『能狂言』上25 大名狂言 ふみずまふ
▲シテ「遠国に隠れもない大名です。かやうに過をば申せども、召し使ふ者は只いち人でござる。一人では使ひ足らぬによつて、今度新参の者をあまた抱へうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。
やいやい。太郎冠者。あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居るか居るか。
▲冠者「はあ。
▲シテ「居たか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「念なう早かつた。まづ立て。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「汝を呼び出す事、別なる事でもない。そち一人では使ひ足らぬによつて、新参の者をあまた抱へうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存ずる処に、一段と良うござりませう。
《これより「今参り」同断。太郎冠者、道行して、上下の街道に待ち合はする処も「今参り」同断。取り手名乗り、道行も「今参り」同断。太郎冠者、言葉を掛けて抱へ、同道して道行も「今参り」同断。扨、国を問ふ時》
▲取り手「遥か遠国でござる。
▲冠者「遠国と聞けば国がゆかしい。扨、和御料は何ぞ芸があるか。
▲取手「芸と申して深しい事もござらぬが、弓鞠庖丁碁双六、馬の伏せ起こし、間にやつと参つたを致しまする。
▲冠者「あの、そなたが。
▲取手「中々。
▲冠者「扨々、万能な人ぢや。さあさあ。おりやれおりやれ。
▲取手「参る参る。
▲冠者「頼うだお方へ和御料の芸能の事を申し上げたらば、殊ない御機嫌であらうぞ。
▲取手「それは一段の事でござる。扨、程は遠うござるか。
▲冠者「今少しぢや。急がしめ。
▲取手「心得ました。
▲冠者「いや。何かと云ふ内に、これでおりやる。
▲取手「これでござるか。
▲冠者「中々。そなたを同道した通り申し上げう。まづそれに待たしめ。
▲取手「心得ました。
《これより又「今参り」同断。過を云うて、目で使ふまでは何も変りなし。目で使うて》
▲シテ「やいやい。太郎冠者、太郎冠者。
▲冠者「何事でござる。
▲シテ「今のを見たか。
▲冠者「見ましてござる。
▲シテ「某が目の行く方へ、あちらへはちらり、こちらへはちらり、ちらりちらりちらり。《笑うて》出かし居つたなあ。
▲冠者「出かしましてござる。
▲シテ「扨、きやつが国はいづ方ぢやと云ふ。
▲冠者「遥か遠国ぢやと申しまする。
▲シテ「はあ。遠国ぢやと聞けば国がゆかしい。扨、きやつは何ぞ芸があるか、問うて来い。
▲冠者「それは路次で承つてござるが、芸と申して深しい事でもござらぬ。弓鞠庖丁碁双六、馬の伏せ起こし、あひにやつと参つたを致すと申しまする。
▲シテ「あの、きやつが。
▲冠者「中々。
▲シテ「扨々、まん能な奴ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「さりながら、某が内にいらぬ芸がある。
▲冠者「いや。いづれもご調法でござるがの。
▲シテ「はて。馬は持たず。犬ころかなどの伏せ起こし。
▲冠者「しい。きやつが承りまする。
▲シテ「馬の伏せ起こし。いち調法ぢやなあ。
▲冠者「ご調法でござる。
▲シテ「扨、人といふものは、中にも得た芸があるものぢやが、きやつは何を得て居るぞと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
いや。これこれ。
▲取手「何事でござる。
▲冠者「そなたの芸能の事を申し上げたれば、殊ない御機嫌ぢや。それにつき、人といふものは得た芸のあるものぢやが、和御料は中にも何を得て居るぞと仰せらるゝ。
▲取手「最前路次で申し落としました。中にも相撲を得て取りますると仰せられい。
▲冠者「相撲を得て取る。
▲取手「中々。
▲冠者「心得た。
きやつが申しまする。最前路次で申し落といてござる。中にも相撲を得て取ると申しまする。
▲シテ「何ぢや、相撲を得て取る。
▲冠者「中々。
▲シテ「いゑ。幸ひ某が相撲好きぢや。これへ出て取れと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
これこれ。あれへ出て取れと仰せらるゝ。
