『能狂言』上 脇狂言17 もちさけ
▲アド「罷り出でたる者は、加賀の国のお百姓でござる。毎年御年貢と致いて、上頭へ実相坊の菊の酒を大晦日境に持つて上り、元朝のお祝ひに捧げまするが、去年は木の芽峠の大雪に支へられ、当年まで遅なはつてはござれども、うへとうはいつもお正月ぢやと申すによつて、持つてのぼつても苦しうあるまいと存じ、只今持つて上る処でござる。《道行。「筑紫の奥」同断。連れを待つ処も同様》
▲シテ「罷り出でたる者は、越前の国のお百姓でござる。毎年み年貢と致いて、上頭へ円鏡をおほつごもりざかひに持つて上り。《これよりアドの名乗りと同断。道行は「筑紫の奥」と同断。言葉を掛くる処より、御舘へ着く処まで、「三人夫」などゝ{*1}同様。シテより国を尋ね、アドよりシテへ尋ぬる時、「まづ隣の者ぢや」と云ふ。その他は変りなし。アドより先へ納むる。奏者同前》
▲アド「物申。頼みませう。こゝ元ではないさうな。もそつと奥へ持つて参らう。物申。頼みませう頼みませう。
▲奏者「やいやいやい。
▲アド「や。こなたは誰ぢや。
▲奏者「今日の奏者です。
▲アド「はあ。廃忘致いた。真つ平御免あれ。
▲奏者「あのうろたへ者。何者なればお前近う参るぞ。
▲アド「《名乗りの通り云うて》お奏者のお心入れを以て、納めさせられて下されうならば、忝う存じまする。
▲奏者「御序を以て申し上げて取らせう。御蔵の前へ持つて参れ。
▲アド「はあ。
なうなう。越前{*2}の国の。おりやるか。
▲シテ「これに居る。何と上げさしましたか。
▲アド「中々。上げておりやる。お奏者はつゝと奥にござる。この様な所で百姓のおめたは見苦しいものぢや。おめず臆せず、つゝかけて持つておりやれ。
▲シテ「心得た。《アドの通り。奏者同断。納めてアドを呼び出し、「よう誑いた」と云ふ。「扨、御暇を申し上げう」と云ふ時》
▲奏者「やいやい。両国のお百姓。召すわ。
▲シテ「や。召すとある。つゝと御出やれ。
▲アド「心得た。
▲両人「両国のお百姓。お前に。
▲奏者「仰せ出さるゝは、去年持つて参るみ年貢を、当年まで遅なはる事、くせ事に思し召す。さりながら、上頭はいつもお正月ぢやと祝ひました処で、御免なさるゝ。さうあれば、折節おうたのぎょくわいに持つてのぼり合はせたによつて、両国の御年貢によそへ、こぞ今年を折り入れ、歌を一首づゝ詠みませいとの御事ぢや。
▲アド「はあ。これは迷惑に存じまする。
▲シテ「これはありがたうござる。
▲奏者「いや。一人は迷惑と云ひ、又いち人はありがたいと云うたが、まづ汝は何と聞いたぞ。
▲アド「まづ私の承つてござるは。《奏者の云うた通りを云うて》歌を一首づゝ詠みませいとの御事かと承つて、それ故迷惑なと申し上げましてござる。
▲奏者「その通りぢや。又、汝は何と聞いた。
▲シテ「はあ。違ひましてござる。
▲奏者「何と違うた。
▲シテ「私の承つてござるは。《初めは奏者の云うた通りを云うて》折節、御歌の御会に持つて上り合はせたによつて、両国の御年貢を私一人に下さるゝと承つて、それ故ありがたいと申し上げました。
▲奏者「いやいや。さうではない。あの者の聞いた通りぢや。急いでお受けを申せ。
▲アド「何とそれがありがたいか。
▲シテ「お詫び言を申さう。
▲アド「それが良からう。
▲シテ「百姓の事でござれば、つひに歌などを詠うだ事はござらぬ。何とぞ。
▲両人「ご許されて下されい。
▲奏者「いやいや。一旦仰せ出された事は、綸言汗の如くで、翻す事はならぬ。
▲アド「扨は、翻す事はなりませぬか。
▲奏者「中々。ならぬ事ぢや。
▲アド「その儀ならば、畏つてござる。
▲シテ「これこれ。和御料は早お受けを申したか。
▲アド「はて。翻す事はならぬと仰せらるゝ。
▲シテ「いかい歌詠みの。
▲奏者「やいやい。汝はなぜにお受けを申さぬぞ。
▲シテ「あれが畏つてござらば、私は心得ましてござる。
▲奏者「扨々、すねた事を云ふ者ぢや。いづれからなりとも早う詠め。
▲アド「私から詠みませう。
▲奏者「汝から詠め。
▲アド「何とでござらうぞ。
▲奏者「何とであらうぞ。
▲アド「かうもござりませうか。
▲奏者「早出たか。
▲アド「呑みふせる。
▲奏者「呑みふせる。
▲アド「酔ひの紛れに年一つ。
▲奏者「年一つ。
▲アド「打ち越し酒の二年酔ひかな。と仕りませう。
▲奏者「一段とよう詠うだ。さあさあ、汝も詠め。
▲シテ「歌と申すものは、あの様なものでござるか。
▲奏者「中々。
▲シテ「左様ならば、最前から詠みませうものを。
▲奏者「早う詠め。
▲シテ「呑みふせる。
▲奏者「呑みふせる。
▲シテ「酔ひの紛れに年一つ。
▲奏者「やいやい。それはあの者が詠うだ歌ぢや。
▲シテ「すれば、同じ歌はなりませぬか。
▲奏者「中々。ならぬ。汝が御年貢によそへて詠め。
▲シテ「それならば、ちと案じて見ずばなりますまい。
