『能狂言』上 脇狂言13 なべやつばち
▲目代「罷り出たる者は、この所の目代でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、国々に市あまたある、中にもこの所御富貴につき、新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早々参り一の店に着いた者を、末代までも仰せ付けられうとの御事でござる。まづこの由を高札に打たう。
一段と良うござる。
▲アド「これは、この辺りに住居致す鞨鼓商売人でござる。《目代の云ひし如く云うて》末代までも仰せ付けられうとの御事でござるによつて、今朝未明より罷り出でた。まづ急いで参らう。誠に、只今こそ鞨鼓商売人を致せ、いちのたなに着いたならば、何を商売致さうとも某が儘でござる。いや。参る程に市場ぢや。扨も扨も夥しい事かな。あれからつゝとあれまで皆市場ぢや。扨、一の店はどこ元ぢや知らぬ。なうなう。嬉しや。一の店にはまだ誰も着かぬ。急いで某が着かう。なうなう。一の店には鞨鼓商売人が着いた程に、鞨鼓の御用ならばこなたへ仰せ付けられいや。まだ夜深な。ちとまどろまうと存ずる。
▲シテ「これは、辺土に住居致す浅鍋売りでござる。天下治まりめでたい御代でござれば、国々に市あまたある、中にもこの所御富貴につき、新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早々参り一のたなに着いた者を、末代までも仰せ付けられうとの御事でござるによつて、今朝未明より罷り出でた。まづ急いで参らう。誠に只今こそかやうのさもしい商売を致せ、一の店に着いた事ならば、金襴緞子どん金{*1}綾錦、何を商売致さうとも某が儘でござる。いや。参る程に市場ぢや。扨も扨も夥しい市場かな。あれからつゝとあれまで皆市場ぢや。扨、一の店はどこ元ぢや知らぬ。これはいかな事。某が随分早いと存じてござれば、はや何者やら一の店に着いた。何と致さう。いや、致し様がござる。やあやあ。一の店には浅鍋売りが着いたによつて、浅鍋の御用ならばこなたへ仰せ付けられいや。まだよぶかな。ちとまどろまう。
▲アド「はあ。よう寝た事かな。いや。これに何者やら寝て居る。やいやいやい。そこな者。
▲シテ「こなたはどなたでござる。
▲アド「某をえ知らぬか。
▲シテ「何とも存じませぬ。
▲アド「身共は鞨鼓商売人ぢやいやい。
▲シテ「何ぢや。鞨鼓商売人ぢや。
▲アド「中々。
▲シテ「牛に食らはれ誑された。目代殿かと思うて良い肝を潰いた。そちが鞨鼓商売人ならば、某は浅鍋売りぢやいやい。
▲アド「おのれさう云うて、そこを退くまいか。
▲シテ「先へ来た某をのけうより、そち退け。
▲アド「そのつれな事を云うて。退かずばために悪からうぞよ。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何とするぞ。
▲アド「目に物を見せう。
▲シテ「それは誰が。
▲アド「身共が。
▲シテ「そちが分で目に物を見せたりとも、深しい事はあるまいぞ。
▲アド「ていとさう云ふか。
▲シテ「おんでもない事。
▲アド「たつた今目に物を見せう。その浅鍋をこの棒で打ち砕いてやらう。
▲シテ「あゝ。出合へ出合へ出合へ。
▲目代「やいやいやいやい。汝らはこのめでたい市の初めに、何者なれば何事をわつぱと云ふぞ。
▲アド「まづこなたはどなたでござる。
▲目代「某は所の目代ぢや。
▲アド「目代殿ならば、まづお礼申しまする。
▲目代「礼には及ばぬ。何をわつぱとは云ふぞ。
▲アド「私は鞨鼓商売人でござるが。《名乗りの通り云うて》今朝未明より罷り出で、一の店に着いてござれば、あれ、あの者が私より後に参つて、先へ来た私に退けと申しまする。それを申し上がつての事でござる。目代殿ならばきつと仰せ付けられて下されい。