▲取手「相手を下されいと仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し。相手を下されいと申しまする。
▲シテ「はて。相手に及ばうか。ひとり取れと云へ。
▲冠者「それでは勝ち負けが知れますまい。
▲シテ「誠に、勝ち負けが知れまい。誰に取らせたものであらうぞ。
▲冠者「誰が良うござらうぞ。
▲シテ「風呂を焚く道金に取らせう。
▲冠者「きやつも年が寄りまして、すねが流れてえ取りますまい。
▲シテ「誠に、すねが流れてえ取り居るまい。誰が良からうぞ。
▲冠者「誰が良うござらうぞ。
▲シテ「汝、取れ。
▲冠者「私はつひに取つた事がござらぬ。
▲シテ「つひに取つた事がなくば取られまい。誰が良からうぞ。
▲冠者「誰が良うござらうぞ。
▲シテ「相撲は見たし、相手はなし。良い良い。某が取らう。
▲冠者「あの、こなたが{*2}。
▲シテ「行て云はうは、相撲の者をあまた持つたれども、今日は方々へ差し遣うて一人も居らぬ。某が取らうが相手になるかと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
いや。これこれ。頼うだ人仰せらるゝは、相撲の者をあまた持つたれども、今日は方々へ差し遣はされていち人も居らぬによつて、頼うだお方の取らせられうが、お相手になるかと仰せらるゝ。
▲取手「慮外にはござれども、御意次第ぢやと仰せられい。
▲冠者「取らうぢやまで。
▲取手「中々。
▲冠者「心得た。
きやつが申しまするは、慮外にはござれども、御意次第ぢやと申しまする。
▲シテ「取らうと云ふか。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「はつ。きやつが相撲も知れた。下手であらう。
▲冠者「それはなぜにでござる。
▲シテ「はて。某を取つて打ちつけて、誰が扶持をするものぢや。
▲冠者「これは御尤でござる。
▲シテ「さりながら、相撲が見たいによつて、身拵へをしてこれへ出いと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「身共にも身拵へをしてくれい。
▲冠者「心得ました。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
いや。なうなう。身拵へをしてあれへ出いと仰せらるゝ。
▲取手「心得ました。
▲シテ「何と、身拵へは良さゝうなか。
▲冠者「一段と良うござる。
▲シテ「それならば、きやつにもこれへ出いと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。身拵へが良くば、あれへお出やれ。
▲取手「畏つてござる。
▲冠者「新参の者。出ましてござる。
▲シテ「汝は行司をせい。
▲冠者「畏つてござる。
やあ。お手。
▲取手「いや。《と云うて、手を叩く》
▲冠者「申し。頼うだ人。申し。頼うだお方、頼うだお方。
▲シテ「誰ぢや。
▲冠者「私でござるが、何となされました。
▲シテ「太郎冠者か。
▲冠者「中々。何となされました。
▲シテ「扨々、きやつが相撲は早い相撲ぢや。やつと云ふ。おつ開く。何やら目の前で、はしはしはしと云ふと思うたれば、目がくるくると舞うた。今のは何といふ手ぢや。問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
これこれ。今のは何といふ手ぢやと仰せらるゝ。
▲取手「あれは私の国元で流行る、目隠しと申す手でござると仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。
申し。きやつが申しまするは、あれが国元ではやる目隠しと申す手ぢやと申しまする。
▲シテ「何ぢや。目隠しといふ手ぢや。
▲冠者「中々。
▲シテ「扨、今のは某が負けか。
▲冠者「いづれお勝ちとは見えませぬ。
▲シテ「扨々、きやつに負くるといふは、腹の立つ事ぢやなあ。
▲冠者「私までも残念にござる。
▲シテ「何とぞして勝ちたいものぢや。
▲冠者「何とぞお勝ちなさるゝ様に致したい事でござる。
▲シテ「いや。それについて、先度伯父者人より相撲の書いた物をくれられた。違ひ棚にあらう。取つて来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「ゑい。
▲冠者「はあ。
申し。これでござるか。
