『能狂言』上23 大名狂言 いるまがは
▲シテ「東国に隠れもない大名です。永々在京致す処に、訴訟悉く叶ひ、安堵の御教書を頂き、新地を過分に拝領致し、その上国元への御暇までを下されてござる。この様なありがたい事はござらぬ。まづ太郎冠者を呼び出いて、悦ばせうと存ずる。やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居るか居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「そちを呼び出す事、別なる事でもない。永々在京する処に、訴訟悉く叶ひ、安堵のみ教書を頂き、新地を過分に拝領したは、何とありがたい事ではないか。
▲冠者「かやうのお仕合せを待ち受けまする処に、近頃めでたう存じまする。
▲シテ「それよそれよ。それにつき、又汝が悦ぶ事があるいやい。
▲冠者「それはいかやうの事でござるぞ。
▲シテ「国元へのおいとまゝでを下された。
▲冠者「これは重ね重ね、思し召す儘のお仕合せでござる。
▲シテ「扨、追つ付けて国元へ下らう程に、汝は太刀を持つて供をせい。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
はあ。お太刀を持ちましてござる。
▲シテ「何と持つたか。
▲冠者「中々。
▲シテ「さあさあ、来い来い。
▲冠者「参りまする。
▲シテ「国元を出る時は、我も我もと供をしたれども、永々の在京なれば、皆国元へ下つてあるに、汝一人はよう奉公をしたによつて、国元へ下つたならば、くわつと取り立てゝとらせうぞ。
▲冠者「それは悦ばしい事でござる。
▲シテ「馬に乗せう。
▲冠者「尚々でござる。
▲シテ「が、乗り付けぬ馬に乗れば、必ず落つるものぢやによつて、馬に乗るまでは牛に乗せう。
▲冠者「それはともかくも御意次第でござる。
▲シテ「《笑うて》これは戯れ言。馬に乗る程に取り立てゝとらせうぞ。
▲冠者「それは近頃でござる。
▲シテ「さあさあ。来い来い。
▲冠者「参りまする。
▲シテ「はゝあ。富士山。はあ。三国一の名山ぢやと褒めて置かれたが、どれから見ても形の良い山ではないか。
▲冠者「誠に、どれから見ましても、なりの良い山でござる。
▲シテ「すれば、駿河の国ぢや。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「国元へは近うなつた。急げ急げ。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「千里の道も一歩より起こると。都をづる時は遥々の様に思うたが、はや駿河の国までは来たわ。
▲冠者「誠に駿河の国までは御出なされてござる。
▲シテ「はゝあ。これは又渺々とした広い野へ出たが、これは何といふ野ぢや。
▲冠者「されば何と申す野でござるか、存じませぬ。
▲シテ「これは定めて武蔵野であらう。
▲冠者「左様でござらう。
▲シテ「はて。武蔵野をのけて、この様な大きな野はあるまい。
▲冠者「誠に、この様な広い野は、武蔵野の他にはござるまい。
▲シテ「すれば、武蔵の国ぢや。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「国元へはいよいよ近い。急げ急げ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「国元ではこの様な事は知らいで、今日か明日かと待ち兼ねて居るであらうなあ。
▲冠者「殊ないお待ち兼ねでござらう。
▲シテ「戻つてこの様子を話いたならば、さぞ悦ぶであらう。
▲冠者「さぞお悦びでござりませう。
▲シテ「これは又大きな川へ出たが、これは何といふ川ぢや。。
▲冠者「されば何と申す川でござるか、私も覚えませぬ。
▲シテ「定めて上りに渡つたであらうが、はつたと忘れた。
▲冠者「私も忘れました。
▲シテ「川の名が問ひたいが、辺りに人はないか。
▲冠者「誰も見えませぬ。
▲シテ「いや。川向かひに人が見ゆる。問うて見よう。
▲冠者「それが良うござらう。
▲川向ひ「これは入間の何某です。所用あつて川向かひへ参る。まづ急いで参らうと存ずる。
▲シテ「やいやい。向かひの者に、物問はうやい。
