『能狂言』上22 大名狂言 あはたぐち
▲シテ「罷り出でたる者は、この辺りに隠れもない大名です。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたのお道具くらべは夥しい事でござる。それにつき、今度は持ち料の粟田口を比べさせられうとの御事でござるが、某が道具の内に粟田口があるか、太郎冠者を呼び出し、承らうと存ずる。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居るかをるか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたのお道具くらべは、何と夥しい事ではないか。
▲冠者「御意の通り、この間のあなたこなたのお道具くらべは、夥しい事でござる。
▲シテ「それよそれよ。それにつき、今度は持ち料の粟田口を比べさせられうとの御事ぢやが、某が道具の内に粟田口があるか。
▲冠者「お道具は悉く私の存じて居りまするが、粟田口と申す物は、つひに見た事もござらぬ。
▲シテ「むゝ。汝が知らずばあるまい。何としたものであらうぞ。
▲冠者「されば、何となされてようござらうぞ。
▲シテ「いゑ。都にはあらうか。
▲冠者「何が扨、都にないと申す事がござらうか。都にはござりませう。
▲シテ「それならば汝は太儀ながら、今から都へ上つて粟田口を求めて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「やい。紙に包んでも万疋はする物ぢやと云ふ程に、必ず抜かれな。
▲冠者「抜かる事ではござらぬ。
▲シテ「早う戻れ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「もう戻つたか。
▲冠者「まだお前をにじりも致しませぬ。
▲シテ「かう云ふは、油断をさせまいためぢや。急げ急げ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「早う戻れ。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せ付けらるゝお方はござらぬ。さりながら、なんどき物を仰せ付けらるゝとあつても、只今の様にわつさりと仰せ付けらるゝによつて、御奉公が致しよい。まづ急いで参らう。いや。誠に只今までのお道具くらべに、何ひと色負けさせられた事はござらぬに、今度の粟田口ひと色で負けさせられては、某までも残念にござる。随分と走り廻つて、良い粟田口を求めて参らうと存ずる。《これよりは「末広がり」同様、粟田口出て言葉を掛くるも、「末広がり」売り手と同断》
▲粟田「いやいや。身に付いた仕合せではない。洛中に人多いといへども、粟田口は身共でおりやる。
▲冠者「すれば、粟田口は人でござるか。
▲粟田「中々。
▲冠者「人を粟田口と申すには、仔細ばしござるか。
▲粟田「中々。仔細がおりやる。云うて聞かさう。ようお聞きやれ。
▲冠者「心得ました。
▲粟田「まづ都の東に、粟田口といふ在所がある。その氏生まれの者は、悉く粟田口でおりやるが、今度御大名衆に粟田口くらべがあつて、皆買ひ取らせられたれども、某は寸頃も良し、都の重宝にとあつて、残し置かれたれども、和御料が余り欲しさうに仰しやるによつて、代物によつて買はれても参らうかと存ずる事でおりやる。
▲冠者「仔細を承れば尤でござる。それならば求めませうが、代物はいか程でござるぞ。
▲粟田「万疋でおりやる。
▲冠者「誠に、頼うだ者の、紙に包んでも万疋はする物ぢやと申されてござるによつて、万疋に求めませうが、只今にもござらうか。
▲粟田「なんどきなりとも参らう。
▲冠者「まづ和御料からおりやれ。
▲粟田「まづこなたからござれ。
▲冠者「その儀ならば、案内者のために身共から参らうか。
▲粟田「それが良うござらう。
▲冠者「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲粟田「参る参る。
▲冠者「扨、かやうにふと言葉を掛け同道致すも、他生の縁でかなおりやらうぞ。
▲粟田「仰せらるゝ通り、他生の縁でかなござらうず。かう参るからは、こなたを寄り親殿と頼みまする。良い様に引き廻いて下されい。
▲冠者「その分は気遣ひさしますな。扨、いづれも粟田口をご重宝なさるゝは、いかやうな事でおりやるぞ。
▲粟田「只今は、天下治まりめでたい御代なれば、左様の事はござらねども、もし人のお語らひ勢などに御出なさるゝ時分、千騎万騎召し連れられうよりも、この粟田口いち人お馬の先に立てば、いかなる満々たる敵も、夏の蚊や蠅を大団扇で逐ふ如く、又、雪霜に水を掛くる如く、片端よりめつきめつきと滅却致し、その上いかなる悪魔々縁までも引き退ぞくによつての御重宝でござる。
▲冠者「すれば、お大名の御重宝なされいで叶はぬものでおりやる。
▲粟田「その通りでござる。
▲冠者「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲粟田「参る参る。
▲冠者「戻つて、頼うだ人に今の通りを申し上げたならば、殊ない御満足であらうぞ。
▲粟田「それは一段の事でござる。扨、程は遠うござるか。
▲冠者「もそつとぢや。随分急がしめ。
▲粟田「心得ました。
▲冠者「いや。何かと云ふ程に、これでおりやる。
▲粟田「これでござるか。
▲冠者「和御料を同道した通り申し上げう。まづそれにお待ちやれ。
▲粟田「心得ました。
▲冠者「申し。頼うだ人。ござりまするか。太郎冠者、戻りましてござる。
▲シテ「いゑ。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者、戻つたか戻つたか。
