『能狂言』上21 脇狂言 ぎうば

▲目代「これは、この所の目代でござる。天下治まりめでたい御代なれば、国々に市あまたある、中にもこの所御富貴につき、牛馬の新市をお立てなされ、何者にはよるまい、早々参り一の杭に繋いだ者を、末代までも仰せ付けられうとの御事でござる。まづこの由を高札に打たう。
一段と良うござる。
▲アド「罷り出でたる者は、この辺りに住居致す馬口労でござる。《目代名乗りの通り云うて》末代までも仰せ付けられうとの御事でござるによつて、今朝未明より罷り出でた。まづ急いで参らう。誠に、一の杭に繋いだならば、子々孫々までも楽々と暮らさるゝ事でござる。いや。何かと申す内に、はや市場ぢや。扨も扨も夥しい事かな。扨、一の杭はいづ方ぢや知らぬ。なうなう。嬉しや。これが一の杭ぢやが、まだ誰も繋がぬ。急いで某が繋がう。いや。なうなう。一の杭には馬口労が繋いだ程に、馬の御用ならばこなたへ仰せられいや。まだ夜深な。ちとまどろまうと存ずる。《「鍋八撥」の如く寝る》
▲シテ「罷り出でたる者は、この辺りに住居致す牛博労でござる。《目代の如く云うて》末代までも仰せ付けられうとの御事でござるによつて、今朝未明に罷り出でた。まづ急いで参らう。誠に、只今こそ牛博労を致せ、一の杭に繋いだならば、後には牛馬ともに商売致さうとも、身共が儘でござる。いや。参る程に、早市場ぢや。扨も扨も夥しい事かな。あれからつゝとあれまで、皆市場ぢや。扨、一の杭はどこ元ぢや知らぬ。これはいかな事。随分某が早いと存じてござれば、早何者やら繋いだ。何と致さう。いや、致し様がござる。《「鍋八撥」の如くに先出して置く》
なうなう。一の杭には牛博労が繋いだ程に、牛の御用ならばこなたへ仰せられいや。まだ夜深な。ちとまどろまうと存ずる。《と云うて寝る》
▲アド「あゝ。よう寝た。いや。これに何者やら寝て居る。やいやいやいやい。
▲シテ「はあ。こなたはどなたでござる。
▲アド「某をえ知らぬか。
▲シテ「何とも存じませぬ。
▲アド「身共は馬口労ぢやいやい。
▲シテ「何ぢや。馬口労ぢや。
▲アド「中々。
▲シテ「身共は目代殿かと思うて、良い肝を潰いた。そちが馬口労ならば、某は牛博労ぢやいやい。
▲アド「おのれさう云うて、そこを退くまいか。
▲シテ「先へ来た某をのけうより、そち退け。
▲アド「そのつれな事を云うたらば、ために悪からうぞ。
▲シテ「ために悪からうと云うて、何とする。
▲アド「目に物を見せう。
▲シテ「それは誰が。
▲アド「身共が。
▲シテ「そちが分として、深しい事はあるまいぞ。
▲アド「ていとさう云ふか。
▲シテ「おんでもない事。
▲アド「悔やまうぞよ。
▲シテ「何の悔やまう。
▲アド「たつた今目に物を見せう。おのれ、この馬に踏ませてやらう。踏め踏め踏め。
▲シテ「負くる事ではない。突け突け突け。
▲両人「はあ。出合へ出合へ出合へ出合へ。
▲目代「やいやいやい。汝らはこのめでたい市の初めに、何事をわつぱと云ふぞ。
▲アド「こなたはどなたでござる。
▲目代「所の目代ぢや。
▲アド「目代殿ならば、まづ御礼申しまする。
▲目代「礼には及ばぬ。何をわつぱと云ふぞ。
▲アド「《名乗りの通り云うて》今朝未明より罷り出で、一の杭に繋いでござれば、あれ、あの者が私より後に参つて、先へ参つた私にのけと申しまする。それを申し上がつての事でござる。目代殿ならば、きつと仰せ付けられて下されい。
▲目代「あれが口をも問はう。まづそれに待て。
▲アド「畏つてござる。
▲目代「やいやい。何者なればわつぱとは云ふぞ。
▲シテ「こなたはどなたでござる。
▲目代「所の目代ぢや。
▲シテ「目代殿でござらば、御礼申しまする。
▲目代「礼には及ばぬ。何事をわつぱと云ふぞ。
▲シテ「《名乗りの通り云うて》今朝未明より罷り出で、一の杭に繋いでござれば、あれ、あの者が私より後に参つて、先へ来た私に退けと申しまする。それをのくまいと申せば、あの馬に踏ませうと致しまする。踏まれてはなるまいと存じて、それを申し上がつての事でござる。目代殿でござらば、きつと仰せ付けられて下されい。
▲目代「すれば、汝が先へ来たが定か。
▲シテ「中々。一定でござる。
▲目代「まづそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲目代「やいやい。あれが先へ来たと云ふわ。
▲アド「私が先へ参つたは定でござれども、それはあれが先へ参つたにもなされませい。まづこなたもよう思うても見させられい。このめでたい市の初めに、何とあの様なさもしい牛が、一の杭に繋がるゝものでござるぞ。この馬はつゝと珍重なもので、笠懸けの、駒競べのと申して、上つ方児若衆のもて遊びにもなるものでござる。牛をばつゝと市末へ遣らせられい。
▲目代「これは尤ぢや。その通り云はう。それに待て。
▲アド「心得ました。
▲目代「やいやい。今のを聞いたか。