▲川向「これはいかな事。この辺りであの様に某に横柄に申す者はござらぬ。定めて道通りであらう。こちからも返答の致し様がござる。やいやい。向かひな者に物が問ひたいと云ふは、こちの事か。何事ぢやいやい。
▲シテ「太刀をおこせ。
▲冠者「まづ待たせられい。
▲シテ「今のを聞かぬか。
▲冠者「さればその事でござる。お国元でこそ、こなたをお大名と存じて居りますれ、こゝ元では存じますまい程に、只お言葉を直いて問はせられい。
▲シテ「むゝ。これは尤ぢや。こゝ元では知るまい。それならば言葉を直いて問はう。
▲冠者「それが良うござらう。
▲シテ「いや。申し申し。向かひな人に物が問ひたうござる。
▲川向「さればこそ言葉を直いた。又、こちからも言葉を直いて申さう。いや。申し申し。向かひの者に物が問ひたいと仰せらるゝは、こちの事でござるか。何事でばしござるぞ。
▲シテ「何事でばしござるぞござるぞ。《笑うて》やいやい。太郎冠者、太郎冠者。
▲冠者「何事でござるぞ。
▲シテ「さればこそ言葉を直いた。
▲冠者「直しましてござる。
▲シテ「昔からも、売り言葉に買ふ言葉とは、よう云うたものぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「川の名を問はう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「申し申し。この川は何と申すぞ。
▲川向「入間川と申す。
▲シテ「やい。太郎冠者。入間川ぢやと云ふ。
▲冠者「左様に申しまする。
▲シテ「すれば、上りに渡つたものを、はつたと忘れた。
▲冠者「私も忘れました。
▲シテ「いや。申し申し。向かひの宿は。
▲川向「入間のしゆく。
▲シテ「方々の御名字は。
▲川向「いゝや。名もない者でござる。
▲シテ「見ますればご仁体と見受けてござる。包まずと、お名を仰せられい。
▲川向「身、不肖ながら、入間の何某です。
▲シテ「あつ。やい。太郎冠者。入間の何某ぢやと云ふ。
▲冠者「左様に申しまする。
▲シテ「すれば、最前横柄に云うたは尤ぢやなあ。
▲冠者「尤でござる。
▲シテ「渡り瀬を問はう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「申し申し。この川は、どこ元を渡りまするぞ。
▲川向「古へはこの通りを渡つてござれども、今は瀬が違うて上へ廻りまする程に、方々にもかみへ廻らせられい。
▲シテ「何と仰せらるゝぞ。前はこの通りを渡つたれども、今は瀬が違うて上へ廻るによつて、某にも上へ廻れでござるの。
▲川向「中々。
▲シテ「真実、入間川でござるの。
▲川向「をゝ。入間川でござる。
▲シテ「太郎冠者。渡り瀬が知れた。某に引つ添うて渡れ。
▲冠者「申し申し。上へ廻れと申されまする。
▲川向「いや。申し。上へ廻らせられい。
▲シテ「向かひの宿は。方々の御名字は。
▲冠者「これはいかな事。ひと絞りにならせられた。
▲川向「それ故上へ廻らせられいと申したに。扨々、気の毒な事かな。
▲シテ「お直りそへ。
▲川向「何と召さる。
▲シテ「何とするとは。覚えがあらう。
▲川向「いや。覚えはおりない。
▲シテ「最前この川の名を問へば、入間川とは仰しやらぬか。
▲川向「はて。入間川ぢやによつて入間川と申した。
▲シテ「向かひの宿は入間の宿。方々の御名字はと問へば、入間の何某とは仰しやらぬか。
▲川向「何某ぢやによつてなにがしと申した。
▲シテ「昔より入間様と云うて、この所ではさか言葉に使ふと聞いた。上へ廻れと云ふはこの所を渡れといふ事かと思うて渡つたれば、諸侍に欲しうもない水をほつてとお飲ましやつた。堪忍ならぬ。成敗致す。
▲川向「扨は、方々には、入間やうの逆言葉をご存じあつて、ご成敗をなさるゝぢやまで。
▲シテ「おんでもない事。
▲川向「とてもの事に、御誓言で承らう。
▲シテ「弓矢八幡、成敗致す。
▲川向「あゝ。心安や。ざつと済んだわ。
▲シテ「ざつと済んだとは。
▲川向「さればその事でござる。私も年久しうこの所に住まひ致せども、入間様のさか言葉を存ぜぬ処に、方々にはようご存じあつて、弓矢八幡成敗なされうとのお事は、はて入間様ならば、御成敗なされまいとのお事かと存じて、それ故ざつと済んだと申した。