▲冠者「ござりまするか、ござりまするか。
▲シテ「ゑい。戻つたか。
▲冠者「只今戻りました。
▲シテ「やれやれ、大儀や。してして、云ひ付けた粟田口を求めて来たか。
▲冠者「まんまと求めて参りました。
▲シテ「出かいた出かいた。これへ見せい。
▲冠者「いや。お手へ上ぐるものではござらぬ。
▲シテ「扨、粟田口は何ぢや。
▲冠者「人でござる。
▲シテ「何ぢや。人ぢや。
▲冠者「中々。
▲シテ「人を粟田口と云ふは、何ぞ仔細でもあるか。
▲冠者「中々。仔細がござる。《粟田口の云うた通りを云うて》悉く買ひ取らせられてござれども、私の求めて来た粟田口は、寸頃も良し、都の重宝にとあつて残し置かれたれども、私の才覚を以て求めて参りました。
▲シテ「それは一段とでかいた。扨、どこ元に置いた。
▲冠者「まだ御門外に置きました。
▲シテ「何ぢや。門外に置いた。
▲冠者「中々。
▲シテ「やい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「初めからある事は、のちまでもあると云ふによつて。きやつが聞く様に過を云はう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「汝はあまたに答へい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「やいやい。居るかやい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「床机持て来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「床机床机。
▲冠者「はあ。お床机でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ出い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「何と、今のは聞かうか。
▲冠者「夥しいお声でござるによつて、定めて承りませう。
▲シテ「行て云はうは、粟田口に、遥々の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合はいて見たいが、合うてくれうかと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
なうなう。おりやるか。
▲粟田「これに居りまする。
▲冠者「何と、今のお声をお聞きやつたか。
▲粟田「あれは、どなたのお声でござる。
▲冠者「あれが、頼うだ人のお声でおりやる。
▲粟田「まづお声から致いて、お大名と聞こえまする。
▲冠者「くわつとお大名でおりやる。扨、頼うだ人仰せらるゝは、粟田口に、遥々の所を太儀にこそあれ。さうあれば、こゝに粟田口の書いた物がある。これに引き合はいて見たいが、合うてくれうかと仰せらるゝ。
▲粟田「いかやうにも合ひませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。
はあ。いかやうにも合ひませうと申しまする。
▲シテ「合はうと云ふか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「それならば、先度伯父者人より粟田口の書いた物をくれられた。違ひ棚にあらう程に、取つて来い。
▲冠者「畏つてござる。
はあ。これでござるか。
▲シテ「をゝ。これこれ。書いた物は調法ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「さらば、読うで見よう。何々。粟田口の、粟田口の。これは何ぢや。
▲冠者「はあ。
私にも読めませぬ。
▲シテ「真で書いてあるによつて読めぬ。定めて、書の事。であらう。
▲冠者「左様でござらう。
▲シテ「何々。粟田口の書の事。東林東馬とて、ふた流れあるべし。きやつはいづれの流れぢや。問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。とうりんとうまとてふた流れあるが、いづれの流れぢやと仰せらるゝ。
▲粟田「東馬の流れぢやと仰せられい。
▲冠者「心得た。
はあ。東馬の流れぢやと申しまする。
▲シテ「はゝあ。東林は庶子、東馬は総領たるべし。きやつは惣領筋ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「粟田口は身の古き物なり。身が古いか問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
身が古いかと仰せらるゝ。
▲粟田「生まれてこの方、湯風呂を使ひませぬによつて、随分古うござると仰せられい。
▲冠者「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「すれば、古い筈ぢや。さりながら、側近う使ふには、ちとむさいなあ。
▲冠者「いづれ綺麗にはござらぬ。
▲シテ「粟田口は鎺元黒かるべし。はゞき元が黒いか問うて来い。
▲冠者「《その通り云ふ》
▲粟田「常に黒いはゞき(脛巾)を致いて居りまするによつて、随分黒うござると仰せられい。
▲冠者「心得た。《その通り云ふ》
▲シテ「すれば、これも黒い筈ぢや。粟田口は刄の強き物なり。はが強いか問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲粟田「只今お前で岩巌石なりとも噛み砕いてお目に掛けうと仰せられい。
▲冠者「あの、そなたが。