▲シテ「をゝ。これこれ。書いたものは重宝ぢやなあ。
▲冠者「御重宝でござる。
▲シテ「読うで見よう。何々。相撲の、相撲の。太郎冠者。これは何ぢや。
▲冠者「私も読めませぬ。
▲シテ「真で書いてあるによつて読めぬ。定めて、書の事。であらう。
▲冠者「左様でござらう。
▲シテ「何々。相撲の書の事。やつと云ふ。おつ開く。目隠し丁々と打つ。その時、顔をちやつと引くべし。はあ。顔を引いたならば負けまいものを。
▲冠者「お勝ちになりませうものを。
▲シテ「扨その後、左を取つて右へ廻し、右を取つて左へ廻し、小股を取つて、づでいどう。今一番取らうと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
これこれ。今一番取らうと仰せらるゝ。又あれへ出さしめ。
▲取手「心得ました。
▲冠者「新参の者。出ましてござる。
▲シテ「今度は心得て行司をせい。
▲冠者「畏つてござる。
やあ。お手。
▲両人「いやあいやあ。やつとな。いやあいやあ。やつとな。
▲シテ「やつとなやつとなやつとな。
勝つたぞ勝つたぞ。相撲といふものは、かう取るものぢやいやい。
▲冠者「こなたのお勝ちでござる、お勝ちでござる。
▲取手「申し。太郎冠者殿、太郎冠者殿。
▲冠者「いや。きやつが呼びまする。行て参りませう。
▲シテ「行て来い行て来い。
▲冠者「何事でおりやる。
▲取手「総じて、相撲の手もあまたござれども、只今の様に握り拳を以て張り廻らせらるゝは、何と申すお手でござると云うて、問うて下されい。
▲冠者「心得た。
きやつが申しまする。相撲の手もあまたござれども、只今の如く握り拳を以て張り廻らせらるゝは、何と申すお手でござると申しまする。
▲シテ「総じて相撲の手は四十八手とは云へども、砕けば百様にも二百様にも取る。あれはこゝ元ではやる張り相撲。こつゝもはつゝも取りたからう様に取れと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「え取り居るまいぞ。
▲冠者「え取らうとは申しますまい。《その通り云ふ》
▲取手「今一番取らうと仰せられい。
▲冠者「それはいらぬものでおりやる。
▲取手「取りませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。
今一番取らうと申しまする。
▲シテ「いや。さうは云ふまいがの。
▲冠者「いや。取らうと申しまする。
▲シテ「むゝ。今度取つたならば、地へ三尺打ち込まう。さうあらば、命があるまい。国元へ云ひ置きたい事があらば云ひ置け。届けて取らせうと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「やいやい。同じくは取らぬ様にせい。
▲冠者「心得ました。
なうなう。今度取つたならば、地へ三尺打ち込まう。さうあらば、命があるまい。国元へ云ひ置きたい事があらば云ひ置け。届けて取らせうと仰せらるゝ。
▲取手「国元を出まするからは、別に申し残す事もござらぬ。あはれ、殿様のお手にかゝり、地へ三尺打ち込まれ、今生後生の鬱退に致したいと仰せられい。
▲冠者「あの、そなたが。
▲取手「中々。
▲冠者「扨々、強い事を云ふ人ぢや。《その通り云ふ》
▲シテ「あの、きやつが。
▲冠者「中々。
▲シテ「扨々、強い事を云ふ奴ぢやなあ。
▲冠者「左様でござる。
▲シテ「きやつは定業があをつと見えた。志が不憫な。取つて取らせう。これへ出いと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。取つて取らせうと仰せらるゝ。あれへお出やれ。
▲取手「心得ました。
▲冠者「新参の者。出ましてござる。
▲シテ「又、心得て行司をせい。
▲冠者「畏つてござる。
いや。お手。
▲両人「いやあいやあ。やつとな。いやあやあ。やつとな。
▲シテ「これは何とするぞ、何とするぞ、何とするぞ。
《取り手、打ちこかして、「参つたの」と云うて引つ込む。シテ起き上がり、書を引き裂き捨て》
▲シテ「やい。太郎冠者。おのれはそれに何をして居るぞ。
▲冠者「相撲を見物致いて居りまする。
▲シテ「一番参らう。
▲冠者「何となされまするぞ。
▲シテ「やあ。やあ。や。お手。《と云うて、手を打つて留める》
校訂者注
1:底本は、「こなたの」。『狂言全集』(1903)に従い改めた。
底本『能狂言 上』(笹野堅校 1942刊 国立国会図書館D.C.)
コメント