▲目代「あれが口をも問はう。まづそれに待て。
▲アド「畏つてござる。
▲目代「やいやい。汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。
▲シテ「こなたはどなたでござる。
▲目代「所の目代ぢや。
▲シテ「目代殿ならば、お礼申しまする。
▲目代「礼には及ばぬ。何事をわつぱと云ふぞ。
▲シテ「私は浅鍋売りでござるが。《名乗りの如く云うて》一の店に着いてござれば、あれ、あの者がいづ方からやら参つて、先へ参つた私に退けと申しまする。それをのくまいと申せば、あのしたゝかな棒を以て、この浅鍋を打ち割らうと致しまする。割られてはなるまいと存じ、それを申し上がつての事でござる。目代殿でござらば、きつと仰せ付けられて下されい。
▲目代「すれば、そちが先へ来たが定か。
▲シテ「中々。私の先へ参つた証拠には、あれより先に居りました。
▲目代「尤ぢや。その通り云はう。それに待て。
▲シテ「心得ました。
▲目代「やいやい。あれが先へ来たと云ふわ。
▲アド「それは、あれが先へ参つたにもなされい。この鞨鼓はつゝと尋常な物で、上つ方、児若衆の弄びになりまする。あの浅鍋は殊の外さもしい物でござるによつて、つゝと市末へ遣らせられい。
▲目代「これは尤ぢや。その通り云はう。まづそれに待て。
▲アド「心得ました。
▲目代「やいやい。今のを聞いたか。
▲シテ「これで承つてござる。成程きやつが申す通り、鞨鼓と申す物は優しい物で、上つ方、児若衆の弄びになりまする。又、この浅鍋はつゝとさもしい物ではござれども、こゝをよう聞いて下されい。この浅鍋を以て朝夕の供御を調へ、上から下に至るまでづらりと進上申し、その上でこそ鞨鼓も八撥もしほろほもいりませうが、いかな児若衆なりとも、朝夕のぐごを参らずば、頤で蠅を追うてござらうと仰せられい。
▲目代「これも尤ぢや。やいやい。今のを聞いたか。
▲アド「中々。承つてござる。その上この鞨鼓の優しい証拠には、詩に載つてござる。
▲目代「何と載つてあるぞ。
▲アド「鞨鼓苔深うして鳥驚かず、と載つてござる。あれが浅鍋にはこの様な事はござるまい。問うて見させられい。
▲目代「心得た。やいやい。あれが鞨鼓は詩に載つてあると云うて、詩を云うて聞かせたが、汝が浅鍋にもその様な事があるか。
▲シテ「あれが鞨鼓が詩に載つてござれば、私の浅鍋は歌に詠うでござる。
▲目代「何と詠うであるぞ。
▲シテ「高き屋に、登りて見れば煙立つ、民の竈は賑はひにけり。忝くも御製でござる。
▲目代「それは確かな事ぢや。
▲シテ「申し。こちへござれ。
▲目代「何事ぢや。
▲シテ「今日これへ持つて参つたは、皆麁相な浅鍋でござる。宿に良い燗鍋がござる。あれをこなたへ進じませう。
▲目代「いやいや。その様な事は御法度ぢや。
▲シテ「いや。苦しうない事でござるがの。
▲目代「いや。ならぬ事ぢや。
やい。これではとかく理非が分からぬ。何ぞ勝負をして、その勝ち負けによつて一の店を云ひ付けうが、勝負には何をするぞ。
やい。これではとかく理非が分からぬ。何ぞ勝負をして、その勝ち負けによつて一の店を云ひ付けうが、勝負には何をするぞ。
▲アド「それならば棒を振りませうが、あれも振るか問うて下されい。
▲目代「心得た。やいやい。何ぞ勝負をして、その勝ち負けによつて一の店を云ひ付けうと云うたれば、棒を振らうと云ふが、そちも振るか。
▲シテ「あれが振らば私も振りませう。まづあれから振れと仰せられい。
▲目代「心得た。あれも振らう程に、まづ汝から振れと云うわ。
▲アド「畏つてござる。《付けてある鞨鼓を取り、棒持ち出いて振るなり》
はあ。振りましてござる。
▲目代「一段と良う振つた。やいやい。あれも振つた程に、汝も振れ。
▲シテ「棒を貸せと仰せられて下されい。