▲粟田「中々。
▲冠者「扨々、強い歯を持つた人ぢや。《その通り云ふ》
▲シテ「あの、きやつが。
▲冠者「中々。
▲シテ「扨々、強い歯を持つた奴ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「粟田口は銘あるべし。銘なくばにせ物たるべし。いゑ。これが一大事の事ぢや。早う問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲粟田「上京と下京に姉と妹を持つてござるが、これにをなごの子がひとりづゝござる。こればし姪の内でござらうかと仰せられて下されい。
▲冠者「これは姪でありさうなものぢや。《その通り云ふ》
▲シテ「姪とも姪とも。はゝあ。もろめいは上作たるべし。すればきやつは上作物ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「寸は次第不同。これは問ふに及ばぬ。扨、いづれも粟田口を御重宝なさるゝは、いかやうな事ぢや。問うて来い。
▲冠者「これは路次で承つてござるが、只今は天下治まりめでたい御代なれば。《これより、前、路次にて聞く通り云ふなり》悪魔々縁でも引き退ぞくによつての御重宝でござると申しまする。
▲シテ「すれば、大名の重宝せいで叶はぬものぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「行て云はうは、粟田口に、書に悉く合うてくれて満足する。さうあれば、山一つあなたに正真の粟田口を持たれたお方があるによつて、これへ同道して引き合はいて見たいが、行てくれうかと云うて問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。《その通り云ふ》
▲粟田「いづ方までもお供致しませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。
はあ。きやつが申しまする。いづ方までもお供致さうと申しまする。
▲シテ「行かうと云ふか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「それならば、粟田口をこれへ出せ。
▲冠者「心得ました。
粟田口。あれへお出やれ。
▲粟田「心得ました。
▲冠者「つゝとお出やれ。
はあ。粟田口、出ましてござる。
▲シテ「なうなう。粟田口。
▲粟田「はあ。
▲シテ「今は、書に悉く合うてくれて満足する。又、山一つあなたへ同道せうと云へば、行かうとあつて過分に存ずる。
▲粟田「いづ方へなりとも参りませう。
▲シテ「太郎冠者。太刀を持て。
▲冠者「畏つてござる。
はあ。お太刀を持ちましてござる。
▲シテ「これへおこせ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「扨、汝をも供に連れうずれども、あの粟田口一人供に連るれば、千騎万騎に向かふと聞いた。そちは草臥れにもあらう程に、行て休め。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「粟田口。お立ちやれ。
▲粟田「畏つてござる。
▲シテ「さあさあ。おりやれおりやれ。
▲粟田「参りまする参りまする。
▲シテ「扨、粟田口といふは、そちが名か。
▲粟田「粟田口は在名でござる。
▲シテ「名は何と云ふぞ。
▲粟田「東馬が流れでござるによつて、名をば東馬の丞と申しまする。
▲シテ「むゝ。すれば、粟田口と呼うでも、又、東馬の丞と呼うでも答ふるぢやまで。
▲粟田「中々。答へまする。
▲シテ「答へまする答へまする。《笑うて》扨も扨も、粟田口と申すものは、ものをはつしはつしと申して、近頃面白い者でござる。路次すがら、きやつが名を呼うで参らうと存ずる。
いや。なうなう。粟田口。
▲粟田「はあ。
▲シテ「路次すがらそなたの名を呼うで行かう程に、答へさしめや。
▲粟田「畏つてござる。
▲シテ「粟田口。おりやれ。
▲粟田「参りまする。
▲シテ「東馬の丞は、わするか。
▲粟田「これに候ふ。
▲シテ「粟田口。
▲粟田「お前に。
▲シテ「東馬の丞。
▲粟田「これに候ふ。
《幾つも云うて、段々詰めて》
▲シテ「《笑うて》扨も扨も、面白い事でござる。とてもの事に、身を軽うして呼ばうと存ずる。
なうなう。粟田口。
▲粟田「はあ。
▲シテ「とてもの事に、身を軽うして呼ばう程に、この太刀刀を持つてくれさしめ。
▲粟田「畏つてござる。
▲シテ「これからは、某が呼ばう様におこたやれや。
▲粟田「畏つてござる。
▲シテ「《謡》粟田、粟田口。
▲粟田「《謡》お前に候ふ。
▲シテ「《謡》東馬の丞。
▲粟田「《謡》これに候ふ。
▲シテ「粟田口。
▲粟田「お前に。
▲シテ「東馬の丞。
▲粟田「これに候ふ。
《又幾度も返して、段々詰めて》
▲シテ「《笑うて》扨も扨も、面白い事かな。かやうに致いて参るならば、いつ参り着くともなう、参り着くでござらう。《この言葉の内、「良い時分でござる。外さう」と云うて、粟田口は引つ込む》
粟田口。東馬の丞。いや。これこれ。それへ粟田口は鞘走らぬか。ぢやあ。いや。なうなう。そこ元へ東馬の丞は錆び付かぬか。ぢやあ。《謡》
粟田口、粟田口、行き来の人に東馬の丞、太刀も刀も吸はれたり。よくよく物を案ずるに、今の奴は都の誑しめにてありけるぞや。
南無三宝。しないたるなりかな。いゑ。今の粟田口、どれへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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