▲奏者「それはいかやうにしてなりとも、早う詠め。
▲シテ「何とでござらうぞ。
▲奏者「何とが良からうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲奏者「はや出たか。
▲シテ「年の内に。
▲奏者「年の内に。
▲シテ「餅は搗きけり一年を。
▲奏者「ひとゝせを。
▲シテ「去年とや食はん今年とや食はん。と仕りませう。
▲奏者「汝も一段とよう詠うだ。その通り申し上げて取らせう。
▲両人「はあ。
▲奏者「両国のお百姓、歌、かくの如く。はあはあ。
やいやい。
▲両人「はあ。
▲奏者「お笑ひ草と思し召し仰せ出された処に、百姓のなりにも似せずよう詠みましたとあつて、御感なさるゝ。さうあれば、前々はない事なれども、万雑公事を御免なさるゝとの御事ぢや。
▲両人「や。万雑公事を御免なさるゝ。
▲奏者「その通りぢや。
▲両人「この様な事を承れば、心がくわつくわつと致す。
▲奏者「やいやいやいやい。汝らはむさとした。お前近うくわくわらめいたとあつて、御機嫌が損ねた。今度は今の過怠に、又御年貢によそへ、大きな歌を一首づゝ詠めとの御事ぢや。急いでお受けを申せ。
▲シテ「そなたがくわくわらめいた。
▲アド「いや。和御料がくわくわらめいた。
▲奏者「論は無益。急いで詠みませい。
▲シテ「最前のさへござるに、何とぞ御免なされて下されい。
▲奏者「いやいや。最前も云ふ通り、翻す事はならぬ。早う詠め。
▲シテ「それならば。
▲両人「畏つてござる。
▲アド「又私から詠みませう。
▲奏者「それが良からう。
▲アド「何とでござらうぞ。
▲奏者「何とが良からうぞ。
▲アド「かうもござらうか。
▲奏者「早出たか。
▲アド「盃は。
▲奏者「盃は。
▲アド「空と土とのあひの物。
▲奏者「間のもの。
▲アド「富士をづきすのはうにこそ呑め。と致しませう。
▲奏者「一段と大きな歌ぢや。
▲シテ「いや。申し申し。
▲奏者「何事ぢや。
▲シテ「扨々、きやつは大きな歌を詠みました。富士をはうの物に譬へましてござる。
▲奏者「その通りぢや。
▲シテ「私もあの様な大きな歌が詠みたうござる。
▲奏者「汝も随分大きな歌を詠め。
▲シテ「何とでござらうぞ。
▲奏者「何とであらうぞ。
▲シテ「かうもござらうか。
▲奏者「早出たか。
▲シテ「大空に。
▲奏者「大空に。
▲シテ「憚る程の餅もがな、生けらう一期かぶり食らはん。と仕りませう。
▲奏者「これも殊の外大きな歌を詠うだ。その通り申し上げて取らせう。
▲両人「はあ。
▲奏者「両国のお百姓、大きな歌、かくの如く。はあはあ。
やいやい。
▲両人「はあ。
▲奏者「一段と大きな歌を詠うだとあつて、御感に思し召す。さうあれば、これもぜんぜんはなけれども、お通りを下さるゝ。三献づゝたべて、洛中を舞ひ下がりに致せとの御事ぢや。
▲シテ「これは。
▲両人「ありがたうござる。
▲奏者「則ち、身共が酌をして取らせう。
▲シテ「これは慮外にござる。
▲奏者「まづ汝から呑め。
▲シテ「私からたべませう。
▲奏者「恰度ある。
▲シテ「恰度ござる。
▲奏者「汝も呑め。
▲アド「これは慮外にござる。
▲奏者「恰度ある。
▲アド「誠に恰度ござる。
▲シテ「結構な御酒でござる。今一つたべませう。
▲奏者「それが良からう。
▲アド「私も今一つたべませう。
▲奏者「今一つ呑め。
▲シテ「めでたう三献たべませう。
▲奏者「それが良からう。
▲アド「私も数良う三献たべませう。
▲奏者「めでたうそれが良からう。扨、追つ付け御暇を下さるゝ程に、洛中を舞ひ下がりに致せ。
▲シテ「又明年参つて。
▲両人「お目に掛かりませう。
▲奏者「又明年逢はうぞ。
▲両人「もうかう参りまする。
▲奏者「もう行くか。
▲両人「さらばさらば。
▲奏者「よう来た。
▲両人「はあ。
▲シテ「なうなう。
▲アド「何事ぢや。
▲シテ「御年貢は納むる。万雑公事は御免なさるゝ。その上お通りまでを下されたは、国元への良い土産ではないか。
▲アド「仰しやる通り、良い土産でおりやる。
▲シテ「急いで和歌を上げさしめ。
▲アド「心得た。
《謡》松の酒屋や梅壺の、柳の酒こそすぐれたれ。
▲シテ「《謡》としどしに、つき重ねたる舞の袖。
▲両人「《謡》返す袂やねつすらん。《三段の舞》
やらんめでた。そもそも酒は百薬の長として寿命を延ぶ。その上酒に十の徳あり。旅行に慈悲あり、寒気に衣あり、推参に便りあり。扨又、餅は万民に用ゐられ、白金黄金所領もち、白金黄金所領の上に、栄ゆる御代こそめでたけれ。
やあ。ゑいや。やあ。
校訂者注
1:底本は、「など同様」。
2:底本は、「加賀の国の」。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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