▲シテ「それでの。
▲川向「中々。
▲シテ「太郎冠者。これにほうど詰まつた。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「命を助けずばなるまい。
▲冠者「お助けなされずばなりますまい。
▲シテ「いや。なうなう。方々の命を助くるでもおりないぞ。
▲川向「命を助けても下さらねば、忝うもござらぬ。
▲シテ「忝うもござらぬござらぬ。《笑うて》やいやい。太郎冠者、太郎冠者。人に命を助けて貰うて、忝うないは面白いなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「何ぞおませたいものぢやが。いや。なうなう。
▲川向「やあやあ。
▲シテ「この扇子は京扇でもなし、又、さし古しもせぬものを、これをそなたへおまするでもおりないぞ。
▲川向「はあ。この扇子は京扇でもなし、又、おさし古しもなされぬものを、私へ下されもなされねば、祝着にもござらぬ。
▲シテ「ござらぬござらぬ。《笑うて》太郎冠者、太郎冠者。物を貰うて祝着にないは、何と面白いではないか。
▲冠者「中々。面白うござる。
▲シテ「又何ぞおませたいものぢやが。いや。申し申し。
▲川向「やあやあ。
▲シテ「この太刀かたなでもないものは、重代わざよしでもないものを、これも和御料に進ずるでもおりないぞ。
▲川向「はあ。このお太刀刀でもないものは、ご重代業良しでもないものを、私へ下されもなされねば、満足にもござらぬ。
▲シテ「ござらぬござらぬ。《又笑うて》扨々、面白い人ではないか。
▲冠者「いかにも面白い人でござる。
▲シテ「汝も何ぞ遣らぬか。
▲冠者「私は何もござらぬ。
▲シテ「吝い事を云ふ。この小袖上下を遣らう。
▲冠者「いや。それはいらぬ物でござる。
▲シテ「おのれが何を知つて。早う取つてくれい。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「何と良いか。
▲冠者「一段と良うござる。
《と云うてから、太郎冠者引つ込む》
▲シテ「いや。なうなう。
▲川向「やあやあ。
▲シテ「この小袖上下でもないものは、この川へはまりもせねば濡れもせぬものを、これもそなたへおまするでもおりないぞ。
▲川向「はゝあ。このお小袖お上下でもないものは、この川へはまりもなされねば濡れもせぬものを、私へ下されもなされねば、大慶にもござらぬ。
▲シテ「ござらぬござらぬ。《又笑うて》扨も扨も面白い事かな。この様な面白い事はござらぬ。《この言葉の内》
▲川向「良い時分でござる。外さうと存ずる。
▲シテ「いや。入間殿がどちへやら行かれた。いや。なうなう。入間殿、入間殿。
▲川向「やあやあ。
▲シテ「どれへおりやるぞ。
▲川向「これを置いて参るまい。
▲シテ「いや。それがないによつての事ぢや。まづこちへおりやるな。
▲川向「心得ました。
▲シテ「扨、今までは入間様。その入間やうをのけて、真実嬉しいか嬉しうないかを仰しやれ。
▲川向「申し。こなたもよう思うても見させられい。この様に御小袖、御上下、御太刀刀、御扇子まで拝領致いて、忝うないと申す事がござらうか。真実祝着にもござらぬ。
▲シテ「それは入間様で合点ぢや。その入間様をこの川へさらりと流いて、真実を仰しやれと云ふに。
▲川向「申し。こなたもよう思し召しても見させられい。この様に色々拝領致いて、忝うないと申す事がござらうか。身に余つて満足にもござらぬ。
▲シテ「やあら。こゝな人は。身共をなぶるか。その入間様をのけて真実を云はねば、後へも先へも遣る事ではおりないぞ。
▲川向「申し。こなたもよう思し召しても御らうぜられい。この様に御小袖御上下御太刀刀扇子までを下されて、忝うないと申す事があるものでござるぞ。身に余つて忝うござる。
▲シテ「ざつと済んだわ。
▲川向「済んだとは。
▲シテ「はて。入間様ならば、忝うないといふ事であらう。こちへおこさしめ。
▲川向「あの横着者。誑された。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
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