ふ。松のめでたいと申す仔細は、一寸伸ぶれば色とこしなへにして、定千年万年の齢を保ち、なんぼうめでたいものにて候ふ。
▲亭主「一段とめでたいものぢや。いや。申し申し。いづれも。
▲立頭「何事でござる。
▲亭主「何と思し召すぞ。めでたいものでもござり、その上いづれも近日的前をなさるゝによつて、私の存じまするは、あの松脂を薬煉に煉りとめうと存じまするが、何とござらう。
▲立衆「一段と良うござらう。
▲亭主「それならばその通り申しませう。
なうなう。
▲シテ「何事でござる。
▲亭主「いづれもの仰せらるゝは、一段とめでたい事ぢやによつて、幸ひいづれもまとまへをなさるゝ程に、くすねに煉りとめて置きたいと仰せらるゝが、何と練りとめられておくりやらうか。
▲シテ「近頃迷惑には存ずれども、その儀ならば煉りとめられて進じませうが、方々の煉らせられたならば、必ず煉り損なはせられう程に、とてもの事、私が煉つて進じませうが、何とござらう。
▲亭主「それは一段の事ぢや。さあらば急いで煉り候へ。
▲シテ「心得て候ふ。
《謡》いでいで薬煉を煉らんとて。《舞。カケリ》いでいでくすねを煉らんとて。
▲地「《謡》薬煉皮を大きに拵へ、この松脂を取り入れて、いかにも粘くあやかれとて、煉りつれてこそ帰りけれ。家を治むる弓の弦、つるに引く{*1}、ためしも久しき松脂かな。

校訂者注
 1:底本は、「家を治(をさむ)る弓の弦(つる)、(二字以上の繰り返し記号)にひく」。

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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