▲目代「心得た。これこれ。棒を貸せと云ふ。
▲アド「そこが勝負の事でござるによつて、銘々の持ち持ちで振れと仰せられい。
▲目代「心得た。やいやい。きやつが云ふは、勝負の事ぢやによつて、銘々の持ち持ちで振れと云ふわ。
▲シテ「いかに持ち持ちでも、この浅鍋を棒には振られますまい。
▲目代「でも、振らねば汝が負けになるぞ。
▲シテ「何ぢや。私が負けになりまする。
▲目代「中々。
▲シテ「それならば是非に及びませぬ。浅鍋を棒に振りませう。
▲目代「それが良からう。
▲シテ「《焙烙持ち出いて、棒に振る》あゝ。危ない事を致しました。
▲目代「一段と良い。やいやい。これでも勝負が分からぬ程に、今一勝負せい。
▲アド「それならば、今度は鞨鼓を打ちませうが、きやつも打つか問うて下されい。
▲目代「心得た。やいやい。今一勝負せいと云へば、鞨鼓を打たうと云ふが、汝も打つか。
▲シテ「あれが打たば私も打ちませう。又、きやつから打てと仰せられい。
▲目代「心得た。その通り云うたれば、打たう程に、又汝から打てと云ふわ。
▲アド「畏つてござる。まづ身拵へ致しませう。
▲目代「それが良からう。
▲アド「はあ。打ちましてござる。
▲目代「一段と良う打つた。さあさあ。汝も打て。
▲シテ「鞨鼓を借せと仰せられい。
▲目代「心得た。又鞨鼓を貸せと云ふわ。
▲アド「扨々、くどい事を申しまする。最前も申す通り、勝負の事でござるによつて、面々の持ち持ちで打てと仰せられい。
▲目代「心得た。やいやい。最前も云ふ通り、勝負の事ぢやによつて、面々の持ち持ちで打てと云ふわ。
▲シテ「それならば是非に及びませぬ。又浅鍋を鞨鼓に打ちませう。
▲目代「それが良からう。
▲シテ「まづ身拵へを致しませう。
▲アド「いや。申し申し。
▲目代「何事ぢや。
▲アド「最前から何を貸せかを貸せと申せども、何をひと色貸しませぬ。定めて心ない者ぢやと存じませう程に、この撥を貸すと仰せられい。
▲目代「心得た。何と身拵へは良いか。
▲シテ「一段と良うござる。
▲目代「きやつが云ふは、最前から何を貸せかを貸せと云へども、何を一色も貸さぬ。定めて心ない者ぢやと思ふであらう程に、この撥を貸すと云ふわ。
▲シテ「扨はきやつが心が直つたものでござらう。礼を申しませう。
▲目代「それが良からう。
▲シテ「なうなう。今は撥を貸しておくりやつて、近頃満足致す。
▲アド「礼までもない。早うお打ちやれ。
▲シテ「はあ。危ない。すでに浅鍋を打ち割らうと致しました。
▲目代「その通りであつた。
▲シテ「こゝに打ち物がござるによつて、今度は相打ちにせうと仰せられい。
▲目代「心得た。やいやい。打ち物があるによつて、今度は相打ちにせうと云ふわ。
▲アド「畏つてござる。
▲目代「両人ながらこれへ出い。
▲両人「心得ました。《又相打ちにして、仕舞ひにアドは車返りして引つ込むを、篤と見て、大臣柱の方へ行き、撥を捨てゝ色々して見ても出来ぬ故、うなづきて片々づゝ手を突き、シテ柱の方へ返り来て、名乗座にて腹這ひして焙烙を割るなり》
▲シテ「はゝあ。数が多うなつてめでたうござる。《と云うて留める。又、「しないたるなりかな」と云うて{*2}、紐付いたを取つて投げても留める。自然割れぬ時は、「扨々、これは堅い鍋ぢや。これは身共が交割物に致さう」と云うて留める》
《シテ、「あゝ。危ない。すでに浅鍋を打ち割らうと致しました」と云うて撥を捨つる時、アド「さうもおりやるまい」と云うて、撥を取るなり》
校訂者注
1:底本は、「純金(どんきん)」。
2:底本は、「又形りかなと云て」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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