『能狂言』上 脇狂言18 がんかりがね
▲アド「罷り出でたる者は、津の国のお百姓でござる。毎年御年貢と致いて、上頭へ初雁を捧げまする。又当年も持つて上らうと存ずる。《道行その他「餅酒」同断》
▲シテ「罷り出でたる者は、和泉の国のお百姓でござる。毎年み年貢と致いて、うへとうへはつがんを捧げまする。又当年も持つてのぼらうと存ずる。《道行その他同前。言葉を掛け、一遍廻りてシテより国を問ふ。アド名乗りの通り云うて聞かする時》
すれば、和御料は津の国のお百姓ぢやまで。
▲アド「中々。
▲シテ「扨、御年貢には初雁を上げさしますの。
▲アド「その通りでござる。
▲シテ「ちとお待ちやれ。
▲アド「心得ました。
▲シテ「これはいかな事。某が初雁を上げうと存じてござれば、きやつも上ぐると申す。何と致さう。いや。出し抜いて上げうと存ずる。
▲アド「いや。申し申し。
▲シテ「やあやあ。
▲アド「こなたは又、どれから都へは上らせらるゝぞ。
▲シテ「身共は和泉の国のお百姓でおりやるが、毎年上頭へ御年貢を捧ぐる。又当年も持つて上る処でおりやる。
▲アド「すれば、そなたは和泉の国のお百姓ぢやまで。
▲シテ「中々。
▲アド「扨、御年貢には何を上げさしますぞ。
▲シテ「それは、所の名に指されて上るによつて、御舘へ着かねば知れぬ事でおりやる。
▲アド「扨々、それは不念な事でおりやるの。
▲シテ「その通りでおりやるとも。《これより又「餅酒」などゝ同断。御舘へ着いて、アドより「時のお奏者で上ぐるか。但し定まつてあるか」と云ふ時、「某は定まつてある程に、身共から上げて参らう」と云つて、シテより上ぐる》
▲アド「それならば、上げて渡しめ。
▲シテ「心得た。《常の通り云ひ、納めて》
なうなう。津の国の。おりやるか。
▲アド「これに居る。何と上げさしましたか。
▲シテ「某は初雁を上げておりやる。
▲アド「ようおりやる。これはいかな事。某が初雁を上げうと存じてござれば、きやつが上げたと申す。何と致さう。いや。名を変へて上げうと存ずる。《常の通り云うて納むる。但し「初がん」と云ふ処を「初かりがね」と云ふばかりの違ひなり》
なうなう。和泉の国の。おりやるか。
▲シテ「これに居る。何と上げさしましたか。
▲アド「まんまと上げておりやる。
▲シテ「それならばお暇を申し上げう。
▲アド「一段と良からう。{*1}
▲奏者「《常の如く伺うて》やいやい。両国のお百姓。召すわ。
▲シテ「や。召すとある。
▲アド「その通りぢや。
▲シテ「急いで御出やれ。
▲アド「心得た。
▲両人「両国のお百姓。お前に。
▲奏者「仰せ出ださるゝは、両国ともに同じ日の同じ時に持つて参る事、神妙に思し召す。さうあれば、同じ鳥を一人は雁と云ひ、今いち人は雁金と申し上げたが、仔細があらば申し上げいとの御事{*2}ぢや。
▲シテ「そなたはがんに烏帽子を着せたか。
▲アド「和御料は雁金に元服させたか。
▲奏者「やいやい。論はむやく。急いで申し上げい。
▲両人「畏つてござる。
▲アド「私から申し上げませう。
▲奏者「それが良からう。
▲アド「身共から申し上げう。
▲シテ「早う申し上げさしめ。
▲アド「扨も、住吉の神主国基の御歌に、薄墨に書く玉章と見ゆるかな、霞める空に帰る雁金。仙洞これを聞こし召し、それより住吉の神主を薄墨の神主と名付け給ふ。又或る詩に曰く、風白浪を翻へせば花千片、雁青天に点じ字一行{*3}。月は都花は越路やまさるらん、秋来て春は帰る雁金。その他、雲井の雁、上の空のかりがねとこそ候へ。いづれの詩歌にも、やはかゞんとは候ふまい。
▲奏者「一段とよう申し上げた。さあさあ。汝も申し上げい。
▲シテ「私はがんをがんと申し上げましたによって、仔細を申し上ぐるには及びませぬが、こゝに雁についてめでたい物語がござる。これを申し上げませう。
▲奏者「早う申し上げい。
▲シテ「《語》扨も八幡太郎義家。
▲アド「なう。そこな人。
▲シテ「何事ぢや。
▲アド「お前で制言は無益でおりやる。
▲シテ「まづお聞きやれ。《語》
安倍の貞任ご追伐のため、吾妻へ下り給ふ。武蔵野を御通りありし時、雁ひと群つら羽を乱す。つはもの野に伏す時は、飛雁つらをや乱すらんといふ語の心を思し召し、扨はこの野に敵籠れり。急ぎ捜せとありしかば、とある所に敵籠り居たるを捜し出し、討ち取り平らげ、天下一統の御代となし給ふも{*4}、ひとへに雁の威徳なり。又秦の始皇殿には、雁門なくては住みがたしと見えたり。蘇武が胡国にありし時、雁に文を言付くる。それより文を雁書といひ、使ひは雁使と名付くるなり。その他、帰雁そ雁平沙の落雁とこそ候へ。いづれの詩歌にも、帰かりがねの、そ雁金のと申す事は候ふまい。
▲奏者「一段とよう申し上げた。その通り申し上げてとらせう。
▲両人「はあ。
▲奏者「両国のお百姓、仔細かくの如く。はあはあ。
やいやい。
▲両人「はあ。
▲奏者「仰せ出さるゝは、一段とよう申し上げたとあつて、御感なさるゝ。さうあれば、前々はない事なれども、お通りを下さるゝによって、三献づゝたべて洛中を舞ひ下がりにせいとの御事ぢや。
▲両人「これはありがたうござる。《これより「餅酒」の如く、三献づゝ呑ませ、両国とも暇乞ひして、奏者引つ込む。諸事「餅酒」同前》
▲シテ「なうなう。
▲アド「何事でおりやる。
▲シテ「何と思はしますぞ。御年貢は納むる、お通りまでを下されたは、何と国元への良い土産ではおりないか。
▲アド「仰しやる通り、良い土産でおりやる。
▲シテ「急いで和歌を上げさしめ。
▲アド「心得た。《謡》
雁金の、翼や文字を習ふらん。
▲両人「《謡》帰雁つらをや乱すらん。《三段の舞》
やらやらめでたや、めでたやな。いづれの詩歌を引き合はすれど、がんかりがね、雁金と云ふも同じ名、かりがねと云ふも同じ名なれば、雁くひになるこそめでたけれ。
やあ。ゑいや。やあ。
校訂者注
1:底本は、「一段と能(よか)らう。《奏者常のごとくうかゝふて、》▲奏者「」。
2:底本は、「申上いとの事じや」。
3:底本は、「風翻白浪花千片(かぜはくらうをひるがへせばはなせんべん)。雁点青天字一行(かりせいてんにてんじじいつかう)。」。
4:底本は、「成し給ふと」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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