▲シテ「これで承つてござる。誠にきやつが申す通り、馬と申すものはと珍重なものでござる。又、この牛はさもしいものではござれども、こゝをよう聞かせられい。この牛を以て田畑を耕作致し、上から下に至るまで朝夕の供御を進じまする。その上でこそ、笠懸けも駒競べもなりませうが、いかな児若衆なりとも、朝夕のぐごを参らずば、頤で蠅を追うてござらうと仰せられい。
▲目代「これも尤ぢや。やいやい。今のを聞たか。
▲アド「中々。これで承つてござる。その上この馬の優しい証拠には、夥しい仔細がござる。
▲目代「云うて聞かせい。
▲アド「心得ました。《語》
それ馬は、馬頭観音の化身として、仏の説きし法の道、月支国より漢土まで、馬こそ負ひて渡るなれ。周の穆王の八匹の駒、楚の項羽の望雲騅、安禄山の驊騮なんどは、いづれも千里を駈くるなり。又管仲は旅に発ち、俄かに大雪ふる里に、帰らん道を忘れつゝ、馬を放つてその跡を、しるべとしつゝ帰りしも、馬の徳とぞ聞こえける。扨日の本に名を得しは、天の斑駒初めとし、光源氏の大将も、馬に稲飼ふ須磨の浦、暁なんれう木の下や、夜目無し月毛鬼足毛。源太佐々木が名を上げし、生食磨墨太夫黒。雲の上には望月の、駒迎へせし逢坂の、小坂の駒も心して、引くや白馬の節会にも、牛の練り入る例なし。仏の前には絵馬を掛け、神には立つる幣の駒。胡馬北風にいばふれば、悪魔はくわつと退ぞきて、めでたき事を競ひ馬。又ある歌に、逢坂の、関の清水に影見へて、今やひくらん望月の駒。とこそ云へ。やはか牛とは候ふまい。
▲目代「一段とよう云うた。まづそれに待て。
▲アド「心得ました。
▲目代「やいやい。馬には夥しい仔細があると云うて、云うて聞かせたが、汝が牛にも何ぞ仔細があるか。
▲シテ「馬に仔細あれば、牛にも仔細がござる。云うて聞かせませう。よう聞かせられい。
▲目代「心得た。
▲シテ「《語》それ牛は、大日如来の化身として、牽牛織女と聞く時は、七夕も牛をこそ寵愛し給ふなれ。恵山和尚と云つし人、我が身を牛になしてこそ、異類の法を見せしむれ。許由といへる賢人は、王になれとの勅を受け、耳を洗ひし水をだに、巣父は牛に飼はざりし。仏の作る十牛や、法の花咲く牛の子の、桃林の春も面白や。今は昔に業平の、丑満つまでの御契り、さこそ心をつくし牛。野飼ひの牛のひと声も、草刈り笛にや紛ふらん。されば牛も心あればこそ、風枯木を吹けば晴天の雨《引》と牝牛吟ずる声を、牡牛聞いて、月平砂を照らせば夏の夜の霜《引》と、この両牛の声を得て、朗詠にも作られたり。忝くも天神の御詠歌に、牛の子に、踏まるな庭の蝸牛、角ありとても身をな頼みそ。とこそ候へ。やはか、馬に踏まるなとは候ふまい。その上、一天の君も、牛に牽かれてこそ行幸あれ。馬に召されて行幸あつたる例は候ふまい。
▲目代「一段とよう云うた。まづそれに待て。
▲シテ「心得ました。
▲目代「やいやい。これでは理非が分からぬによつて、何ぞ勝負をして、勝ち負けによつて一の杭を云ひ付けうと思ふが、勝負には何をするぞ。
▲アド「それならば駒競べを致しませうが、きやつも致すか問うて下されい。
▲目代「心得た。やいやい、これでは理非が分からぬによつて、何ぞ勝負をせいと云へば、駒競べをせうと云ふが、そちもするか。
▲シテ「いや。これはなりますまい。
▲目代「それはなぜに。
▲シテ「あの馬は速いものでござる。又、この牛は遅いものでござるによつて、私の負けになるは必定でござる。
▲目代「でも勝負をせねば、汝が負けになるぞ。
▲シテ「何ぢや。私の負けになりまする。
▲目代「中々。
▲シテ「それならば是非に及びませぬ。駒競べを致さうと仰せられい。
▲目代「心得た。やいやい。あれも駒競べをせうと云ふわ。
▲アド「畏つてござる。
▲目代「両人ともにこれへ出い。《と云うて目代は引つ込む》
▲両人「心得ました。
▲シテ「さあさあ。乗らしめ。
▲アド「心得た。《両人ともに乗りて》
▲シテ「扨、そなたの乗つたなりは見良いが、身共が乗つたなりは、前が遠うて何とやら見苦しうおりやる。
▲アド「いやいや。さうもおりない。
▲シテ「扨、これは何として乗り出さうぞ。
▲アド「何として乗り出いたものであらうぞ。
▲シテ「某が思ふは、声を三つ掛けて、三つ目に乗り出さう。
▲アド「これは一段と良からう。
▲シテ「さらば掛けさしめ。
▲アド「心得た。
▲両人「やあ。ゑい。
▲シテ「一つよ。
▲両人「やあ。ゑい。
▲シテ「二つよ。
▲アド「今一つぢや。出し抜くまいぞ。
▲シテ「心得た。
▲両人「やあ。ゑい。はいはいはいはい。
▲シテ「やいやいやいやい。
▲アド「やあ。
▲シテ「その様に先へ行たりとも、勝ちではあるまいぞ。
▲アド「それはなぜに。
▲シテ「はて。早牛も淀、遅牛も淀と云ふ程に。晩の泊りまでには追ひ着かうぞ。
▲アド「身共が勝つたぞ。はいはいはいはい。
▲シテ「させいほうせい、させいほうせい、させいほうせい、させいほうせい。《アド、先へ駈け出す》

底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.

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